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神とはだれですか

神とはだれですか

4章

神とはだれですか

1 (イ)人々はどんな神々を崇拝してきましたか。(ロ)聖書は『多くの神』と「神」とをどのように区別していますか。

世界中でたくさんの神々が崇拝されています。神道,仏教,ヒンズー教,部族宗教などには幾百万もの神々があります。イエスの使徒たちの時代には,ゼウスとかヘルメスなどの神々が崇拝されていました。(使徒 14:11,12)ですから聖書は,「多くの『神』……がいる」ことを認めていますが,また,「わたしたちにとって父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出て(いる)」とも述べています。(コリント第一 8:5,6)もしあなたが,『この神はだれですか』と聞かれたら,どう答えますか。

2 人々は神についてどんな異なった見方をしていますか。

2 『この神とは主のことです』と多くの人は答えます。あるいは,『この神は天にいます霊のことです』と言う人たちもいるでしょう。ある辞書は神を,「絶対的存在」と呼んでいます。『神の名前は?』と尋ねられると,ある人々は『イエス』と答えます。神を人格神とは考えずに,あらゆるところに存在する強力な力と考えている人々もいます。また神の存在を疑っている人さえいます。わたしたちは神の存在について確信を持つことができるのでしょうか。

神は実在する

3 家はどのようにしてできますか。

3 あなたは美しい建物を見るとき,これを建てたのはだれだろう,と考えることはありませんか。もしだれかが,この建物はだれが建てたのでもなく,ひとりでに存在するようになったのだと言ったら,あなたはそれを信じるでしょうか。もちろん信じないでしょう! 聖書筆者が述べているように,「家はすべてだれかによって造られ」ます。それはだれでも知っていることです。では,『すべてのものを造られたのは神です』という聖書筆者の道理にかなった結論をわたしたちは受け入れることができるのではないでしょうか。―ヘブライ 3:4

4 無数の星はどのようにしてできましたか。

4 宇宙のことを考えてみましょう。宇宙には無数の星があります。それでもすべての星は天空で,完全な相互関係を保たせる法則に従って動いています。ずっと昔,「だれがこれらのものを創造したのか」という問いかけがなされたことがありました。これに対する答えは理にかなっています。「それは,その軍勢を数によって引き出しておられる方であり,その方はそれらすべてを名によって呼ばれる」。(イザヤ 40:26)無数の星がひとりでにでき,すばらしい秩序を保って動く広大な星系が何の導きもなく構成されたと考えるのは,確かに愚かなことです。―詩編 14:1

5 (イ)各部品がひとりでに組み合わさって1個の肉ひき器ができる見込みはどれほどですか。(ロ)このことから,わたしたちの宇宙についてどんなことが分かりますか。

5 高度に組織されたこの宇宙がひとりでにできるはずがありません。そこには偉大な力と知恵に富む創造者の存在が必要でした。(詩編 19:1,2)ある事業家は,なぜ神を信じますかと聞かれたとき,自分の工場では,一人の女子工員が肉ひき器の17の部品の組立てを習うのに二日かかると説明しました。「私は一介の刃物類製造業者にすぎません。でも,これだけはよく知っています。肉ひき器の17個の部品をたらいの中に入れて今から170億年間ゆすりつづけたところで,1個の肉ひき器ができ上がるということは決してありません」と,彼は言いました。地球上のさまざまな生物も含め,この宇宙は,肉ひき器よりもはるかに複雑です。もしそのような機械が熟練した作り手なくしてはできないのであれば,すべてのものを創造するのに全能の神が必要であったことは確かです。では全能の神が,ご自分の行なったことに対して誉れをお受けになるのは,当然のことではないでしょうか。―啓示 4:11。使徒 14:15-17; 17:24-26

神は実在者?

