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七十週

七十週

(ななじゅっしゅう)(Seventy Weeks)

ダニエル 9章24-27節で言及されている預言的な意味を持つ期間。その期間中にエルサレムが再建され,メシアが現われて断たれ,その期間の後にその都市も聖なる場所も荒廃させられることになっていました。

「メディア人の胤アハシュエロスの子」ダリウスの第1年に,預言者ダニエルは,ユダヤ人がバビロンから解放され,エルサレムに帰還する時が近いことをエレミヤの預言から悟りました。それからダニエルは,「『そして,あなた方は必ずわたしを呼び,来て,わたしに祈り,わたしはあなた方の言葉を聴くであろう。そして,あなた方は実際にわたしを求め,わたしを見いだすであろう。あなた方は心をつくしてわたしを尋ね求めるからである。そして,わたしはあなた方に見いだされるようにする』と,エホバはお告げになる。……『そして,わたしがあなた方を流刑に処して去らせた元の場所へ連れ戻す』」というエレミヤの言葉と調和して,祈りによって絶えずエホバを求めるよう努めました。―エレ 29:10-14; ダニ 9:1-4

ダニエルが祈っているうちに,エホバはある預言を託して,み使いガブリエルをお遣わしになりました。その預言はほとんどすべての聖書注解者がメシアに関する預言として受け入れていますが,その預言に関する彼らの理解は種々様々です。ガブリエルはこう言いました。

「あなたの民とあなたの聖なる都市に関して定められた七十週がある。これは,違犯を終結させ,罪を終わらせ,とがの贖いをし,定めのない時に至る義を携え入り,幻と預言者とに証印を押し,聖の聖なる所に油をそそぐためである。そして,あなたが知り,また洞察するべきことであるが,エルサレムを修復して建て直せという言葉が発せられてから指導者であるメシアまでに,七週,そしてさらに六十二週があるであろう。それは元どおりにされ,公共広場や堀と共にまさしく建て直されるが,それは苦境の時になされるであろう。そして,その六十二週の後にメシアは断たれる。自らのためには何も持たないであろう。そして,その都市と聖なる場所とは,やって来るひとりの指導者の民がこれを滅びに至らせる。それで,その終わりは洪水によるものとなる。そして,終わりに至るまで戦争がある。定められているものは荒廃である。また彼は多くの者のために一週のあいだ契約の効力を保たねばならない。そして,週の半ばに,彼は犠牲と供え物とを絶えさせる。また,嫌悪すべきものの翼の上には,荒廃をもたらす者がいるであろう。そして,絶滅に至るまでは,定められている事柄が,荒廃に横たわるものの上にも常に注ぎ出されるであろう」― ダニ 9:24-27

メシアに関する預言 この預言が,メシアを見分ける上で宝石とも言うべきものであることは全く明らかです。70週が始まる時だけでなく,その長さを確定するのは極めて重要なことです。もしその週が7日から成る文字通りの週であれば,これはあり得ないことですが,この預言は成就しなかったか(イザ 55:10,11; ヘブ 6:18),そうでなければ24世紀以上前のペルシャ帝国の時代にメシアが来て,だれにもそれと見分けられなかったかのいずれかです。後者の場合,メシアに関して聖書中に明記されている他の幾十もの必要条件は満たされなかった,あるいは充足されなかったことになります。ですから,その70週がもっと長い期間を象徴していたことは明らかです。確かに,この預言の中で説明されている出来事は,文字通りの70週,つまり1年4か月余り経過すれば起きるというような性質のものではありませんでした。大半の聖書学者の意見は,この預言の「週」が年の週であるという点で一致しています。中には,「七十週の年」としている翻訳もあり(聖ア,モファット,改標),ユダヤ人出版協会が1985年に出版した新しい聖書翻訳タナッハもその訳し方を脚注に載せています。―ダニ 9:24,脚注を参照。

預言的な意味を持つ「七十週」は実際にいつ始まりましたか

70週の始まりについて言えば,ネヘミヤは,ペルシャのアルタクセルクセス王の治世の第20年,ニサンの月に,エルサレムの都とその城壁を再建する許可を王から得ました。(ネヘ 2:1,5,7,8)ネヘミヤはアルタクセルクセスの治世を計算する際に,ユダヤ人の現在の常用暦と同様に,ティシュリの月(9-10月)に始まり,第12の月であるエルルの月(8-9月)に終わる暦年を用いたものと思われます。これがネヘミヤ独自の数え方なのか,ペルシャで何らかの目的のために用いられていた数え方なのかは不明です。

