「バビロンは倒れた!」
第17章
「バビロンは倒れた!」
1,2 (イ)聖書全体を貫くテーマは何ですか。とはいえ,イザヤ書には,どんな重要な副次的テーマが現われますか。(ロ)聖書は,バビロンの倒壊というテーマをどのように発展させていますか。
聖書は音楽の大作になぞらえることができるかもしれません。そうした曲には一つの主要なテーマがあり,さらに幾つかの副テーマが提示されて曲全体に独特の深みが増します。同様に聖書にも,メシアの王国政府によるエホバの主権の正しさの立証という,一つの大きなテーマがあります。そして,ほかにも重要なテーマが幾つかあり,繰り返し展開されています。その一つがバビロンの倒壊です。
2 そのテーマはイザヤ 13章と14章で提示されています。そして,21章に,さらには44章と45章にも出てきます。それから1世紀後にエレミヤが同じテーマを敷延し,その後,「啓示」の書が雷鳴のとどろきのような終曲へと導きます。(エレミヤ 51:60-64。啓示 18:1–19:4)聖書を真剣に研究する人はだれでも,神の言葉のこの重要な副次的テーマにも関心を抱かなければなりません。その点で,イザヤ 21章は役立ちます。預言されたその大世界強国の倒壊に関して,大いに興味をそそる詳細な事柄を述べているからです。後ほど,イザヤ 21章がもう一つの重要な聖書のテーマを強調していることも考慮しますが,そのテーマは,わたしたちが今日のクリスチャンとしてどの程度警戒しているかを評価する助けとなります。
「厳しい幻」
3 バビロンが「海の荒野」と呼ばれているのはなぜですか。その名称はバビロンの前途に関して,どんなことを予示していますか。
3 イザヤ 21章は,次のような不穏な言葉と共に始まります。「海の 荒野に対する宣告: それは来襲する南の暴風のように,荒野から,畏怖の念を起こさせる地からやって来る」。(イザヤ 21:1)バビロンはユーフラテス川にまたがっており,その東半分は,ユーフラテスとチグリスという二つの大河にはさまれた地域にあります。実際の海からはかなり離れています。では,なぜバビロンは「海の荒野」と呼ばれているのでしょうか。かつてバビロン地方は毎年洪水に見舞われ,広大な沼のような「海」と化していたからです。とはいえバビロニア人は,堤防と水門溝と運河を複雑に組み合わせたシステムを造り上げ,その水の多い荒野を制御してきました。そして,巧妙にもその水をバビロン市の防衛システムの一部として活用しています。しかし,いかなる人間の努力も,バビロンを神の裁きから救うものとはなりません。かつて荒野であったバビロンは,再び荒野に戻るでしょう。災いが近づいており,それは,イスラエルにおいて南方の恐ろしい荒野から時折吹き付ける猛烈なあらしのように,今にも起ころうとしています。―ゼカリヤ 9:14と比較してください。
4 「啓示」の書の「大いなるバビロン」の幻には,「水」と「荒野」という要素がどのように含まれていますか。「水」は何を意味しますか。
4 本書の14章で考慮したとおり,古代バビロンには対応する現代版があります。それは,偽りの宗教の世界帝国である「大いなるバビロン」です。「啓示」の書の中で,大いなるバビロンも「荒野」や「水」と結びつけて描写されています。使徒ヨハネは荒野に運んで行かれ,大いなるバビロンを見せられます。そして,そのバビロンが,「もろもろの民と群衆と国民と国語」を表わす「多くの水の上に座る」と告げられます。(啓示 17:1-3,5,15)一般大衆からの支持は常に偽りの宗教が存続するためのかぎとなってきましたが,結局のところ,そうした「水」はバビロンの保護とはなりません。古代版と同様,大いなるバビロンは最終的に,空虚で,顧みられることのない,荒廃した状態に陥ります。
