スリランカ
スリランカ
インド洋の宝石。あなたがこれから訪れる島を多くの人はこう呼んでいます。この島をセイロンという名でご存じかもしれませんが,1972年以来それはスリランカと呼ばれています。
広さが約6万4,750平方㌔のスリランカは多くの切子面のある“宝石”です。海岸沿いはぐるりと熱帯低地で,中央部は丘や山を頂いています。丘へはココナッツの栽培園を通り抜けて行きます。ココナッツの栽培園の多くは現在美しい茶の木で覆われています。
人種やカースト制度,言語そして宗教のことを考えると,多くの切子面のあることがわかります。島の3分の2,すなわち中部と南部の人々はその大半がアーリア人であると唱えており,セイロン語を話し,小乗仏教の一部派テーラバーダをならわしにしています。彼らは親しみ深くてもてなしのよい人々です。スリランカの北部と東部にはドラビダ人のタミル語を話す人々がおり,そのほとんどはヒンズー教を信奉しています。彼らは勤勉さで知られています。
昔,交易の見込みを当てにして,はるかかなたのモロッコから回教徒がやって来ました。16世紀初頭には,ポルトガル人が香料に目をつけて海岸部を取りました。彼らとともにローマ・カトリックの僧職者が来ました。仏教からカトリックに改宗させるため大きな努力が払われました。その方法といえば,人々に物質的な利点を与えたり,強制したりしたのです。今日多くの海岸都市ではカトリックが優勢です。
1世紀ほど後になってオランダはこの“宝石”を取って,海岸地区だけを押えました。支配力の維持を助けるため彼らはマラヤとジャワから兵士を連れてきました。それによってまた別の人種がこの島に加えられることになりました。
征服の手段によるよりむしろ外交手腕によって,英国は1796年にセイロンを取りました。こうして人種や他の多くのプロテスタント教会というような他の切子面が現われました。しかし,事態は進展して,セイロンは1948年に独立しました。
英国もオランダも島民との結婚を非常に厳しく戒めていました。にもかかわらず,島民と結婚した人は少なくなく,バーガーとして知られる多数のその子孫たちはキリスト教国の様々な教会に属しています。実際,スリランカの人口の約10%はクリスチャンであると称しているのです。ところで,真のキリスト教はこの“インド洋の宝石”へどのようにして渡来しましたか。
良いたよりが聞かれる
伝説によれば,使徒のトマスがセイロンを訪れたことになっています。(ルカ 6:12-16)しかし,1910年にふたりの熱心なクリスチャンの婦人がここで良いたよりを伝道したというのは伝説ではありません。
ふたりはコロンボ港の船員監督職員であった,バーガーのE・W・デ・Z・ヴァン・トウェスト氏に出会いました。そして,ものみの塔協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルが著した「代々にわたる神の計画」と題する本ともう1冊の本を読むように彼を説得しました。やがてヴァン・トウェスト氏は自分が学んでいる新しい事柄を他の人々に話していました。好意的に反応した人のひとりに,メソジスト教会の牧師でD・N・ピエリスという名前のシンハラ人がいました。ヴァン・トウェストの助手であるH・W・ヴェントもそのひとりでした。
今の時代に関する良いたよりを喜んで受け入れた他の人々の中には,さらにふたりのシンハラ人の“クリスチャン”,エディリシンゲ氏とバプテスト氏がいました。また,バーカーのA・B・チャップマンもいました。彼はかつてカンディにあるクイーンズ・ホテルの馬と馬車の管理をする馬丁でしたが退職していました。公衆衛生検査官,T・E・カルナチッレキも真理を受け入れ,他の人々に良いたよりを分かち始めました。そうした活動すべてからして,増加が見込まれました。
ラッセル師がセイロンを訪問
1912年の初頭,それらの家族は,世界旅行の一環としてラッセル師が訪れるのを切望していました。その時ヴァン・トウェスト兄弟は病気でしたが,ラッセル兄弟はわざわざ彼の家に行って,短いながらも霊的に強める会話をしました。金持ちとラザロに関する良く宣伝された講演が,古い公会堂で900名を超す聴衆を迎えてラッセル兄弟により行なわれました。ピエリス兄弟はその会場でラッセルの2番目の講演をシンハラ語に通訳したので,すべての人は理解することができました。