中には,上の説明に異議を唱え,ネヘミヤ 7章73節を指摘する人がいるかもしれません。その箇所でネヘミヤは,イスラエルが第7の月にそれぞれの都市に集められたことを述べており,ここでの月の順番はニサンからニサンまでの1年に基づいています。しかし,その時ネヘミヤは,西暦前537年にゼルバベルと共に「最初に上って来た人たちの系図上の記録の書」から内容を写し取っていました。(ネヘ 7:5)またネヘミヤは,当時の仮小屋の祭りの祝いが第7の月に行なわれたことを説明しています。(ネヘ 8:9,13-18)これは全く適切なことでした。なぜなら,その記述によると,彼らはエホバの命じられたことが「律法の中に書いてあるのを」見つけましたが,その律法,すなわちレビ記 23章39-43節には,仮小屋の祭りが「第七の月」(つまり,ニサンからニサンまでの教暦のその月)に行なわれると書いてあるからです。

しかし,ネヘミヤが種々の出来事に言及する際に秋から秋までの1年を使っていたと思われる証拠として,わたしたちはネヘミヤ 1章1-3節と2章1-8節を比較検討することができます。最初の箇所でネヘミヤは,アルタクセルクセスの第20年,キスレウ(常用暦で第3の月,教暦で第9の月)に,エルサレムの状況に関する悪い知らせを受けたことについて述べています。2番目の箇所では,出かけて行ってエルサレムを再建する許可を王に求めており,ネヘミヤはニサンの月(常用暦で第7の月,教暦で第1の月)にその許可を得ています。しかしそれは,依然としてアルタクセルクセスの第20年のことでした。ですからネヘミヤが,ニサンからニサンまでの暦をもとにしてアルタクセルクセスの治世の年数を数えていたのでないことは明白です。

アルタクセルクセスの第20年がいつかを確定するために,その父であり前任者でもあったクセルクセスの治世の終わりにさかのぼってみましょう。クセルクセスは西暦前475年の後半に没しています。ですから,アルタクセルクセスの即位年は西暦前475年に始まり,その最初の在位年は,他の歴史的証拠が示しているように,西暦前474年から数えられます。したがって,アルタクセルクセスの支配の第20年は西暦前455年になります。―「ペルシャ,ペルシャ人」(クセルクセスとアルタクセルクセスの治世)を参照。

「言葉が発せられて」 預言によれば,「エルサレムを修復して建て直せという言葉が発せられてから指導者であるメシアまでに」,69週年があることになっていました。(ダニ 9:25)聖書と共に一般の歴史は,イエスがヨハネのもとに来てバプテスマを受け,そのようにして油そそがれた者,指導者であるメシアになられたのは,西暦29年の初秋であることを示しています。(「イエス・キリスト」[誕生の時と宣教の期間]を参照。)歴史上のこの見通しのきく時点から逆算すれば,その69週年が西暦前455年に始まったことを確認できます。その年に,「エルサレムを修復して建て直せという言葉が発せられ(る)」という重大な出来事がありました。

アルタクセルクセスの支配の第20年(西暦前455年)のニサン(3-4月)に,ネヘミヤは王にこう嘆願しました。「もし,この僕がみ前に良い者と思われるのでしたら,私をユダに,私の父祖の埋葬所の都市に遣わし,これを建て直させてくださいますように」。(ネヘ 2:1,5)王は許可を与えました。それでネヘミヤはシュシャンからエルサレムまで長い旅をしました。アブ(7-8月)の4日ごろ,ネヘミヤは夜中に城壁を調べた後,ユダヤ人に,「さあ,エルサレムの城壁を建て直して,わたしたちがもうこれ以上恥辱を被ることにならないようにしましょう」という命令を出しました。(ネヘ 2:11-18)ですから,エルサレムを建て直せという「言葉が発せられ(た)」ことについて言えば,それはアルタクセルクセスによって認可され,ネヘミヤによってその同じ年にエルサレムで実施されたことになります。こうして,70週を数え始める年は西暦前455年であることがはっきりと証明されます。