5 バビロンはどのように,「不実」で「奪略を行なう者」という評判を得るようになりますか。
5 イザヤの時代に,バビロンはまだ優勢な世界強国とはなっていイザヤ 21:2前半)バビロンは必ず,征服した諸国に対して奪略を働き,不実な行ないをします。それにはユダも含まれます。バビロニア人はエルサレムとその神殿から金品を奪い,住民を捕虜としてバビロンへ連行します。それら無力な捕虜たちはバビロンで不実な扱いを受け,信仰のゆえにあざけられ,故国に帰る希望を全く与えられないでしょう。―歴代第二 36:17-21。詩編 137:1-4。
ませんが,エホバはすでに,バビロンが台頭すると自らの力を悪用することを予見しておられます。イザヤはこう続けます。「わたしに告げられた厳しい幻がある。不実な行ないをする者は不実な行ないをしており,奪略を行なう者は奪略を行なっている」。(6 (イ)エホバはどんな溜め息を絶えさせますか。(ロ)どんな国々がバビロンを攻撃すると予告されていますか。その予告はどのように成就しますか。
6 ですから,厳しい時期が来ることを意味するこの「厳しい幻」は,バビロンに全くふさわしいものです。イザヤは続けてこう述べます。「エラムよ,上れ! メディアよ,包囲せよ! 彼女ゆえに出るすべての溜め息をわたしは絶えさせた」。(イザヤ 21:2後半)この不実な帝国に虐げられた国々は安堵するでしょう。ようやく,溜め息をつかずに済むようになるのです。(詩編 79:11,12)何によってそうした安堵がもたらされるのでしょうか。イザヤは,バビロンを攻撃する二つの国の名を挙げています。それはエラムとメディアです。この時から2世紀後,西暦前539年に,ペルシャ人キュロスがペルシャ人とメディア人の連合軍を率いてバビロンを攻めます。エラムについて言えば,西暦前539年より前にペルシャの君主たちがその地の少なくとも一部を領有しています。 * 従って,ペルシャ軍にはエラム人も含まれるのです。
7 イザヤは自分の見た幻からどんな影響を受けますか。それは何を示していますか。
7 イザヤがこの幻から受けた影響をどのように描写しているかイザヤ 21:3,4)イザヤは,静かに物思いにふけることのできる,気持ちの良いたそがれ時が好きなようです。しかし今,日暮れはもはや魅力的ではなく,かえって恐れと痛みとおののきしかもたらしません。イザヤは,分娩の際の女性のようなけいれんに襲われ,心は『さまよって』います。ある学者は,この表現が「激しく,不規則な拍動」を指していることに注目し,この部分を「わたしの心臓は荒々しく鼓動する」と訳しています。なぜそれほど苦悩するのでしょうか。イザヤの感情には預言的な意味があるようです。西暦前539年10月5日から6日にかけての夜,バビロニア人は同様の恐怖を経験します。
に注目してください。「それゆえに,わたしの腰は激しい痛みで満ちた。子を産むときの女のけいれんのようなけいれんがわたしを捕らえたのだ。わたしは度を失って,何も聞こえない。わたしはかき乱されて,何も見えない。わたしの心はさまよい,身震いがわたしを恐れおののかせた。わたしの慕っていたたそがれは,わたしにとっておののきとされた」。(8 預言されていたとおり,敵が城壁の外にいるにもかかわらず,バビロニア人はどんな行動を取りますか。