ラッセル兄弟も,コロンボから川をひとつ隔てたヘンダラにあるらい病
患者の療養所を訪れました。パシーの人であるそこの責任者は,らい病患者がラッセル兄弟の話をピエリス兄弟の通訳で聞く取決めを設けました。ある人々は小冊子や他の文書を欲しいと申し出て,それを喜んで受け取りました。たまたま,そこにいる時に,ラッセル兄弟とピエリス兄弟はココナッツの若木から採った新鮮な水を供されました。ラッセルはピエリスに先に飲むようにとしきりに勧めました。白人が自分より先に“原地人”に飲ませるということは,見ていた人々にとって驚くべきことでした。理想的にもコロンボにあった,ヴァン・トウェスト兄弟の家の離れで日曜日の定期的な研究会が取り決められました。同兄弟がその会を司会しました。「新しい創造」と題する,「聖書研究」の第6巻を読んだ後,ヴェント夫妻は水の浸礼を受ける必要を悟りました。こうして,セイロンで最初の聖書研究者のバプテスマが取り決められました。浸礼は1914年5月31日に,カルナチッレキ兄弟の家の真後ろにある,オランダ人が建設したウェッラワッテの運河のひとつで行なわれました。
「写真-劇」がセイロンに来る
1917年,英国から来たA・A・ハート兄弟は,セイロンで4か月間過ごしました。彼は,地球と人間に対する神のお目的を概説した,スライドと映画と録音からなる「創造の写真-劇」を持ってきました。それはコロンボ,カンディおよび他の場所で上映されました。「写真-劇」は非常に人気があり,それが上映された時には必ず教会が空っぽになったと言われています。
カンディで最高潮が来ました。牧師たちが,その上映を禁止するようにと警察署長に言ったのです。しかし,ヴェント兄弟がシナリオを見せると,警察署長はこう言いました。「ヴェントさん,これにはどこにも悪いところはありませんが,この人たちが,それをやめさせようとわたしを悩ますのです」。「この人たち」,つまり牧師たちは大きな影響力を持っていたので,ハート兄弟は48時間以内に島を離れるようにと言われました。
初期のバイブル・クラスを一べつする
1918年に公衆衛生検査官として働いていた時に,カルナチッレキ兄弟は,レッド・ワークス会社と契約して英国から来ていたトマス・ワルムズリーに会いました。ワルムズリーはすぐに真理を認め,まもなくバプテスト・チャペルとフリーメイソンとのつながりを断ちました。そして,ウェッラワッテのボズウェル・プレイスにある彼の家は,毎日開かれていたバイブル・クラスのひとつが開かれる場所になりました。
そうです,毎日です。違う家で日ごとに聖書研究者はクラスを開いてい
たのです。それは賛美の歌と祈りで始まり,続いて,「エホバの証人の年鑑」の前身である「日々の天のマナ」の朗読が行なわれました。それから聖書の話がありました。ラッセル兄弟の説教のひとつが読まれたり,ヴァン・トウェスト兄弟が行なったりしました。最後に再び賛美の歌と祈りがありました。1920年代には遅いながらも着実な発展
1923年までに,50名を上回る人々がコロンボの会衆と交わっていました。日ごとのクラスは引き続き開かれており,だいたい3か月に1度,カルナチッレキ家かヴェント家で1日大会が開かれました。
日曜のクラスは地方新聞で広告されましたが,組織的な戸別の伝道はありませんでした。問題にされていたのは,出会った人に話し掛けて小冊子を配り,関心を示した人と長い論議をするということでした。ヴェント兄弟はカンディ出身で,時々そこを訪れました。汽車の旅についてヴェント姉妹は次のように伝えています。