城壁の修理の仕事は,わずか52日間でエルル(8-9月)の25日に完成しました。(ネヘ 6:15)城壁が再建された後,引き続きエルサレムの残りの部分の修復が行なわれました。最初の7「週」(49年)について言えば,エズラの助けを得たネヘミヤや,後に彼らの後を継いだと思われる人々は,ユダヤ人自身の内部の問題,さらにはサマリア人や他の人々からもたらされる外部の問題を抱えながら,「苦境の時に」働きました。(ダニ 9:25)西暦前443年以降に書かれたマラキ書は,ユダヤ人の祭司たちが当時陥っていた悪い状態を非難しています。ネヘミヤがアルタクセルクセスのもとを訪ねてからエルサレムに戻ったのは(ネヘ 5:14; 13:6,7と比較),それよりも後のことだったと考えられます。西暦前455年以降,ネヘミヤ個人がどれほどの期間エルサレム再建の努力を続けたのか,聖書は明らかにしていません。しかし工事は,49年(7週年)以内に必要な程度まで完成したものと思われます。その後,エルサレムとその神殿は,メシアが来る時のために存続しました。―「マラキ書」(書き記された時期)を参照。

『六十九週』後のメシアの到来 その後の「六十二週」(ダニ 9:25)について言えば,それは70週の一部であり,順番としては2番目に挙げられているので,「七週」が終わった後に続くことになっていました。ですから,エルサレムを建て直せという「言葉が発せられてから」,「指導者であるメシア」までの期間は,7足す62「週」,つまり69「週」― 483年 ― になり,西暦前455年から西暦29年までとなります。先に述べたように,その西暦29年の秋にイエスは水でバプテスマを施され,聖霊で油そそがれ,「指導者であるメシア」として宣教を始められました。―ルカ 3:1,2,21,22

こうして,ダニエルの預言は何世紀も前から,メシアが到来する正確な年を指摘していました。西暦1世紀のユダヤ人がメシアの登場に関するダニエルの預言に基づいて計算を行なっていたという確証はありません。とはいえ,聖書はこう伝えています。「さて,民は待ち設けており,またすべての者がヨハネに関し,『あるいは彼がキリストではなかろうか』と心の中で考えを巡らしていた」。(ルカ 3:15)人々はメシアを待ち設けていましたが,メシアが到来する正確な月や週や日を特定することはできなかったようです。ですから,彼らはヨハネがキリストではないかと考えました。ヨハネは西暦29年の春,つまりイエスがバプテスマのためにご自身を差し出される6か月前に宣教を開始したものと思われますが,それでも彼らはそう考えたのです。

週の半ばに「断たれる」 ガブリエルはさらにダニエルに対し,「その六十二週の後にメシアは断たれる。自らのためには何も持たないであろう」と言いました。(ダニ 9:26)キリストが苦しみの杭の上で死を遂げて断たれ,人類のための贖いとして,ご自分が持っていたものをすべてお捨てになったのは,『七週足す六十二週』が終わった後のある時点,実際にはそれから約3年半後のことでした。(イザ 53:8)証拠の示すところによれば,イエスは「週」の前半を宣教に費やされました。ある時,西暦32年の秋と思われますが,イエスは一つの例えを話し,明らかにユダヤ国民のことを「三年」間も実を結ばなかったいちじくの木(マタ 17:15-20; 21:18,19,43と比較)になぞらえられました。ぶどうの栽培人はぶどう園の所有者にこう言いました。「ご主人様,それを今年もそのままにしてやってください。いずれ周りを掘って肥やしをやりますから。それでこれから先,実を生み出すようでしたらよろしいですし,そうでなければ,切り倒してしまって結構です」。(ルカ 13:6-9)イエスはここで,そのかたくなな国民に対して行なったご自分の宣教の期間に言及しておられたのかもしれません。その宣教はその時点まで約3年間続いており,4年目に入ろうとしていました。

「一週のあいだ」効力を保つ契約 ダニエル 9章27節はこう述べています。「また彼は多くの者のために一週[もしくは7年]のあいだ契約の効力を保たねばならない。そして,週の半ばに,彼は犠牲と供え物とを絶えさせる」。この「契約」は律法契約ではありませんでした。というのは,第70「週」が始まって3年半後にキリストの犠牲がささげられた結果,律法契約は神によって取り除かれたからです。「神は,それ[律法]を苦しみの杭にくぎづけにして取りのけてくださいました」。(コロ 2:14)また,「キリストは……わたしたちを律法ののろいから買い取って釈放してくださったのです。……その目的は,アブラハムの祝福がイエス・キリストによって諸国民に及(ぶ)ためです」。(ガラ 3:13,14)神はキリストを通して,アブラハムの生来の子孫にアブラハム契約の祝福を確かに施し,イタリア人コルネリオに対するペテロの伝道によって福音が異邦人にもたらされるまでは,異邦人を除外しておられました。(使徒 3:25,26; 10:1-48)そのようにしてコルネリオとその家の者たちが転向したのは,タルソスのサウロが転向した後のことでした。サウロの転向は一般に西暦34年ごろの出来事と考えられており,その後,会衆は平和な時期を享受し,築き上げられてゆきました。(使徒 9:1-16,31)それで,コルネリオがクリスチャン会衆に迎え入れられたのは,西暦36年の秋ごろだったと思われます。それは西暦前455年から490年たった第70「週」の終わりのことでした。