6 神が実在者であることを確信できるのはなぜですか。

6 たいていの人は神を信じていると言いますが,神を実在者とは考えない人が少なくありません。神は実在者なのでしょうか。考えてみると,理知のあるところには思考力があります。例えばわたしたちは,『決心がつかない』と言ったりします。そして,思考力のあるところには頭脳があり,頭脳は明確な形を持つ体の中にあることをわたしたちは知っています。ですから,すべてのものを創造した偉大な思考力は,偉大な実在者である全能の神のものです。全能の神は物質の体は持っておられませんが,霊の体をお持ちです。霊者に体があるのですか。そうです,あるのです。聖書は,「物質の体があるなら,霊的な体もあります」と述べています。―コリント第一 15:44。ヨハネ 4:24

7 (イ)神が住む場所をお持ちであることはどんなことから分かりますか。(ロ)神に体があることはどんなことから分かりますか。

7 神は,霊の体を持つ実在者ですから,住む場所もお持ちであるに違いありません。聖書が告げるところによると,天は神の「住まわれる定まった場所」です。(列王第一 8:43)また,「キリストは……天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです」と,わたしたちは教えられています。(ヘブライ 9:24)一部の人間は,神と共にいることのできる天での命を報いとして与えられます。そのとき彼らは霊の体を受けます。そのとき彼らは神を見,また神のようになる,と聖書には記されています。(ヨハネ第一 3:2)このことからも,神は実在者であられ,しかも体をお持ちであることが分かります。

8,9 (イ)発電所を例にして,遠くに及ぶ神の力をどのように説明できますか。(ロ)神の聖霊とは何ですか。聖霊は何を行なうことができますか。

8 しかし,『もし神が天の特定の場所に住む実在者であるとすれば,神はあらゆる場所で起こるあらゆる事柄をどのようにして見ることができるのか。また,神の力を宇宙のあらゆる場所でどのようにして感じることができるのか』と言う人があるかもしれません。(歴代第二 16:9)神が実在者であるという事実は,決して神の力や偉大さを制限するものではありません。また神に対するわたしたちの崇敬の念を弱めるものでもありません。(歴代第一 29:11-13)この点を理解するための助けとして,発電所が遠距離にまで影響を及ぼすことを考えてみましょう。

9 発電所は都市の中または近郊の特定の場所にあります。しかし,そこから送り出される電力はその地域全体に分配され,光や動力を供給します。神についても同じことが言えます。神は天におられます。(イザヤ 57:15。詩編 123:1)それでも,目に見えない神の活動力である聖霊は至るところで,全宇宙で,感じられます。神はご自身の聖霊によって,天と地とすべての生き物を創造されました。(詩編 33:6。創世記 1:2。詩編 104:30)これらのものを創造するのに,神が直接その場におられる必要はありませんでした。神は,はるか遠く離れておられても,ご自身の活動力である聖霊を送り出して,何であれ,望み通りのことを行なうことがおできになるのです。何とすばらしい神なのでしょう!―エレミヤ 10:12。ダニエル 4:35

神の特質

10 わたしたちが神を知ることのできる一つの方法は何ですか。

10 神は,わたしたちがよく知れば知るほどますます愛することのできるような方でしょうか。『そうかもしれない。でも目に見えない神をどうして知ることができるのか』と,あなたは言われるかもしれません。(ヨハネ 1:18)聖書は一つの方法を示してこう述べています。「神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見える」。(ローマ 1:20)ですから,神が創造なさった物をよく調べ,それらについて考えるなら,神がどんな方かを理解する助けになるのです。

11 神がお造りになったものを見て,わたしたちは神について何を学ぶことができますか。

11 すでに見てきたように,星をちりばめた天をあおげば,確かに神の偉大さと計り知れない大きな力とを悟ることができます。(詩編 8:3,4。イザヤ 40:26)次に地球のことを考えてみましょう。神は地球を天空の中に置き,太陽から適量の熱と光を得るようにされました。また水の循環を考えてみてください。雨が降って地をうるおします。その水は川に流れ込み,川は海に注ぎます。そして太陽はその水を蒸気に変えて海から立ちのぼらせ,その蒸気は雨となってまた地をうるおします。(伝道の書 1:7)人や動物が必要とする食物,住まい,その他すべての物を供給するために神が働かせておられるすばらしい循環過程は,非常にたくさんあります! これらのすばらしい事柄はみな,神がどんな方であることを物語っているでしょうか。それは,神が偉大な知恵を持たれる極めて寛大な方で,被造物の世話をよくみてくださるということです。―箴言 3:19,20。詩編 104:13-15,24,25