「家族がカンディへ旅行した時にはいつも,父はわたしたちを馬車に置くと,どこかへ姿を消したものです。彼は別の馬車のところに行って座り,乗客たちと話しました。出来る場合には仏教の僧侶の近くに座り,シンハラ語の小冊子のある部分を示して,他の人々が聞こえるようにそこを読んでいただけませんかと僧侶に頼みました。多くの人は僧侶が読むのを聞きました。カンディでは,[ヴェント兄弟]は友人宅で講演を行なうことを取り決め,その友人はいつも近所の人たちを招待しました。およそ15名の人が耳を傾けている中で,父は聖書から話をしました。それはしばしば死者についての話でした。……父は復活があることを強調しました。……また,天的な体と地的な体について話しました。人々がそのことに驚いたのなんのってありません! でも,ほとんどの人は僧職者の妨害に逆らう立場を取るだけの勇気を持ちませんでした」。
1926年にF・E・スキナー兄弟がインドから訪れました。チャップマン兄弟の娘のアンは,スキナー兄弟が自分の講演を宣伝するビラを配布するのを助けました。しばらくの間,アンは配布者(現在は開拓者と呼ばれている)として奉仕し,インドから来たケイト・マーグラーの援助を一時受けました。ふたりはコロンボの南の地区を数か月間奉仕し,多くの文書を配布しました。
浮き沈みのあった1930年代
神の民の大会が1931年にインドのマドラスで開かれることを知るのは胸
の躍ることでした。アンとルツ・チャップマン,D・N・ピエリス兄弟ほか数人が出席しました。そこで彼らは,インドで良いたよりを伝道するために英国から来ていた数名の兄弟たちに会いました。その中には,ボンベイでスキナー兄弟と一緒に奉仕していたジョージ・ライトもいました。ルツ・チャップマンは明らかにライト兄弟に好印象を与えました。彼はカンディへ行って1936年4月6日にルツと結婚したからです。ジョージはカンディ市の外で配布者として奉仕するよう割り当てられました。時々,インドから兄弟たちが来てライト夫妻に加わり,長期間伝道活動を行ないました。彼らの奉仕の多くは丘陵地帯の茶園で行なわれ,王国をふれ告げる人々は幾千冊もの出版物を配布しました。その優れた業は1941年にジョージが亡くなるまで続けられました。その後まもなくルツは英国へ行きました。彼女の父親であるA・B・チャップマン兄弟は1933年に死亡していたのです。
ヴァン・トウェスト兄弟は1930年代に非常に体力が衰え,たくさん働けませんでした。彼は1938年5月に86歳で亡くなりました。ヴェント兄弟は翌月62歳で亡くなりました。今やクラスは立ち消えとなり,孤立した家族が自分の家で聖書の討議をしているだけでした。2,3人が少し伝道をしていましたが,その活動は記録されませんでした。年に1度主の晩さんに集まるよう努力する人はいたものの,セイロンのクリスチャンの組織は非常に弱くなり,第二次世界大戦が始まった時にはほとんど停止していました。
1940年代に復興
1941年,協会の文書に禁令が課され,セイロンにそれを持ち込むことは一切許されませんでした。旅行中の兄弟たちがわずかに持ち込んだり,飛行機のパイロットが「ものみの塔」誌をボンベイからかなり定期的に運ぶことができました。それらの出版物は一部の兄弟たちや関心のある人々の間で回覧されました。1943年にジュヴナル・チャップマン(A・B・チャップマンの息子)ともうひとりの兄弟はボンベイの大会に出席して新しい文書を数冊持ち帰りました。ジュヴナルはその時ガンパハの民間測量師で,ガンパハで幾らか伝道していました。彼はまた,シンハラ語の小冊子「いやし」をも含め,印刷も少ししていました。禁令は1945年に解除され,協会のボンベイ支部と再び自由に連絡を取ることができるようになりました。
1940年代の初期に,インドから訪問していた兄弟たちは鉄道の機関士で熱心なローマ・カトリック教徒であるE・L・V・キャンベルに会いました,みんなからヴィアと呼ばれていた彼はついに仕事仲間に伝道し,もう
ひとりの機関士であるロビン・タカーと彼の家族も非常に関心を示すようになりました。こうして事態は進展し始めました。ボンベイ出身のジャリー・ジェラードは1947年の初頭にコロンボを訪れた時,19名の人々を王国の伝道に携わるように援助することができました。当時必要をきわめていたのは,集会と伝道を定期的に組織し率先する兄弟たちでした。宣教者たちが手伝う
