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生命はどのようにして始まったか

生命はどのようにして始まったか

第3章

生命はどのようにして始まったか

わたしたちの地球には生命がみなぎっています。氷雪に覆われた極地地方からアマゾンの雨林まで,サハラ砂漠からフロリダのエバーグレーズ沼沢地まで,暗い海の底から光あふれる山々の頂にまで,生物が満ち満ちています。しかも,それら生き物は,わたしたちを驚嘆させるものをいっぱいに秘めています。

生物は,種類の豊富さ,大小の違い,数のおびただしさの点でわたしたちの想像を超えています。地上では100万種の昆虫が羽音を立て,あるいは這い回っています。周囲の水の中には,2万種あまりの魚類が泳いでいます。米粒ぐらいのものもいれば,貨物トラックほどの長さのものまでいます。少なくとも35万種の植物が地を飾っています。風変わりなものもありますが,ほとんどはいたって優美です。そして頭上には,9,000種を超える鳥類が飛び交っています。これらの生き物にさらに人間が加わって,生命と呼ばれるもののパノラマとシンフォニーが作り出されています。

しかし,わたしたちの周囲にあって目に楽しみとなるこうした多様性にもまして驚きとなるのは,むしろこれらを結び合わせている深遠な統一性です。生化学者たちは,地上のさまざまな生物のいわば皮膚の下をのぞき込んでいます。そして,アメーバにせよ人間にせよすべての生き物が,畏敬を感じさせるような一つの相互作用,すなわち核酸(DNAとRNA)とタンパク質分子との共同作業<チームワーク>に依存している,と説明しています。これら構成要素相互の入り組んだ過程は,わたしたちの体のほとんどすべての細胞の中に見られ,またハチドリやライオンやクジラの細胞の中でも同じように生じています。この一様な相互作用によって,生命の美しいモザイクが織り成されています。生物界のこうした全体的調和は,どうして生じたのでしょうか。そうです,生命はどのようにして始まったのでしょうか。

あなたも,地球上に生命が全く存在しなかった時期のあることを認められるでしょう。科学上の見解もその点で一致していますし,宗教関係の多くの書物もそのことを認めています。とはいえ,これらの二つ,つまり科学と宗教は,地上で生命がどのように始まったかについて説明を異にしているということも,あなたは知っておられるでしょう。

あらゆる教育レベルの非常に大勢の人々が,理知ある創造者,つまり最初の設計者がいて地上の生命を造り出した,と信じています。いっぽう多くの科学者は,生命は次から次へと化学的な段階を経て無生の物質から生じてきたのであり,これはただ偶然性によるとしています。どちらなのでしょうか。

わたしたちはこれを,自分とあまり関係のない事柄,また意義ある人生を見いだすこととは無縁の問題と考えるべきではありません。すでに述べたとおり,生きる人間として自分たちがどこから来たのかということは,人類が答えを得ようとしてきたきわめて基本的な疑問の一つなのです。

科学のたいていの講座は,生命がそもそもどのように始まったのかという核心となる疑問よりも,すでにある生物の適応とか生存とかいう点をもっぱら論じています。気づいておられるかもしれませんが,生命がどのようにして生じたかという説明の試みと言えば,『何億年もの間に分子同士の衝突により何らかの形で生命が生み出された』と概説されるのが普通です。しかし,これは本当に満足のゆく説明でしょうか。太陽,稲妻,火山などからのエネルギーが存在するところで,何らかの無生の物質が作用し,組織化され,やがて命あるものとして始まった,しかもそのすべては何ら方向づけのある助けなしになされた,というのです。それは何と大きな飛躍だったのでしょう! 命を持たない物質が,命のあるものになったのです! そのような事が,説明のとおりに起き得たのでしょうか。