8 その運命的な夜のとばりが降りるころ,バビロニア人は恐怖に襲われることになろうとは夢にも思っていません。それより2世紀ほど前に,イザヤは予告として,「食卓を整えよ,座席の位置を決めよ,食べよ,飲めよ!」と述べていました。(イザヤ 21:5前半)その言葉どおり,尊大なベルシャザル王は宴会を催しています。王の大官1,000人と大勢の夫人やそばめたちのために座席が設けられています。(ダニエル 5:1,2)それら酒盛りをしている人たちは城壁の外に軍隊がいることは知っていますが,自分たちの都は難攻不落だと思い込んでいます。どっしりした城壁と深い堀があるので,バビロンは攻略不能に見えます。数多くの神々もいるので,攻略されるなどとは考えられません。だから「食べよ,飲めよ!」というわけです。ベルシャザルは酒に酔いますが,酔っているのは王ひとりではないようです。イザヤの次の言葉が預言的に示すとおり,高官たちの目を覚まさねばならないことからする と,それら高官たちも酔ってぼんやりしているものと思われます。
9 『盾に油をそそぐ』ことが必要になるのはなぜですか。
9 「君たちよ,立ち上がれ,盾に油をそそげ」。(イザヤ 21:5後半)突如,宴は終わります。君たちは目を覚まさなければなりません。その場に呼び出されていた老齢の預言者ダニエルは,エホバがバビロンの王ベルシャザルを,イザヤが描写したのと同様な恐怖に陥れる様子を目にします。メディア人,ペルシャ人,エラム人の連合軍が都の防御線を突破すると,王の大官たちは大混乱に陥ります。バビロンはたちまち陥落します。では,『盾に油をそそぐ』とはどういう意味でしょうか。聖書では,一国の王がその国の盾と呼ばれることがあります。王は国の防御者また保護者だから です。 * (詩編 89:18)従って,イザヤのこの聖句は新たな王の必要性を予告しているようです。なぜ必要なのでしょうか。「まさしくその夜」ベルシャザルが殺されるからです。そのため,『盾に油をそそぐ』,つまり新たな王を任命する必要があるのです。―ダニエル 5:1-9,30。
10 不実な行ないをする者に関するイザヤの預言の成就から,エホバの崇拝者はどんな慰めを得られますか。
10 真の崇拝を愛する人はみな,この記述から慰めを得られます。現代のバビロンである大いなるバビロンは,その古代版と同じく,不実な行ないをして奪略を行なう者となっています。今日に至るまで宗教指導者たちは,エホバの証人が禁令下に置かれ,迫害され,厳しく課税されるようたくらんできました。しかし,この預言からも分かるとおり,エホバはそうした不実な行ないすべてを見ておられ,処罰せずにはおかれません。エホバは,ご自分について誤り伝えたり,ご自分の民を虐待したりする宗教すべてに終わりをもたらされます。(啓示 18:8)そうしたことは本当に起こるのでしょうか。信仰を強めるには,古代バビロンとその現代版の倒壊に関する神の警告がすでにどのように成就してきたかを考慮するだけで十分です。
「彼女は倒れた!」
11 (イ)見張りの者にはどんな責任がありますか。今日だれが見張りの者として活動していますか。(ロ)ろばの戦車とらくだの戦車は何を表わしていますか。
11 ここでエホバは預言者イザヤに語りかけます。イザヤはこう記しています。「エホバはこのようにわたしに言われた……。『行って,見張り番を立て,その見るところを告げさせよ』」。(イザヤ 21:)この言葉は,この章のもう一つの重要なテーマ,つまり見張り番もしくは見張りの者という点を提示しています。これは,今日の真のクリスチャンすべての関心を引きます。イエスがご自分の追随者たちに,「ずっと見張っていなさい」と強く勧めているからです。「忠実で思慮深い奴隷」は,神の裁きの日が近いことと,この腐敗した世の様々な危険に関して,自分が見る事柄を語るのをやめたことは一度もありません。( 6マタイ 24:42,45-47)イザヤの幻に出てくる見張りの者は何を見ますか。「彼は一対の乗用馬の引く戦車,ろばの戦車,らくだの戦車を見た。そして,彼は注意を集中して厳密な注意を払った」。(イザヤ 21:7)これらの戦車はそれぞれ,戦闘隊形を組んで,訓練された乗用馬と同じほどの速さで前進する戦車縦隊を表わしているようです。ろばの戦車とらくだの戦車は,結束し てこの攻撃を開始する二つの強国,メディアとペルシャを適切に表わしています。さらに,戦争の際にペルシャ軍がろばとらくだの両方を用いたことは,歴史的にも裏づけられています。