1947年4月30日の午前7時ごろ,ものみの塔ギレアデ聖書学校の第8期卒業生4人を乗せた汽車がコロンボのマラダナ駅に入りました。まもなく,4人の宣教者,すなわちスタンリー・ボウドリー,ジョージ・グリフィスス,フランク・ステビングおよびレイ・マシューズはコロンボで伝道していました。人々は喜んで文書を求めました。宣教者たちはセイロンで奉仕を開始した月の5月に305冊の書籍を配布し,238の予約を得ました。
タラワツゴタにある一軒の貸家が宣教者の家となり,宣教者たちは2台の自転車と1台の古いオートバイを買って交通手段にしました。彼らは英語を話す大勢の人々と研究を取り決めることができました。マシューズ兄弟は次のように回顧しています。
「わたしたちが到着した時から定期的な集会が開かれ,ほどなくしてエホバの証人のコロンボ会(会衆)が作られました。……わたしたちにとって伝道の業はとても容易でした。というのは,仏教徒であれヒンズー教徒であれ回教徒であれ“クリスチャン”であれ,どの家の人もわたしたちを座らせてくれ,わたしたちのために冷たい飲み物を注文し,わたしたちのいうことを全部聞いてから少なくとも何かの文書を求めてくれたからです。……
「その後わたしたちは街頭で雑誌活動を始めました。……わたしたちはたくさんの雑誌を配布しました。……白人が街頭で行商人にまじって雑誌を提供することは全く珍しいことでした。……
「次にわたしたちは公開集会を始めました。初めての集会はアールズ・コートで開かれました。わたしたちが招待した人々はみな出席することを約束したので,わたしたちは大勢の出席者を期待しました,ところが,やって来たのはわずか20人ほどでした。海に近いフォートという商業地区のそばの大きな広場,ゲイル・フェイス・グリーンに大勢の人が集まっているのに気づきました。わたしたちはそこで公開集会を開くことにしました。……広い芝生にいた人々は,ふたつのラッパ型の拡声器で聞くことができました。時には,二,三百人の人々が少なくとも講演の一部を聞きました。多くの人々に証言がなされました。わたしたちはほんの少数でした
が,人々はわたしたちの存在を感じました。最初の4か月間に,伝道者は22人の最高数に達しました」。1948年3月,ボレッラの小さな場所が宣教者の家として借りられました。そこは“高級な”住宅ではありませんでしたが,ともかくコロンボ市内にありましたから,宣教者たちは往復の時間を大いに節約することができました。
タミル族の間で発展する
ある人々によれば,コロンボの人口の半数近くの人は,そのほとんどが英語を知っていますが,タミル人であるということです。そのひとりであるG・H・G・アブラハムはたいへん関心を持ちました。彼は集会に定期的に出席し始め,1952年に王国伝道の業を開始し,1953年1月10日にカルカッタでバプテスマを受けました。
1954年の末にヘンリー・アブラハムは,年金の望ましい恩典を捨てて世俗の職を辞しました。なぜなら,特別開拓者としてエホバに奉仕するというより大きな特権を得たかったからです。それ以来,アブラハム兄弟は多くの霊的な子供たちの“父親”になりました。―コリント第一 4:14,15; フィレモン 10,11と比較してください。
人々を真に築き上げた訪問
ところで,1952年の初めに戻りましょう。ものみの塔協会のN・H・ノア会長がその年の1月にセイロンを訪問する計画があるのを知るのは非常に胸の踊ることでした。C・T・ラッセルがセイロンを訪れてから40年たっていました。
ノア兄弟の訪問中ほとんどの集会は鉄道会館を使用して開かれましたが,公開講演は公会堂を借りて行なわれました。すべての人にその講演のことを知ってもらいたいと願って,兄弟たちはたくさんのビラを配布しました。さらには,自転車の三方に大きな看板をつけてコロンボ中を走り回りました。それは確かに効果的でした。鉄道会館での集会の平均出席者数は約50名だったのに対し,「宗教は世界の危機に立ち向かえるか」と題するノア兄弟の公開講演を聞くために235名の人が雨の中を集まりました。
ノア兄弟は夕食を取るために宣教者の家へ行きました。砂の小山につまずいたり物干し綱に引っかかったりしながら,雨で水びたしの狭い小路をなんとか通り抜けて,やっと宣教者の家にたどり着いたのでした。彼はしばらくの間雑談してからこう言いました。「ところで,みなさんには新しい宣教者の家が確かに必要ですね」。