中世であれば,そのような考えも問題なく受け入れられるように思えたことでしょう。自然発生,つまり生物は無生の物質から自然に生じ得るという概念が支配的だったからです。やがて17世紀に,イタリアの医師フランチェスコ・レディは,腐った肉にウジが発生するのはそこにハエが卵を産みつけた場合だけであることを立証しました。ハエが近づくことのできなかった肉にウジは全く発生しませんでした。ハエほどの大きさの動物が独りでには生じないのであれば,食べ物にふたをしていてもいなくてもいつも発生してくる微生物についてはどうでしょうか。その後の実験によって,微生物も自然には生じないことが示されました。しかし,論争はなお続きました。そこに登場したのがルイ・パスツールの研究です。

パスツールの業績としては,発酵や伝染病に関する問題を解決したことを思い出す方が多いでしょう。パスツールは,微小な生物が独りでに生じ得るかどうかを見定める実験も行ないました。お読みになったことがあるかもしれませんが,パスツールは,ごく微小なバクテリアも,殺菌して汚染されないようにした水の中には発生しないことを証明しました。1864年,パスツールは,「自然発生の理論はこの簡単な実験による致命的な打撃から決して立ち直れないであろう」と発表しました。この言葉は今日なお真実です。どんな実験によっても,無生の物質から生命が造り出されたことはありません。

では,生命は一体どのようにして地上に生じたのでしょうか。この疑問に答える現代の努力は,1920年代の,ロシアの生化学者アレクサンドル・I・オパーリンの研究にまでさかのぼることになるでしょう。オパーリンおよび他の科学者たちはその後,地球の舞台で生じてきたとされる事柄を描く,三幕物のドラマの台本のようなものを示してきました。第1幕では,原材料である地上のいろいろな元素が種々の分子のグループに変わるさまを描いています。次には,大型の分子への大跳躍です。そして,このドラマの最後の幕は,最初の生きた細胞への飛躍の様子を物語ります。しかし,それは本当にそのような形で起きたのでしょうか。

そのドラマの重要な点として,地球の初期の大気は今日のものとは非常に異なっていた,と説明されます。ある説では,遊離状態の酸素はほとんど存在しておらず,窒素,水素,炭素などの元素がアンモニアやメタンを構成するようになったとされています。これらの気体と水蒸気から成る大気に稲妻や紫外線が作用した時,糖類やアミノ酸が生じたというのがその概念です。ですが,これは仮説であることを忘れないでください。

この仮説上のドラマによれば,こうして分子の形になったものが海洋その他の水の中に溶け込みました。長い時間がたつうちに,糖類,酸類,その他の化合物は濃縮されて培養液のような“前生物的スープ”となり,その中で,例えばアミノ酸同士がさらに結合してタンパク質が出来上がりました。この仮説上の進展として,ヌクレオチドと呼ばれる別の化合物が鎖状に連なって,DNAのような核酸ができたとされています。このすべてが,分子成長のドラマの最終幕のための筋立てであるとされています。

この最後の幕は,考証がなされていないものなのですが,愛情物語<ラブストーリー>のように描き出されることでしょう。タンパク質分子とDNA分子とが,ふとした事で出会い,互いに認め合い,抱き合うのです。そして,まさに幕が下りる前に,最初の生きた細胞の誕生を迎えるのです。このドラマの筋を追ってこられたあなたは,『これは実話だろうか,それともフィクションなのだろうか。地上の生命は本当にこのようにして始まったのだろうか』と思われることでしょう。

実験室で創世記の再現?

1950年代の初め,科学者たちは,アレクサンドル・オパーリンの仮説の検証に取りかかりました。生物は生物からのみ生じるというのはすでに立証された点でしたが,科学者たちは,もし過去において条件が今とは異なっていたとすれば,生命は無生物から徐々に生じたのではないかという説を立てました。それを実証できるでしょうか。ハロルド・ユーリーの研究室で働いていた科学者スタンレー・L・ミラーは,水素,アンモニア,メタン,水蒸気を(これが原始の大気であったと想定して),沸騰した水を底部に入れた(海に相当するものとして)フラスコ装置の中に密閉し,電気火花を(稲妻のように)それら蒸気の中に放ちました。1週間たらずのうちに,赤みを帯びた粘っこい物質がかすかに生じていました。ミラーはそれを分析して,タンパク質の基本成分であるアミノ酸を多く含んでいることを発見しました。この実験についてはこれまでに何度もお聞きになったことがあるかもしれません。科学の教科書や学校の授業で多年にわたって引き合いに出され,地上の生命がどのように始まったかを説明しているかのように扱われてきたからです。しかし,本当に説明しているのでしょうか。