12 イザヤの幻に出てくる見張りの者はどんな特質を示しますか。今日だれがそうした特質を必要としていますか。
12 それで,見張りの者は報告せずにはいられません。「[彼は]ライオンのように呼ばわりはじめた,『エホバよ,わたしは昼間ずっと物見の塔の上に立っております。わたしは夜ごとに自分の見張り所に就いております。そして,いま,人の乗った戦車が,一対の乗用馬に引かれてやってきます!』」(イザヤ 21:8,9前半)この幻に出てくる見張りの者は「ライオンのように」勇敢に呼ばわります。呼ばわって,バビロンのような恐ろしく大きな国に対する裁きの音信を告げるには,勇気が必要です。ほかにも必要なものがあります。それは忍耐です。見張りの者は昼も夜も持ち場にとどまり,決して警戒を緩めません。同様に,この終わりの日における見張りの者級にも,これまでずっと勇気と忍耐が必要でした。(啓示 14:12)真のクリスチャンはみな,そうした特質を必要としています。
13,14 (イ)古代バビロンはどうなりますか。バビロンの偶像はどんな意味で砕かれますか。(ロ)大いなるバビロンはどのように,またいつ同様な倒壊を経験しましたか。
13 イザヤの幻に出てくる見張りの者は,一台の戦車が前進しているのを見ます。どんなニュースがあるのでしょうか。「彼は語って言いはじめた,『彼女は倒れた! バビロンは倒れた。その神々の彫像を神はことごとく地に砕かれた!』」(イザヤ 21:9後半)何と胸の躍る報告でしょう。この,不実にも神の民から奪略する者は,ついに倒れたのです。 * しかし,バビロンの彫像や偶像はどんな意味で砕かれるのですか。メディア-ペルシャの侵入者たちは行進してバビロン の数々の神殿に入り,無数の偶像を打ち砕くのでしょうか。いいえ,そうしたことは必要ではありません。バビロンの偶像の神々は,都を保護する力のないことを暴かれるという意味で砕かれるのです。そしてバビロンは,もはや神の民を虐げることができなくなるとき,倒壊を経験します。
14 大いなるバビロンの場合はどうですか。大いなるバビロンは,第一次世界大戦中に神の民に対する虐待を仕組むことにより,一時期,神の民をいわば流刑状態にとどめました。神の民の宣べ伝える業は事実上,停止させられました。ものみの塔協会の会長をはじめとする主だった役員は,虚偽の告発により投獄されました。しかし1919年に,驚くべき逆転が生じました。役員たちは刑務所から釈放され,本部事務所は再開され,宣べ伝える業も再び開始されたのです。そのようにして,大いなるバビロンは,神の民を捕らえておく力を砕かれたという点で倒れました。 * この倒壊は,「啓示」の書の中で二度,み使いにより,イザヤ 21章9節の発表の言葉を用いて布告されています。―啓示 14:8; 18:2。
15,16 イザヤの民はどんな意味で「脱穀された者たち」であると言えますか。その民に対するイザヤの態度から何を学べますか。
15 イザヤはこの預言的な音信を締めくくるにあたり,自分自身の民に対する同情のこもった言葉を述べ,こう言います。「わたしの脱穀された者たちとわたしの脱穀場の子よ,イスラエルの神,万軍のエホバから聞いたことをわたしはあなた方に伝えたのだ」。(イザヤ 21:10)脱穀は,聖書中でしばしば,神の民に対する懲らしめや精錬の象徴となっています。脱穀場ではもみがらが小麦から強制的に分けられ,混じり物のない望ましい穀粒だけが残ります。神の契約の民は,そのようにして『脱穀場の子ら』となるでしょう。イザヤはそうした懲らしめについて,いい気味だと喜んではいません。むしろ,それら将来の『脱穀場の子ら』に同情を抱いています。その子らの中には,異国の地で捕らわれの身のまま一生を終える者もいるのです。