さらに宣教者が到着する
3か月後,宣教者たちはコロンボ10番地のヴィディヤラ・パレス10-1に移転しました。2階建てのすばらしいその家には近代的な設備があり,会衆の集会場としても非常に適していました。
1951年9月20日に3人の宣教者,すなわち,ハロルド・グルイヤス,ジョン・ウェスレイ-スミス,スミス・キャロルがセイロンに到着しました。1952年10月には,ギレアデ第18期のクラスを卒業したラルフとベティー・ジョンソンが到着しました。同年12月,彼らの同級生のチャールズとマリオン・ボシュニャクがふたりに加わりました。
今や家を明るくしたり,野外でセイロンの姉妹たちを援助する宣教者の姉妹たちがいるので,良い見込みがありました。確かに宣教者の家は明るくなりました。食事や家の全般的な状態が大きく改善されたのです。
王国の証言の拡大
1953年の初め,島のあらゆる場所に住む兄弟たちや関心を持つ人々を訪問する計画が立てられました。宣教者数人はオートバイを持っていましたから,村や美しい密林を通って旅行するその護送隊のような一行をご想像いただけることでしょう。最初に止まったのは,コロンボから約200㌔の所にある古都アヌラダプラでした。そこで数人は,関心を持っていたルカスという婦人と彼女の近所の人々を訪問しました。ほかの人たちは夜に公開集会を取り決めました。その集会は市場のそばの芝生で開かれました。聴衆のひとりが講演の通訳をかって出てくれたので,全員が理解できました。
次に行ったのはトリンコマリーです。そこではタカー家の人々と楽しい交わりをすることができました。その家族はトリンコマリーの南約10㌔のチャイナ湾に住んでいましたから,毎日電車で通わねばなりませんでした。旅行中,兄弟たちは通行人にシンハラ語とタミル語の小冊子をたくさん配布しました。集会はみんなから喜ばれました。さて帰りの旅に着く時が来ました。
一行は帰途丘陵地の都市カンディを訪れました。直ちに公開講演がクィーンズ・ホテルの娯楽室で予定されました。カンディの市民約20人が出席しました。
セイロン支部の設立
1953年11月,セイロンの神権的な歴史上非常に意義深い一歩が進められました。コロンボにものみの塔協会の支部事務所が設立されたのです。ラルフ・
ジョンソン兄弟が支部の監督に任命されました。それによって,セイロンの王国伝道の業がもっとゆき届いた監督を受けることは間違いありませんでした。この新しい支部事務所にエホバの祝福があることは非常に明らかなように見えました。毎月伝道者の新最高数がもたらされましたから,その奉仕年度の平均伝道者数は前年度の50%に当たる66人でした。また,主の記念式には122名が出席したので,みなたいへん喜びました。
長年の間には支部事務所と宣教者の家を数回移転させることが必要でした。今はコロンボ5番地レヤード・ロード62の良い場所にあります。立派な王国会館を含むその諸施設はこれまでのものよりずっと大きくて便利に配置されています。
夫人が病気になり,ジョンソン兄弟は支部の監督の務めを果たしてゆくことができなくなりました。そこで,インドで夫人とともに奉仕していたダグラス・キングが1954年4月に来てそれらの責任を引き受けました。
これまでにふたつの会衆,すなわちコロンボとカンディにひとつずつ会衆がありました。レイ・マシューズはしばらくの間巡回監督として奉仕するように任命されました。彼は業を拡大する目的でジャフナや他の場所へも旅行しました。
1954年5月には,セイロンで初めての巡回大会の計画が完成しました。コロンボ・ガール・ガイド本部で開かれたその大会は,ほんとうに励ましとなる大会で,公開講演に357人の聴衆が集まったのを見てみな大喜びしました。
拡大の時
弟子を作る業は前進していました。受ける訓練に答え応じて,さらに多くの会衆の務めを世話することのできる土地の兄弟たちは増加していました。それに伴って幾人かの宣教者が新しい区域を切り開くために出かけることができるようになりました。こうして,1954年12月にジョン・ウェスレイ-スミスと彼の実の姉妹(ギレアデ第11期卒業生)とボシュニャク兄弟姉妹は,セイロンの北部にあるジャフナに新しい宣教者の家を開きました。