実のところ,ミラーの実験の価値については,今日まじめな疑問が提出されています。(36,37ページの「疑問視される古典的規範」をご覧ください。)とはいえ,この見かけ上の成功は他の種々の実験を導き,核酸(DNAやRNA)を構成する物質が生み出されたこともあります。この分野の専門家たち(生命の起源科学者と呼ばれることもある)は楽観的な展望を抱きました。分子成長のドラマの第1幕を現実的に再現できたと思ったからです。残る二幕の実験室版もその後に続くように思えました。化学の一教授は,「進化的メカニズムによる原始生命系の起源についての説明はじゅうぶん視界内にある」と唱えました。ある科学記者は,「学識者とされる人たちは,メアリー・シェリーのフランケンシュタイン博士のような科学者たちが,実験室の中でいまにも生物体を出現させて,創世の物語がどのように展開したかをつぶさに示してくれるものと思っていた」と述べています。生命の自然発生のなぞは解かれたのだと,多くの人は考えました。―38ページの,「右手,左手」をご覧ください。

見方の変化 ― なぞは残る

しかし,年月がたつうちにこうした希望的観測は消えてしまいました。数十年が経過した今,生命の秘密は依然はっきりしないままです。ミラー教授は,その実験から40年ほど後に,サイエンティフィック・アメリカン誌(Scientific American)の中で,「生命起源の問題は,私や他のたいていの人たちが思い描いたよりはるかに難しいものであることが分かってきた」と語りました。見方を変えている科学者たちはほかにもいます。例えば,1969年,生物学の教授ディーン・H・ケニヨンは,「生化学的予定説」(Biochemical Predestination)という本の執筆者の一人でした。しかし,ずっと最近になって同教授は,「物質とエネルギーが何の助けも受けず独りでに組織化されて生命体になったということは根本的に受け入れ難い」と結論しています。

実際のところ,実験室での研究は,「生命の化学的起源をめぐる現在のすべての説には根本的な欠陥」があるというケニヨンの評価を裏付けています。ミラーその他の人たちがアミノ酸を合成した後,科学者たちは,タンパク質とDNAを造り出すことを手がけました。これらはどちらも,地上の生命に必須なものです。前生物的条件とされるところでなされた幾千という実験から,どんな成果が得られたでしょうか。「生命起源のなぞ: 今日の理論の再評価」(The Mystery of Life's Origin: Reassessing Current Theories)という本はこう記しています。「アミノ酸合成におけるかなりの成功と,タンパク質やDNAを合成する面でのいつも変わらぬ失敗との間の対照はいかにも印象的である」。この後のほうの試みは,「すべて一様に失敗」というのがその特徴です。

実際的に見ると,このなぞには,どのようにして最初のタンパク質と核酸(DNAないしはRNA)の分子が存在するようになったかということ以上の多くのことが含まれています。つまり,それらがどのように作用し合うのかという点も含まれるのです。「それら二種の分子の協力関係があって初めて,今日の地上の生命は存在可能である」と,新ブリタニカ百科事典(英語版)は述べています。同百科事典はさらに,その協力関係が果たしてどのように生じるのかということが,「生命の起源に関する重大な未解決の問題」として残っている,と記しています。まさにそのとおりなのです。

付録イの,「生命活動のためのチームワーク」という記事(45-47ページ)は,人体の細胞内でのタンパク質と核酸との興味あふれる共同作業<チームワーク>について,その基本的な点を幾つか取り上げています。わたしたちの体にある細胞の世界をこうしてかいま見るだけでも,科学者たちのこの分野での研究に対する嘆賞の念を覚えます。科学者は,わたしたちがほとんど考えもしないことながら,命の続いているかぎり刻一刻営まれている,驚くほど複雑な過程に光を投じてくれました。しかし別の観点に立って,ここで求められる,感服させるほどの複雑さと精密さを思うとき,このすべてはどのようにして生じたのかという初めからの疑問に戻らざるを得ません。