16 こうしたことは,わたしたちすべてに有益な事柄を思い起こさせてくれるでしょう。今日のクリスチャン会衆には,悪行者に対する同情を失いがちな人もいるかもしれません。また,自分の受けた懲らしめに憤慨する人もいるかもしれません。しかし,エホバがご自分の民を懲らしめるのは精錬のためであることを忘れないなら,懲らしめそのものや,謙遜に懲らしめを忍んでいる人を軽視することはなく,自分が懲らしめを受ける時にそれに逆らうこともないでしょう。神の懲らしめを,神の愛の表明として受け入れましょう。―見張りの者に尋ねる
17 エドムが「ドマ」と呼ばれるのはなぜふさわしいと言えますか。
17 イザヤ 21章の2番目の預言的な音信では,見張りの者自身が前面に出てきます。冒頭の言葉はこうです。「ドマに対する宣告: セイルからわたしに呼ばわる者がいる,『見張りの者よ,夜はどうなのか。見張りの者よ,夜はどうなのか』」。(イザヤ 21:11)このドマとはどこのことでしょうか。聖書時代にドマと呼ばれた町は幾つもあったようですが,ここで言うドマはそのいずれでもありません。ドマはセイルにあるわけではありません。セイルはエドムの別名です。一方,「ドマ」には「沈黙」という意味があります。それで,前の宣告の場合と同様,前途を暗示する名がエドムに与えられているようです。長いあいだ執念深く神の民に敵対してきたエドムは,最終的に沈黙に,つまり死の沈黙に至ります。とはいえ,そうなる前に,心配して将来について尋ねる者がいます。
18 「朝は必ずやって来る。そして夜もまた」という宣告は,古代エドムにどのように成就しますか。
18 イザヤがこれを書いているころ,エドムは強大なアッシリア軍の進路上にあります。エドムの一部の人たちは,自分たちにとって圧制という夜が終わるのはいつなのかを是非知りたいと思っています。どんな答えが与えられますか。「見張りの者は言った,『朝は必ずやって来る。そして夜もまた』」。(イザヤ 21:12前半)エドム にとって好ましい前途は期待できません。朝のかすかな光が地平線に現われますが,幻影のようにすぐに消えてしまいます。朝に続いて直ちに次の夜,つまり新たな圧制の暗い時期が訪れます。エドムの将来を何と適切に描写しているのでしょう。アッシリアの圧制は終わりますが,バビロンが世界強国としてアッシリアの後を継ぎ,エドムに大打撃を与えるのです。(エレミヤ 25:17,21; 27:2-8)同様の交替が繰り返されます。バビロンによる圧制の後には,ペルシャの,そしてギリシャの圧制が続きます。その後,ローマの時代には,系統的にはエドム人であるヘロデ家がエルサレムで権力を握り,しばしの「朝」が来るでしょう。しかし,その「朝」は長続きしません。結局,エドムは永久の沈黙に下り,歴史から姿を消します。最終的に,ドマはエドムにぴったりの名となるのです。
19 見張りの者は「あなた方は尋ねたければ,尋ねるがよい。また来るがよい!」と言いますが,それはどういう意味であると考えられますか。
19 見張りの者は,簡潔なメッセージの終わりに,「あなた方は尋ねたければ,尋ねるがよい。また来るがよい!」と言います。(イザヤ)「また来るがよい!」という表現は,エドムに今後次から次に臨む数々の「夜」に当てはまるのかもしれません。あるいは,その表現が「戻る」とも訳せることからすると,イザヤは,エドムと運命を共にすることを望まないエドム人はみな悔い改め,エホバに「戻る」べきであることを示しているのかもしれません。いずれにせよ,この見張りの者は,さらに尋ねるよう勧めています。 21:12後半