12 わたしたち自身の体は神についてどんなことを教えていますか。

12 わたしたち自身の体について考えてみましょう。わたしたちの体は明らかに,ただ生きるのではなくそれ以上のことができるように造られています。本当に生活を楽しむように,すばらしく造られています。(詩編 139:14)わたしたちの目は,白黒だけでなく天然色で見ることもでき,しかも世界は目を楽しませる豊かな色彩でいろどられています。また,わたしたちはにおいをかぎ,味を味わうことができます。ですから食べることは,単なる必要な機能ではなく,楽しいことでもあります。そうした感覚は,生きるのに絶対必要なものというわけではありません。愛の深い,寛大な,思いやりのある神の賜物なのです。―創世記 2:9。ヨハネ第一 4:8

13 神が人間を扱われる方法から,あなたは神について何を学びますか。

13 神が人類を扱われる方法をみても,神がどんな方であるかが分かります。神は強い正義感をお持ちです。特定の人種の人々をえこひいきするようなことはされません。(使徒 10:34,35)また憐れみ深く,親切です。神はイスラエル国民をエジプトの奴隷状態から救い出されましたが,聖書は,そのイスラエル国民に対する神の態度について,「神は憐れみ深く……彼らが肉なる者であること……を思い出されるのであった」と述べています。それでもイスラエル人はしばしば不従順になり,神を悲しませました。「彼らは……神に痛みを覚えさせ……イスラエルの聖なる方に痛みを与えた」と聖書は述べています。(詩編 78:38-41; 103:8,13,14)しかし一方,ご自分の僕たちが律法に従順であれば,神はたいへん喜ばれます。(箴言 27:11)また,ご自分の僕たちが敵に苦しめられるときどのように感じられるかについては,「あなた方に触れる者はわたしの目の玉に触れているのである」と述べておられます。(ゼカリヤ 2:8)あらゆる人種や民族の,卑しくて取るに足りない人間にそのような愛情を抱いておられる神に,あなたは愛を感じないでしょうか。―イザヤ 40:22。ヨハネ 3:16

神はイエス? または三位一体?

14 三位一体とはどんな教えですか。

14 このすばらしい神はだれでしょうか。ある人々は,神の名前はイエスであると言います。神は三位一体であると言う人たちもいます。ただし,「三位一体」という語は聖書には出てきません。三位一体とは,一つの神の中に三つの位格がある,すなわち「父と子と聖霊の一つの神」があるという教えです。多くの宗教組織は,「玄義」と認めながらこの教理を教えています。神をそのようにみるのは正しいことでしょうか。

15 神とイエスは別々のふたりの方で同等ではないことを聖書はどのように示していますか。

15 ところで,イエスが,わたしは神である,と言われたことがあったでしょうか。そのようなことは一度もありませんでした。聖書の中では,イエスはむしろ「神の子」と呼ばれています。それにイエスは,『父はわたしより偉大な方です』と言われました。(ヨハネ 10:34-36; 14:28)また,ご自身もみ使いたちも知らない,神だけが知っておられる事柄があるとも言われました。(マルコ 13:32)さらに,イエスはある時神に向かって,「わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」と祈られたことがありました。(ルカ 22:42)もしイエスが全能の神であったなら,ご自身に向かって祈るようなことはされなかったのではないでしょうか。実際に聖書は,イエスが亡くなられたあと,「このイエスを神は復活させた」と述べています。(使徒 2:32)ですから,全能の神とイエスは明らかに別々のふたりの方です。イエスは,死に,復活し,そして昇天されたのちでさえも,父と同等ではありませんでした。―コリント第一 11:3; 15:28