犠牲と供え物とを「絶えさせる」 犠牲と供え物に関連して用いられている,「絶えさせる」という表現は字義通りには,「安息日にする,休みにする,働きをやめさせる」という意味です。ダニエル 9章27節にある,『絶えさせられる』「犠牲と供え物」は,イエスの贖いの犠牲ではあり得ませんでした。また論理的に言って,イエスの足跡に従う者たちによる何らかの霊的な犠牲でもありませんでした。それは,モーセの律法にしたがって,ユダヤ人がエルサレムの神殿でささげた犠牲と供え物を指しているに違いありません。

「週の半ば」は7年の中間,つまりその「週」年が始まった3年半後に当たります。第70「週」は,イエスがバプテスマをお受けになり,キリストとして油そそがれた西暦29年のごろに始まったので,その週の半分(3年半)は西暦33年の,つまりその年の過ぎ越しの時(ニサン14日)にまで及びます。この日は,グレゴリオ暦によると西暦33年4月1日に当たるようです。(「主の晩さん」[それが制定された時]を参照。)使徒パウロは,イエスが『神のご意志を行なうために来た』こと,そして神のご意志は,『第二のものを確立するために,第一のもの[律法による犠牲や供え物]を除き去る』ことだったと述べています。イエスはご自分の体を犠牲としてささげることにより,そのことを成し遂げられました。―ヘブ 10:1-10

ユダヤ人の祭司たちは,西暦70年にエルサレムの神殿が滅びるまで,そこで犠牲をささげ続けましたが,罪のための犠牲は神にとって受け入れられるものでも有効なものでもありませんでした。イエスは死の直前に,エルサレムに対し,「あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」と言われました。(マタ 23:38)キリストは,「罪のために一つの犠牲を永久にささげ(ました)。彼が,神聖にされつつある者たちを永久に完全にしたのは,一つの犠牲の捧げ物によるのです」。「それで,[罪や不法な行ない]に対する許しのあるところには,もはや罪のための捧げ物はありません」。(ヘブ 10:12-14,18)使徒パウロは,エレミヤの預言が新しい契約に触れていたこと,また,それによって以前の契約(律法契約)が廃れたものとされて古くなってゆき,「近く消えてゆく」ことを指摘しています。―ヘブ 8:7-13

違犯と罪を終結させる イエスが死によって断たれ,復活させられ,天に現われた結果,『違犯が終結し,罪が終わり,とがの贖いがなされました』。(ダニ 9:24)律法契約はユダヤ人が罪人であることを暴露し,彼らを罪人としてとがめ,契約違反者である彼らにのろいをもたらしました。しかし,モーセの律法によって暴露されたり,明らかにされたりして,罪が「満ちあふれた」ところでは,神の憐れみと恵みがメシアを通してなおいっそう満ちあふれました。(ロマ 5:20)メシアの犠牲により,悔い改めた罪人の違犯と罪を相殺し,その罰を撤回することができるのです。

永遠の義を携え入れる 杭の上でのキリストの死の価値は,悔い改めた信者たちに和解を得させるものとなりました。なだめの覆いが彼らの罪の上に広げられ,彼らが神によって「義と宣せられる」道が開かれました。そのような義は永遠に存続し,義と宣せられる人たちに永遠の命をもたらすものとなります。―ロマ 3:21-25