20 イザヤ 21章11,12節に記録されている宣告が今日のエホバの民にとって意味深いのはなぜですか。
20 この短い宣告は,現代のエホバの民にとって非常に意味深いものとなっています。 * わたしたちの理解によれば,人類は霊的な盲目状態と神からの疎外という暗い夜に深く沈んでおり,その夜の先には,この事物の体制の滅びが待ち受けています。(ローマ 13:12。コリント第二 4:4)この夜の間には,人類が何らかの方法で平和と安全をもたらし得るというかすかな希望の光が生じるとしても,それは,夜明けのきらめきが幻影のように現われたかと思うと以前にも増して暗い時間が訪れてしまうのに似ています。とはいえ,本当の夜明けが近づいています。それは,この全地に及ぶキリストの千年統治の夜明けです。それでも,夜が続く限り,わたしたちは見張りの者級の指導に従い,霊的に油断せず,この腐敗した事物の体制の終わりが近いことを勇敢に告げ知らせなければなりません。―テサロニケ第一 5:6。
砂漠平原に夜が訪れる
21 (イ)「砂漠平原に対する宣告」という言葉は,どんな掛け言葉として語られたものかもしれませんか。(ロ)デダンの人々の隊商とはどんな人々ですか。
21 イザヤ 21章の最後の宣告は「砂漠平原」に対するものであり,こう始まります。「砂漠平原に対する宣告: デダンの人々の隊商よ,あなた方は砂漠平原の森林で夜を過ごす」。(イザヤ 21:13)ここ で言う砂漠平原はアラビアのことであると思われます。この宣告がアラブの幾つかの部族に向かって語られているからです。「砂漠平原」と訳されている語は,「夕方」と訳されることもあります。両者はヘブライ語では非常に似ています。一説には,この箇所は,暗い夕方ともいうべき困難な時代がこの地域に訪れようとしているという掛け言葉ではないか,と言われています。この宣告は,アラブの有名な部族デダンの人々の隊商が登場する夜の情景とともに始まります。そのような隊商は,砂漠のオアシスからオアシスへ交易路に沿って旅をし,香辛料や真珠などの高価な品を運びます。しかしこの聖句によると,隊商は往来の多い道からはずれ,ひっそりと夜を過ごさざるを得ません。なぜでしょうか。
22,23 (イ)どんな壊滅的な重荷がアラブの諸部族にのしかかろうとしていますか。それは,それら諸部族にどんな影響を及ぼしますか。(ロ)この災厄が臨むのはどれほど先のことですか。だれの手によって臨みますか。
22 イザヤはこう説明します。「渇いている者を迎えるために水を携えて来るがよい。テマの地の住民よ,逃げ去る者のためのパンをもってこれと向かい合え。剣のゆえに彼らは逃げ去ったからである。抜き身の剣,引かれた弓,戦いの激しさのために」。(イザヤ 21:14,15)そうです,戦争という壊滅的な重荷がこれらアラブの諸部族にのしかかるのです。この地域でも特に水の豊富なオアシスにあるテマは,哀れな戦争難民に水とパンを運んで行かねばなりません。こうした難儀はいつ生じるのでしょうか。
23 イザヤはこう続けます。「エホバはわたしにこう言われた……。『雇われた労働者の年期にしたがって,もう一年のうちに,ケダルのすべての栄光は必ずその終わりに至る。そして弓を引く人の数のうちの残っている者たち,ケダルの子らの力ある者たちは少なくなる。エホバご自身が,イスラエルの神がそう語られたからである』」。(イザヤ 21:16,17)ケダルは非常に際立った部族なので,全アラビアを代表するものとして用いられることがあります。エホバは,この部族の弓を引く人や力ある者たちの数が減って,残りの者だけになることをお定めになりました。いつそうなるのでしょう か。「もう一年のうちに」であり,それより先のことではありません。それは,雇われた労働者が給金の支払われる時間を超えて働くことがないのと同じです。正確に言ってどのようにこれらすべてが成就したかは定かではありません。アッシリアの二人の支配者サルゴン2世とセナケリブが,アラビアを服属させたのは自分の手柄であると主張しています。どちらであっても,これら誇り高いアラブの諸部族に予告どおりの大打撃を与え得たことでしょう。