16 イエスが「神」と呼ばれてはいても,全能の神でないことは何から分かりますか。

16 『でも,イエスは聖書の中で神と呼ばれてはいませんか』と言う人もあるでしょう。それは事実です。ところがサタンも神と呼ばれているのです。(コリント第二 4:4ヨハネ 1章1節はイエスが「言葉」と呼ばれている箇所ですが,いくつかの聖書翻訳ではこの箇所が,「初めに言葉あり。言葉は神と共にあり,言葉は神なりき」となっています。しかし2節に,その言葉は「初めに神とにあり」と述べられていることに注目してください。また,人々はイエスを見たことがあるのに18節には,「いまだ神を見し者なし」とあります。(欽定訳)ですから,いくつかの翻訳では1節が,「言葉は神と共にあり,言葉は神性を備えていた」,もしくは「一つの神であった」となっています。これはつまり,言葉は強力な神のような者であったということで,原語の意味を正しく伝えています。(アメリカ訳)イエスが全能の神でないことは明白です。事実,イエスはご自分の父のことを「わたしの神」,また「唯一まことの神」と言われました。―ヨハネ 20:17; 17:3

17 イエスの追随者たちに聖霊が注がれたことは,聖霊が人格的なものでないことをどのように証明していますか。

17 三位一体の第三位とされる「聖霊」については,これが人格的なものではなく,神の活動力であることをわたしたちはすでに学びました。バプテスマを施す人であったヨハネは,自分が水でバプテスマを施してきたように,イエスは聖霊でバプテスマを施すであろうと言いました。したがって,水が人格的なものでないのと同じように,聖霊も人格的なものではありません。(マタイ 3:11)ヨハネが予告したことは,イエスの死と復活のあと,エルサレムに集まっていたイエスの追随者たちに聖霊が注がれた時に成就しました。聖書には,「彼らはみな聖霊に満たされ」と書かれています。(使徒 2:4)彼らは人格的なもので「満たされた」のでしょうか。そうではありません。神の活動力で満たされたのです。このようにして事実をみると,三位一体は聖書の教えでないことがはっきりしてきます。実際,イエスが地上におられた時よりもずっと昔に,古代エジプトやバビロンのような国では,神々は三神一組,すなわち三位一体の形で崇拝されていたのです。

神のみ名

18 (イ)「神」は全能の神の固有名ですか。(ロ)神の固有名は何ですか。

18 あなたが知っている人たちにはみな名前があるはずです。神にも,他の神々すべてと区別するための固有名があります。『「神」というのが名前ではないのか』と言われる方があるかもしれませんが,そうではないのです。「神」は,「大統領」,「王」,「判事」などと同じく称号にすぎないからです。神のみ名は聖書から学べます。聖書には神のみ名が約7,000回出てきます。例えば文語聖書の詩編 83編18節には,「然ばかれらはエホバてふ名をもちたまふ汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし」とあります。また,ほとんどの聖書の啓示(黙示録)19章1-6節にある「アレルヤ」,または「ハレルヤ」という表現の一部に神のみ名が見られます。これは「ヤハをほめよ」という意味で,ヤハはエホバの短縮形です。

19 (イ)ある人々はなぜ自分の聖書に神のみ名があるのを見て驚きますか。(ロ)ジェームズ王欽定訳では神のみ名はどこに出ていますか。

19 自分の聖書の中に神のみ名が出ているのを見て驚く人たちがいます。たいていの場合それは,その人の聖書がたまにしか神のみ名を用いていない聖書だからです。例えば,ジェームズ王欽定訳(英文)で,「エホバ」という名前がそのまま用いられているのは,出エジプト記 6章3節,詩編 83編18節,イザヤ書 12章2節と26章4節だけです。しかし,神のみ名を「主」または「神」という称号に訳す場合には,かならず“LORD(主)”,“GOD(神)”と大文字が使われていて,普通の“Lord(主)”また“God(神)”という語と区別されています。詩編 110編1節をごらんになると分かります。