聖の聖なる所に油をそそぐ イエスはバプテスマの際,聖霊で油そそがれました。その時聖霊は,目に見えるはとのような形でイエスの上に下って来ました。しかし,「聖の聖なる所」に油をそそぐことは,メシアに油をそそぐことだけを指しているのではありません。なぜなら,この表現はいかなる人を指すものでもないからです。「聖の聖なる所」,つまり「至聖所」は,エホバ神の聖なる所を指して用いられる表現です。(出 26:33,34; 王一 6:16; 7:50)ですから,ダニエル書に出ている「聖の聖なる所」に油をそそぐことは,偉大な大祭司イエス・キリストが「ご自身の血を携え(て)」入られた「手で造ったのではない……より偉大で,より完全な天幕」と関係があるに違いありません。(ダニ 9:24; ヘブ 9:11,12)イエスがご自分の人間としての犠牲の価値をみ父に差し出された時,天そのものは,幕屋や後代の神殿の至聖所が表わしていた霊的な実体の様相を呈しました。それで,神の天の住みかは確かに,イエスが西暦29年に聖霊で油そそがれた時に存在するようになった偉大な霊的神殿の取り決めの「聖の聖なる所」として油そそがれた,つまり取り分けられていたのです。―マタ 3:16; ルカ 4:18-21; 使徒 10:37,38; ヘブ 9:24

『幻と預言者とに証印を押す』 メシアによって成し遂げられたこのすべての業 ― その犠牲,復活,犠牲の価値を携えて天のみ父の前に出たことなど,第70週に起きた事柄 ― は,「幻と預言者とに証印を押し」,それらが真実の事柄,神から出た事柄であることを示しています。その業はそれらの事柄に,間違いをする人間からではなく,唯一の神聖な源から出た事柄として,神の後ろ盾という証印を押しています。また,その幻をメシアに限定されたものとして封印します。なぜなら,幻はメシアのうちに,またメシアによる神のみ業のうちに成就するからです。(啓 19:10)その解き明かしはメシアのうちに見いだされます。それがほかのだれかに成就することは期待できません。ほかのものが,封印を解いてその意味を明らかにすることはありません。―ダニ 9:24

都市と聖なる場所にもたらされる荒廃 ダニエル 9章26節の後半と27節の出来事が成就したのは,70「週」の終わった後でしたが,それは,第70「週」の間にユダヤ人がキリストを退けた直接の結果でした。歴史の記録によれば,エルサレムに攻めてきたローマ軍の指導者は,ローマのウェスパシアヌス帝の息子ティツスでした。その軍隊は洪水のように,エルサレムと神殿そのものに実際に侵入し,都市と神殿を荒廃させました。こうして異教の軍隊が聖なる場所に立ったため,その軍隊は「嫌悪すべきもの」となりました。(マタ 24:15)エルサレムの終わりに先立ち,事態を収拾するためにあらゆる努力が払われましたが,それらはみな失敗しました。なぜなら,神の布告は次のようなものだったからです。「定められているものは荒廃である」。「絶滅に至るまでは,定められている事柄が,荒廃に横たわるものの上にも常に注ぎ出されるであろう」。

ユダヤ人の見解 西暦1千年紀の後半に,母音符号体系を採り入れたマソラ本文が作成されました。マソラ学者は,メシアであるイエス・キリストを退けたためと思われますが,ダニエル 9章25節のヘブライ語本文の「七週」の後にアトナーハ,つまり「終止符」を付けることによって,「七週」と「六十二週」を切り離しました。そのようにすると,この預言の62週,つまり434年は,古代エルサレムを建て直す期間に当てはまるかのように見えます。アイザック・リーサーの翻訳はこうなっています。「それゆえ,次のことを知り,理解せよ。エルサレムを修復して建てよという言葉が発せられてから,君なる油そそがれた者[が来る]までに七週があるであろう: [ここで,コロンによって終止符を示している]また六十二週のに,それは街路や(その周りの)溝と共に,さらに再び建てられ,それもその時代の圧迫を受けながら,なされるであろう」。アメリカ・ユダヤ人出版協会の翻訳も同様で,「七週があるであろう。また六十二週のに,それは再び……建てられるであろう」となっています。この二つの訳では,翻訳者の解釈を裏付けるためと思われますが,「間」という語がそれぞれ英訳の中に出ています。