生命の起源科学者たちが,最初の生命の出現に関するドラマのためにもっともなシナリオをまとめようと今でも努力していることがお分かりでしょう。それでも,書き上げられてくる台本はいずれも,説得力のあるものとなってはいません。(48ページの付録ロ,「“RNAだけの世界”から,それとも,外界から?」をご覧ください。)この点で例を挙げれば,ドイツ,マインツの生化学研究所のクラウス・ドーズは,「現状からすれば,この分野の主要な学説や実験に関する論議はすべて,結局のところ行き詰まってしまうか,無知を告白することになるかのいずれかである」と述べています。

1996年の,“生命の起源に関する国際会議”においても,解答は見えていませんでした。むしろ,サイエンス誌(Science)の伝えたとおり,参会した300人近い科学者たちは,「[DNAやRNA]分子が最初にどのように現われ,どのように自己複製してゆく細胞へと進化したかというなぞと苦闘して」いました。

わたしたちの細胞内の分子レベルでどのような事が起きているかについて研究し,その説明を試みるだけでも,知能と高度の教育とが求められています。最初の“前生物的スープ”の中で,幾つもの複雑な段階が,何の導きも受けることなく,自然発生的な偶然の仕組みで生じた,と信じるのは道理にかなったことでしょうか。それとも,別の何かが関係していたのでしょうか。

なぞとされるのはなぜか

今日人は,生命が独りでに発生したというこれまで半世紀近くにわたる推測と,それを証明しようとする幾多の試みのあとを振り返ることができます。それを行なうとき,ノーベル賞を受けたフランシス・クリックの言葉に否定しがたいものを感じることでしょう。生命の起源に関するさまざまな学説について,クリックは,「あまりにも少ない事実を追ってあまりにも多くの推測がめぐらされている」と述べました。ですから,事実を精査する科学者たちの中に,生命はあまりにも複雑で,何ら制御されていない環境下はもとより,よく組織化された実験室においてすら,ひょっこり飛び出してくるようなものではない,と結論する人がいるのは理解できます。

生命が自然に生じ得ることを高度な科学が証明できないでいるのに,ある科学者たちがそのような説にずっと固執しているのはなぜでしょうか。30年ほど前,J・D・バーナル教授は,「生命の起源」The Origin of Life)という本の中で,状況を見通してこう述べました。「科学的手法の厳密な規範をこの問題[生命の自然発生]に当てはめれば,生命の生じて来ることがいかに不可能かは,その話のさまざまな箇所で有効に実証できる。それが起こり得ない確率はあまりにも高く,生命の出現してくる可能性はあまりにも小さいのである」。同教授はさらにこう述べました。「この観点からすれば,遺憾なことではあるが,生物は形態も営みも実に多様なものとして現に地上に生存しているのであり,その存在を説明するためには,議論の方向を曲げなければならない」。そして,事情は今も変わっていません。

こうした論議の背後の意味を考えてください。事実上こう言っているのです。『科学的に言えば,生命は独りでに始まったはずはないというのが正しい。しかしそうではあっても,生命は自然発生的に生じたというのが,我々の持ち得る唯一の想定である。ゆえに,議論の方向を曲げて,生命は自然発生的に生じたという仮説を説明できるものにする必要がある』。このような論理に納得できますか。このような論議のためには,事実を大いに『曲げる』ことが求められるのではないでしょうか。

しかし,見識があり尊敬される人々で,生命の起源に関する一般的な観念に適合させるために事実を曲げる必要など認めない科学者たちもいます。そうした人々はむしろ,事実に基づく道理にそった結論を受け入れます。どんな事実,どんな結論でしょうか。