20 (イ)多くの場合,神のみ名が使われていないのはなぜですか。(ロ)神のみ名は使われるべきですか。

20 『しかし,神の名前が,聖書の原文に見られる箇所すべてに用いられていないのはどうしてか。神の名前の代わりに,たいてい主とか神という称号が使われているのはなぜか』と,あなたは言われるかもしれません。アメリカ標準訳[英文]の序文には,その聖書に神のみ名エホバが使われている理由と,長い間その名前が使われなかった理由とが,次のように説明されています。「アメリカ標準訳の作成にあたった改正委員たちは,注意深く検討した末,英語聖書にせよ他のどの言語の聖書にせよ,神のみ名は非常に神聖なものであるゆえに口にすべきでないというユダヤ人の迷信に,これ以上支配されるべきではないとの一致した確信を得た。……多くの事柄と聖なるかかわりを持つこの固有名は今や,聖句中の当然あるべき場所に戻された」。その英訳聖書を作った人々は,神のみ名が省かれた理由は良いものではなかったと感じていたのです。それでそのみ名を聖書中のあるべき場所に戻しました。

21 カトリックのドウェー訳には,エホバという名前について何と述べられていますか。

21 ところが,「エホバ」という語は神の本当の名前ではないので,用いるべきではないと主張する人たちがいます。例えば,本文中に神のみ名が使われていないカトリックのドウェー訳[英文]の場合は,出エジプト記 6章3節に次のような脚注が付されています。「現代になってある人々はエホバという名前を考え出した……ヘブライ語テキストの中にあるその名前は,長い間用いられなかったために,今ではその正しい発音は全く不明である」。

22 (イ)ヘブライ語では神のみ名はどのように表わされていますか。(ロ)神のみ名がもともとどのように発音されていたかを知ることが問題になるのはなぜですか。

22 カトリック聖書がここで述べているように,ヘブライ語本文には確かに神の名前が出てきます。聖書の最初の39巻はヘブライ語で書かれたからです。ヘブライ語本文の中では神のみ名は,アルファベットのYHWHに相当する四つのヘブライ文字で表わされています。古代にはヘブライ語は,言葉を正しく発音する助けになるa,e,i,o,uなどの母音字を使わずに書かれました。それで今日の問題は,ヘブライ人が子音字YHWHを読む時にどんな母音を使ったかを正確に知る方法がないということです。

23 “building”の“bldg”というつづりは,神のみ名の発音の問題を理解するのにどのように助けになりますか。

23 この問題をよく理解するために,“building”という語のことを考えてみましょう。仮にこの語がいつも“bldg”と書かれるようになり,そのうちにまったく音読されなくなったとしましょう。では今から1,000年後に生きる人は,“bldg”という語が書かれているのを見る時,その発音の仕方をどうして知ることができるでしょうか。その発音を一度も聞いたことがなく,どんな母音がその語にあったかも知らないのですから,確実なことは分からないでしょう。神のみ名についても同じことが言えます。一部の学者は「ヤハウェ」が正しいと言いますが,どう発音されていたかは正確には分かっていません。しかし,「エホバ」という形はこれまで何世紀もの間使われてきたもので,最も広く知られています。

24 (イ)一貫性を保つために,神のみ名を用いるのはなぜ妥当ですか。(ロ)使徒 15章14節を考えるなら,神のみ名を用いることはなぜ重要ですか。

24 元どおり正確に発音できなくても,わたしたちは神のみ名を用いるべきでしょうか。聖書に出てくる他の人々の名前は,その発音が原語のヘブライ語の発音と同じでなくても用いられています。一例を挙げると,イエスの名前はヘブライ語では「エーシューア」と発音されます。それと同じで,聖書に記されている神のみ名を,「ヤハウェ」と発音しようと,「エホバ」と発音しようと,あるいは自分が話す言語で普通に用いられている発音であろうと,神のみ名を用いるのは正しいことです。間違いは,神のお名前を用いないところにあります。なぜなら,神のみ名を用いない人たちは,「み名のための民」として神が取り出される者とはみなされないからです。(使徒 15:14)わたしたちは神のみ名を知るだけでなく,地上におられた時にイエスがなさったように,他の人々の前で神のみ名を賛美しなければなりません。―マタイ 6:9。ヨハネ 17:6,26