E・B・ピュージ教授は,オックスフォード大学で行なった講義の一つに付けた脚注で,マソラのアクセント記号についてこう述べています。「ユダヤ人は二つの数字,つまり7と62を分けることを意図して,שִׁבְעָה[七]の下にこの節のおもな終止符を付けた。彼らはこれを,(ラシ[西暦11ないし12世紀の著名なユダヤ人のラビ]が,クリスチャンに都合の良い文字通りの説明を退けた時に述べているように)למען המינים,つまり『異端者のゆえに』,すなわちクリスチャンのゆえに,不正に行なったに違いない。そのように切り離した場合,節の後半は,『六十二週の間に,街路と城壁は修復され,建てられているであろう』という意味にしかならない。言い換えれば,エルサレムは434年をかけて建て直されるということになり,これでは意味をなさなくなる」―「預言者ダニエル」,1885年,190ページ。

ダニエル 9章26節(リーサー)の一部は,「そして,その六十二週の後に,油そそがれた者はこれに従う後継者なしに断たれるであろう」となっていますが,それについてユダヤ人の注解者たちは,その62週をマカベア時代までの期間に当てはめ,「油そそがれた者」という語を,西暦70年のエルサレムの滅びの時に生きていた王アグリッパ2世に当てはめています。また,これは,アンティオコス・エピファネスによって西暦前175年に解任された大祭司オニアスのことであると言う人々もいます。この預言をそのいずれの人物に適用するにしても,それでは預言の真の意義や重要性は失われ,年代の食い違いによって,その62週は時間的に全く不正確な預言になってしまいます。―ソンキノ版聖書(ダニ 9:25,26の注解),A・コーヘン編,ロンドン,1951年を参照。

ユダヤ人のそうした学者たちは,自分たちの見解を正当化しようとして,「七週」は7掛ける7,つまり49年ではなく,70年であると言いますが,62週については,7掛ける62年と数えます。そして,これはバビロンでの流刑の期間を指していると主張します。また,キュロスかゼルバベルか大祭司エシュアをこの節(ダニ 9:25)の「油そそがれた者」とし,ダニエル 9章26節の「油そそがれた者」を別の人物に当てはめています。

大半の英語翻訳は,この箇所ではマソラの句読法に従っていません。「七週」という表現の後にコンマを付けるか,言い回しによって,62週が70週の一部として7週の後に続くことを示唆するかしており,62週がエルサレム再建の期間に当てはまるような訳し方はしていません。(欽定,聖ア,ドウェー,新世,ロザハム,ヤングのダニ 9:25と比較。)ランゲの「聖書注解」の中のジェームズ・ストロングによる編者の注(ダニ 9:25,脚注,198ページ)はこう述べています。「7週と62週という二つの期間を分けて,前者を油そそがれた君が到来する最終期限に,後者を再建の時に振り当てるこの翻訳を正当化する唯一の根拠は,両者の間にアトナーハ[終止符]を付けるマソラの句読法にある。……問題となっている訳し方では,2番目の部分は前置詞を欠いた悪質な構文になってしまう。ゆえに,以前のすべての翻訳を踏襲した欽定訳に合わせるほうが勝っており,分かりやすい」― P・シャッフによる翻訳・編集,1976年。

この預言の意味については,ほかにも数多くの見解が出されており,メシアに当てはめる見解もメシアに当てはめない見解もあります。この点,現在入手可能な最古のセプトゥアギンタ訳がヘブライ語本文の内容をひどくゆがめていることに注目できます。ピュージ教授が「預言者ダニエル」(328,329ページ)の中で説明しているとおり,翻訳者は,その預言がマカベア家の闘争を支持するものとなるよう,記されている期間をわい曲したばかりか,言葉を付け加えたり,変更したり,置き換えたりしました。セプトゥアギンタ訳の現代の大半の版では,明らかにゆがめられたその翻訳の代わりに,西暦2世紀のユダヤ人の学者テオドティオンの訳が用いられています。テオドティオンの訳し方は,ヘブライ語本文と合致しています。

中には,預言に記されている期間の順序を変えようとする人々もいれば,それらの期間が同時に進行すると考えたり,実際の時間的な成就があることを否定したりする人々もいます。しかし,そのような見解を提出する人々は絶望的な混乱状態に陥り,そこから抜け出そうとしても,不条理の世界に入り込むか,預言が霊感によるものであることや真実なものであることをあからさまに否定するか,いずれかの結果になります。特にこの後者の考えは問題を解決する以上に問題を生み出します。前述の学者E・B・ピュージはその考えについてこう述べています。「それらは,不信仰にとっては解決できない問題だった。不信仰は,それ自体のために問題を解決しなければならなかった。そして,それまではもっと容易に解決できた。なぜなら不信仰にとっては,神の啓示される事柄以外はすべて信じることができるからである」― 206ページ。