情報と知能

ポーランド科学アカデミーの樹木学会員で,著名な遺伝学者でもあるマーチェイ・ギエルティフ教授は,あるドキュメンタリー番組のインタビューの中でこのように答えました。

「私たちは,膨大量の情報が遺伝子に含まれていることに気づくようになりました。それだけの情報がいかにして自然発生的に生じるかについて,科学は説明を持ち合わせていません。そこには知能が必要です。それは偶然性の出来事によっては生じ得ません。ただ文字を混ぜ合わせるだけで言葉はできないのです」。同教授はさらにこう述べました。「例えば,細胞内でなされるDNAやRNAやタンパク質の複製のシステムはきわめて複雑なものですが,それはごく最初から完全に整ったものであったはずです。そうでなければ,生命体は生存できません。この莫大な量の情報は何かの知能から来ているというのが唯一の論理的な説明です」。

生命の不思議について学べば学ぶほど,このような結論を認めざるを得ないことが分かるでしょう。生命の始まりには,どうしても知能のある源が必要なのです。それはどんな源でしょうか。

すでに述べたとおり,教育のある人々で,地上の生物が高度の何らかの知能によって,つまり何らかの設計者によって生み出されたに違いないと判断している人たちは非常に多くいます。そうです,そうした人々は,物事を公正に調べた結果として,今日の科学の時代においても,神について,『命の源はあなたのもとにあります』と述べた,遠い昔の聖書時代の詩人の言葉に同意するのがもっともだという見方をするようになりました。―詩編 36:9

この点についてすでにはっきりした結論に達しているにしてもいないにしても,わたしたち自身にかかわる幾つかの驚異に目を向けてみましょう。それは大いに満足を与えてくれるものであり,わたしたちの人生に関係のあるこのテーマに少なからぬ光を投じるものとなるでしょう。

[30ページの囲み記事]

偶然の可能性はどれほどか

「偶然,まさに偶然だけが,原始のスープから人間にまで至るすべての事を行なった」。ノーベル賞を受けたクリスチャン・ドデューブは,生命の起源についてこのように述べました。しかし,偶然性は生命の起こりについて合理的な説明となるでしょうか。

偶然とはどういうことですか。投げた硬貨が表になるか裏になるかの偶然性を見るときのように,数学的な確率という意味でこれを考える人々がいます。しかし,多くの科学者が生命の始まりに関して「偶然」という語を使うのは,そのような意味ではありません。「偶然」というあいまいな語が,例えば「原因」など,もっと厳密な言葉の代用語として用いられているのです。しかも,物事の原因がはっきりしない場合にかぎってそのように用いられています。

生物物理学者のドナルド・M・マッケイはこう述べています。「『偶然』ということを擬人化してしまって物事の原因行為者であるかのようにするのは,科学的な概念を,宗教めいた神話的な概念に変えてしまう誤りである」。同様に,ロバート・C・スプラウルも次の点を指摘しています。「原因の分からないときにそれを『偶然』と呼ぶことが長く行なわれてきた結果,人は,ここで考えの置き換えがなされていることを忘れかけている。……『偶然とはすなわち未知の原因のことである』という想定が,多くの人にとって,『偶然とはすなわちその原因のことである』という意味になってしまっている」。

この,偶然すなわち原因というような論法をしている人のひとりとして,ノーベル賞を受けたジャック・L・モノがいます。こう書いています。「純然たる偶然,つまり絶対の自律的盲目性こそ,進化というとてつもない殿堂の根底にあるものなのである。人間はただ偶然によって宇宙内に出現してきたが,感情を持たない広大無辺のこの宇宙にあって,ついに自分が独りそこにあることを知ったのである」。『偶然によって』と述べられている点に注目してください。モノは他の多くの人たちと同じことをしています。つまり,偶然性を,創造的原理の位置に祭り上げています。偶然性が,地上の生命が存在に至ったその手段として提出されているのです。

実際のところ,辞書は一般に,「偶然(chance)」を,「説明のできない事象の,非人格的で目的性のない決定要因とされるもの」と意味づけています。ですから,生命が偶然によって生じたと唱えるとすれば,原因となる未知の何かの力によってそれが生じた,と述べていることになります。ある人々は事実上,「偶然」を「創造者」と同じ意味にしているのでしょうか。