目的を持つ神

25 (イ)わたしたちには神のどんな事柄が理解しにくいかもしれませんか。(ロ)エホバはご自身の何に動かされて創造を開始されましたか。

25 頭で理解するのは難しいことかもしれませんが,エホバには始めがなく,終わりもありません。エホバは「とこしえの王」です。(詩編 90:2。テモテ第一 1:17)創造を開始する前,エホバは宇宙にただひとりおられました。それでも寂しくお感じになることはなかったでしょう。エホバご自身は完全で,足りないものは何もない方だからです。エホバが創造を開始されたのは愛によりました。他の者にも命を与えて楽しませるためでした。神が最初に創造されたのは神ご自身のような霊者たちでした。人間のために地球が調えられる前から,神は,天の子たちの大きな組織をお持ちでした。エホバの目的は,彼らが,生きることや,神から与えられる奉仕に大きな喜びを見いだすことでした。―ヨブ 38:4,7

26 地球に対する神の目的が成就することをなぜ確信できますか。

26 地球が調えられた時,エホバはアダムとエバのふたりを,地球の一部で,すでに楽園になっていた所に置かれました。神が意図しておられたのは,彼らが子供をもうけ,その子供たちが神に従い神を崇拝し,そして楽園を地球全体に拡大することでした。(創世記 1:27,28)ところが,すでに学んだように,その壮大な目的は妨害されました。アダムとエバが神に背くことを選んだので,神の目的は成就していません。しかし,これから成就します。エホバにとって,意図したことを達成しないのは敗北を認めることだからです。それはエホバには絶対にできないことです!「わたしは自分の喜びとすることをみな行なう」と,エホバは宣言しておられます。「わたしはそれを話したのである。わたしはまた,それをもたらすであろう」― イザヤ 46:10,11

27 (イ)わたしたちはなぜ神に対して責任を負っていますか。(ロ)それでどんな質問を真剣に考えてみるべきですか。

27 では,どうすれば神の目的に添うことができるでしょうか。神のご意志が何であるかも考えずに,自分がしたいと思うことをするだけでは,神の目的には添えません。それこそサタンやアダムやエバが行なったことです。彼らは神のご意志が何であるかを知りながら,それを行ないませんでした。ですから神は彼らに責任を問われました。わたしたちも神に対して責任を負わねばならないのでしょうか。そうです,神はわたしたちの命の源であられますから,わたしたちにも責任があります。わたしたちの命は神に依存しています。(詩編 36:9。マタイ 5:45)では,わたしたちは,わたしたちに対する神の目的にどの程度一致した生活を送るべきでしょうか。このことについては真剣に考えなければなりません。永遠の命を得る機会はそのことにかかっているからです。

エホバを崇拝する仕方

28 ある人々は神を崇拝するのにどんな助けを用いてきましたか。

28 エホバをどのように崇拝するかは大切なことです。わたしたちはエホバが言われる方法で崇拝を行なわなければなりません。たとえその方法が今まで教えられてきた方法と異なっていてもです。例えば,ある人々は崇拝に像を用いるのが習慣になっています。像を崇拝するのではないけれど,像を見たり,像に触れたりすると神を崇拝する助けになる,とその人たちは言うかもしれません。でも神は,わたしたちが像の助けを借りて神を崇拝することを望んでおられるでしょうか。