24 アラビアに対するイザヤの預言が成就したと,どうして確信できますか。
24 いずれにせよ,この預言が一字一句成就したことは確信できます。その点を何よりも強力に示すのは,「エホバご自身が,イスラエルの神がそう語られた」という,この宣告の結びの言葉です。イザヤの時代の人々にとって,バビロンがアッシリアより優勢になり,その後,ほうらつな酒盛りの最中,一夜にして権力の座から追い落とされることなど,考えられないかもしれません。同様に,強大なエドムが死のような沈黙に至り,裕福なアラブの諸部族に辛苦と窮乏の夜が訪れようなどとは考えられないでしょう。しかし,エホバはそうなると言われ,実際そのとおりになります。今日エホバは,偽りの宗教の世界帝国が消滅すると告げておられます。それは,単なる可能性ではなく,確実に起きる事柄です。エホバご自身がそれを語られたのです。
25 見張りの者の手本にどのように倣えますか。
25 ですから,見張りの者に倣いましょう。あたかも高い物見の塔の上の持ち場につき,迫り来る危険を一つも見落とすまいと地平線に目を配っているかのように,警戒を怠らないでいましょう。忠実な見張りの者級,つまり今日地上に残っている油そそがれたクリスチャンと密接に協力するのです。見張りの者と共に,自分が目の当たりにしている事柄について勇敢に呼ばわりましょう。キリストが天で支配しており,まもなく神からの疎外という人類の長く暗い夜を終わらせ,その後,パラダイスとなった全地に対する千年統治という真の夜明けを招来する,ということを示す圧倒的な証拠について呼ばわるのです。
[脚注]
^ 6節 ペルシャの王キュロスは「アンシャンの王」と呼ばれていることがあります。アンシャンは,エラムの一地方あるいは一都市でした。イザヤの時代,つまり西暦前8世紀のイスラエル人は,ペルシャのことはあまり知らず,エラムのほうを知っていたのかもしれません。これは,イザヤがここでペルシャの代わりにエラムの名を挙げている理由の説明となるかもしれません。
^ 9節 『盾に油をそそぐ』という表現は,戦闘の前に革の盾に油を塗って,たいていの打撃をかわせるようにする古代の軍隊の習慣を指す,と多くの聖書注解者は考えています。そうした解釈も可能ですが,注目すべき点として,都が陥落した夜,バビロニア人にはほとんど応戦する暇もなかったのですから,盾に油を塗って戦闘に備える余裕などありませんでした。
^ 13節 バビロンの倒壊に関するイザヤの預言があまりにも正確なので,一部の聖書批評家は,その預言は事後に書かれたに違いないという説を唱えています。しかし,ヘブライ語学者のF・デリッチが指摘するとおり,預言者が霊感を受けて物事を何百年も前に予告し得ることを認めるなら,そうした憶測は不要です。
^ 20節 「ものみの塔」誌は,創刊から59年にわたり,表紙にイザヤ 21章11節を掲げていました。その同じ聖句は,ものみの塔協会の初代会長,チャールズ・T・ラッセルが書き残した最後の訓話の主題ともなっていました。(前のページの写真をご覧ください。)
[研究用の質問]
[219ページの図版]
「食べよ,飲めよ!」
[220ページの図版]
見張りの者は「ライオンのように呼ばわりはじめた」
[222ページの図版]
『わたしは昼間ずっと,また夜ごとに立っております』