[35ページの囲み記事]

「[最小のバクテリアでも],スタンレー・ミラーのこしらえた化学的混合物に比べたらずっと人間のレベルに近い。それはすでに,これら器官系統の特性を備えているからである。それで,バクテリアから人間に進むほうが,アミノ酸の混合物からそのバクテリアへ進むよりもむしろ小さなステップなのである」― 生物学の教授リン・マーグリス

[36,37ページの囲み記事/写真]

疑問視される古典的規範

スタンレー・ミラーの1953年の実験は,生命の自然発生が過去には起こり得たことの証拠としてしばしば引き合いに出されています。しかし,ミラーによる説明の妥当性は,地球の原初の大気が「還元的」であったという仮定に基づいています。これは,遊離した(化学的に他と結合していない)酸素がほんのわずかしかそこに含まれていなかった,という意味です。どうしてでしょうか。

「生命起源のなぞ: 今日の理論の再評価」(The Mystery of Life's Origin: Reassessing Current Theories)という本は,遊離した酸素が多く存在したならば,『アミノ酸は一つとして形成されることさえなく,何かの偶然で形成されたとしても,すぐに分解してしまったであろう』と指摘しています。 * いわゆる原始大気が還元的であったというミラーの仮定はどれほど確かなものでしょうか。

その実験から2年後に公表された規範的な論文の中で,ミラーはこう書いていました。「これらの考えはもちろん推測である。地球が形成された時その大気が還元的であったかどうか,我々は知らないからである。……直接的な証拠はまだ得られていない」―「アメリカ化学学会ジャーナル」(Journal of the American Chemical Society),1955年5月12日号。

以来,証拠は得られていますか。およそ25年後,科学評論家ロバート・C・カウインは,「科学者たちは自分たちの想定の幾つかについて再考を余儀なくされている。……水素に富む非常に還元的な大気という考えを支持するような証拠はほとんど出ておらず,むしろ幾つかの証拠はそれを否定している」と伝えました。―「科学技術評論」(Technology Review),1981年4月号。

それ以後はどうでしょうか。1991年,ジョン・ホルガンは,サイエンティフィック・アメリカン誌(Scientific American)にこう書きました。「最近10年ほどの間に,大気に関するユーリーとミラーの想定に疑念が増してきた。研究室での実験とコンピューター処理による大気の復元を何度も重ねた結果は……今日であれば大気中のオゾンによってさえぎられる太陽からの紫外線が,大気中の,水素を基にする分子を破壊したであろうことを暗示している。……そのような大気[二酸化炭素と窒素]は,アミノ酸その他の生命前駆体の合成に資するものではなかったであろう」。

ではなぜ多くの人は今でも,地球の初期の大気は還元的で,酸素をあまり含んでいなかったという見方をしているのでしょうか。「分子進化と生命の起源」(Molecular Evolution and the Origin of Life)の中で,シドニー・W・フォクスとクラウス・ドーズは次のような答え方をしています。大気は酸素を欠いていたに違いない; なぜなら,一つには,「実験室での実験からすれば,化学進化は……酸素によって大いに抑制される」からであり,また,アミノ酸のような化合物は「酸素の存在する中では地質時代を通じて安定してはいない」からである。

これは循環論法ではないでしょうか。生命の自然発生はそれ以外では起こり得なかったから,初期の大気は還元的であった,と論じられています。しかし,それが還元的であったという裏付けは実際には何もないのです。

もう一つ注目すべき点があります。もしその混合気体がその時の大気を表わし,電気火花が稲妻を模したもので,沸騰した水が海の代わりなのであれば,その実験を準備して,実行した科学者は,いったい何,あるいはだれを表わすのでしょうか。

[脚注]

^ 50節 酸素は非常に反応性の高い元素です。例えば,鉄と化合してさびを作り,水素と結び付いて水を作ります。アミノ酸が組み立てられている時に大気中に多量の遊離酸素があったなら,酸素がすぐに結び付いて,形成されるその有機分子を次々に破壊したでしょう。