29 崇拝に像を用いることが間違いであることを聖書はどのように示していますか。

29 そのようなことを神は望んではおられません。だからこそモーセはイスラエル人に,どんな形にせよ神が目に見える形で彼らに現われたことは一度もないと語ったのです。(申命記 4:15-19)事実,十戒の一つは,「自分のために,なんの彫刻した偶像も,つくるな,……どんなかたちのものも。それらの前にひざまずくことも,崇敬をしめすこともするな」となっています。(出エジプト記 20:4,5,カトリック,バルバロ訳)崇拝を受けるべき方はエホバだけです。像を作ったり,像の前で頭を下げたり,あるいはエホバ以外のだれかを,または何かを,崇拝したりすることがいかに間違いであるかを,聖書は再三示しています。―イザヤ 44:14-20; 46:6,7。詩編 115:4-8

30 (イ)像の使用が間違いであることは,イエスと使徒たちの言ったどんな言葉から分かりますか。(ロ)申命記 7章25節によると像をどうすべきですか。

30 ですからイエスも,わたしたちの想像どおり,崇拝に像を用いることは決してなさいませんでした。「神は霊であられる」とイエスは説明し,「神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければならない」と言われました。(ヨハネ 4:24)イエスの初期の弟子たちはこの助言に従って行動し,崇拝の助けとして像を用いる者など一人もいませんでした。事実,イエスの使徒パウロは,「わたしたちは信仰によって歩いているのであり,見えるところによって歩いているのではありません」と書いています。(コリント第二 5:7)またイエスの使徒ヨハネは,「自分を偶像から守りなさい」と警告しました。(ヨハネ第一 5:21)家の中を見回して,わたしはこの助言に従っているだろうか,と自問してみるのはいかがですか。―申命記 7:25

31 (イ)神がある律法を設けられた理由が理解できないことがあっても,わたしたちはどうしてそれに従いますか。(ロ)わたしたちは何を行なうよう努力すべきですか。またどんな勧めを受け入れるべきですか。

31 創造者であるエホバを,エホバが指示される方法に従って崇拝するなら,必ず真の幸福が訪れます。(エレミヤ 14:22)神のご要求はわたしたちを益するためのものであり,わたしたちのとこしえの福祉を目的としたものであることを聖書は示しています。わたしたちの知識や経験は限られているので,神から与えられたある律法がなぜそれほど重要なのか,あるいはそれが実際どのように自分たちの益になるのか,十分に理解できないことがあるかもしれません。それでも,神のほうがわたしたちよりもはるかによく知っておられる,と固く信じているなら,わたしたちは心から進んで神に従うはずです。(詩編 19:7-11)ですから,次の勧めに従い,エホバについて学べる限りのことを学ぶよう,あらゆる努力を払いましょう。「入って行き,崇拝をささげ,身をかがめよう。わたしたちの造り主エホバのみ前にひざまずこう。この方はわたしたちの神,わたしたちはその放牧地の民,そのみ手の羊だからである」― 詩編 95:6,7

[研究用の質問]

[42ページの囲み記事]

ジェームズ王欽定訳にはこの4箇所に神のみ名が出ています。丸で囲んであるのがそのお名前です

出エジプト記 6章3節

3 And I appeared unto Abraham, unto Isaac, and unto Jacob by the name of God Almighty, but by my name JEHOVAH was I not known to them.

詩編 83編18節

18 That men may know that thou, whose name alone is JEHOVAH, art the most high over all the earth.

イザヤ書 12章2節

2 Behold, God is my salvation; I will trust and not be afraid: for the LORD JEHOVAH is my strength and my song; he also is become my salvation.

イザヤ書 26章4節

4 Trust ye in the LORD for ever: for in the LORD JEHOVAH is everlasting strength:

[34,35ページの図版]

家がだれかによって建てられるのであれば,……家よりはるかに複雑な宇宙もだれかによって造られたに違いありません

[39ページの図版]

イエスは,ご自分の意志ではなく,神のご意志が成るように祈られたので,神とイエスが同じ方であるはずはありません

[40,41ページの図版]

120人ほどの弟子たちが同時に聖霊に満たされたのであれば,その聖霊がどうして人格的なものと言えますか

[45ページの図版]

崇拝に像を用いるのは正しいことですか