[38ページの囲み記事]

右手,左手

ご存じのとおり,手袋には右手型と左手型とがあります。アミノ酸の分子についても同じようなことが言えます。知られているおよそ100種のアミノ酸のうち,タンパク質に用いられるのは20種だけで,すべて左手型です。前生物的スープとして想定されるものを模して科学者が研究室でアミノ酸を作ると,右手型の分子と左手型の分子が同数ずつできます。「このような50対50の分布」は「左手型のアミノ酸のみに依存している生物界の特徴ではない」と,ニューヨーク・タイムズ紙は伝えています。生物体がなぜ左手型のアミノ酸だけで成り立っているかは「大きななぞ」となっています。いん石の中に発見されるアミノ酸も,「左手型がずっと多くなって」います。ジェフリー・L・バーダ博士は,生命の起源に関する難問と取り組んできましたが,「地球外の何らかの影響が,生体アミノ酸の利き手の決定に何かの役割を果たしているのかもしれない」と述べています。

[40ページの囲み記事]

「これらの実験は……非生物合成を主張してはいるが,実際は,高度に知性的できわめて生物的な人間により,その人間が大いにかかわっている概念の確証を意図して演出され,計画された物事を裏付けているだけである」―「生物器官系統の起源と発達」(Origin and Development of Living Systems)。

[41ページの囲み記事/写真]

「それを意図した知的な行為」

英国の天文学者フレッド・ホイル卿は,数十年にわたって宇宙と宇宙内の生物について研究を続け,地上の生命は外界宇宙から到来したとの説まで提唱しました。カリフォルニア工科大学での講演の中で,ホイルはタンパク質内のアミノ酸の配列について論じました。

ホイルはこう述べました。「生物学における大きな問題は,タンパク質が一定の方式で結合したアミノ酸の連鎖で構成されているというやや素朴な事実よりも,それらアミノ酸の明確な配列法がその連鎖に注目すべき特性を付与しているという点である。……各種のアミノ酸が手当たりしだいに結合したなら,その生体細胞の目的には役立たない組み合わせが無数にできてしまうだろう。一つの典型的な酵素がおそらくは200ほどの結合から成る連鎖で,各々の結合に20の可能性のあることを考えれば,役に立たない組み合わせの数が膨大なものになってしまうことを容易に理解できるだろう。最大の望遠鏡で見える銀河すべてにある原子の数よりも多くなるのである。これはただ一種の酵素についてのことであり,2000を超える酵素があって,多くがそれぞれ非常に異なった目的にかなっている。どのようにしてこうなったのだろうか」。

ホイルはこう付け加えました。「生命が自然のさまざまな力の盲目的な働きで生じたとする場合の途方もなくわずかな確率を受け入れるより,生命の始まりはそれを意図した知的な行為であった,と想定するほうがましなように思えた」。

[44ページの囲み記事]

マイケル・J・ビヒー教授はこう述べました。「知能によらない原因にしぼって探究しなければならないとは思わない人にとって,多くの生化学的システムはそのように設計されたものなのだというのが素直な結論である。自然の法則性によって設計されたとか,偶然性や必要性によってそうなったというのではない。むしろ,計画されたものなのだ。……地上の生命は,最も基本的なレベル,すなわちその最も決定的な構成要素の点からして,知能的な活動の所産である」。

[42ページの図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

生体の細胞一つ一つが持つ複雑な世界と入り組んだ種々の機能をかいま見るだけでも,このすべてがどのようにして生じたのだろうかと問わざるを得ない

細胞膜

細胞に入るものと,そこから出るものとを制御している

細胞のコントロール・センター

染色体

遺伝の基本設計図であるDNAを収めている

ミトコンドリア

細胞にエネルギーを供給する分子の製造センター

仁(じん)

リボソームを組み立てる場所

リボソーム

タンパク質が造られる場所

[33ページの図版]

生命の基本となっている種々の複雑な分子が何らかの前生物的スープの中で自然発生的に生じたというようなことはあり得ない,とする科学者たちが多くなっている