イアン・キャンベルがセイロン放送局で会ったルー・ジョセフと彼女の養子であるユーチーは間もなく特別開拓奉仕に入りました。ルーの他の子供たちを伴って彼らはセイロンの南にあるガレに行って奉仕しました。こうして,良いたよりはセイロンのすみずみにまで伝道されました。
1955年2月にイアン・キャンベルとヘンリー・アブラハムはバティカロア
に向けて出発しました。そこの多くの人々は,神の王国について語っていたイヤムピライ氏のことを覚えていました。彼は1951年に83歳で死ぬまでそうであったと伝えられています。今やふたりの開拓者が入ったことにより,東部地方の業が本格的に行なわれ始めました。ことばをめぐる騒動
インド洋のこののどかな“宝石”は1956年5月に激しい一面を表わしました。アンパライで暴動が起きたのです。問題となったのは国語のことでした。シンハラ語を国語とする動きがありましたが,タミル族の人々はタミル語も国語にするよう激しく要求しました。
アンパライで働いていたトマス・メドウズというタミル人は真理に大きな関心を示しました。巡回監督のレイ・マシューズは,アブラハム兄弟とキャンベル兄弟といっしょにバティカロアから約67㌔のところに住むその人を訪問しました。彼らが聖書について話し合っていると,シンハラ語で金切り声を上げた騒々しい暴徒たちが道を突進してタミル人の家を打ち壊し,見つけたタミル人をだれかれなく虐待しました。ひとりのシンハラ族の隣人の助け ― そして恐らくみ使いの保護 ― により,兄弟たちとメドウズ家の人たちは難を免れました。
その後,トマス・メドウズは急速に進歩し,2か月たたないうちに野外奉仕を始めました。退職後,彼は特別開拓者になりました。ところで,暴動のあった夜にメドウズを訪れていたヒンズー教の友人も真理を受け入れ,1956年12月にエホバへの献身を象徴しました。彼もやがて特別開拓者になりました。
国語の騒動は1958年5月に再び起こり,多くの残虐行為が行なわれました。しかし,兄弟たちは非常に緊張した状態の中でも動き回って全員無事であることを確かめ,互いに愛のある思いやりを示し合いました。兄弟たちは中立を保ち当局者に協力したので,ひとりも被害を受けませんでした。―ヨハネ 17:16。
再び有益な訪問を受ける
1956年12月31日から1957年1月3日にわたるノア兄弟の2度めの訪問は,セイロンにおける喜ばしい神権的な出来事のひとつです。その訪問に合わせて大会が計画されました。「今の時における新しい世の平和」と題する公開講演が大々的に宣伝されました。たとえば4本の大きなたれ幕が効果のある重要な所に立てられましたし,運輸会社は百枚のポスターを無料でバスに張らせてくれました。言うまでもなく,コロンボの公会堂における
講演に435名の上品で礼儀正しい聴衆が集まっているのを見て,だれもが大きな喜びを味わいました。カースト制を見る
1958年1月,イアンとシーラ・キャンベルおよびヘンリー・アブラハムはギレアデ学校の第31クラスに入るために出発しました。3人はセイロン初のギレアデ卒業生としてその年の9月に帰りました。キャンベル兄弟姉妹はコロンボの宣教者の家から奉仕に出かけ,アブラハム兄弟はジャフナの宣教者の家から奉仕しました。当時そこにはハロルド・グルイヤス兄弟姉妹も奉仕していました。
ジャフナのことをグルイヤス姉妹は次のように語っています。「ここでわたしたちは初めて,いわゆるクリスチャンの間でさえ,カースト制がいかに根強いかを知りました。名目上のクリスチャンであったある関心を抱く人の家で(ものみの塔協会の)映画を上映した時,もうひとりの“クリスチャン”は,親族との関係を損なうことになるので出席できないと言いました。ふたりは比較的高いカーストに属していたのです」。“クリスチャン”の家で聖書研究が司会される時,しばしば近所の人々がやって来ましたが,他の人たちはいすに座っているのにそれら近所の人々は床に座って,身分の低い立場を維持しました。
神の御心大会
1958年の夏にニューヨークで開かれた,エホバの証人の神の御心国際大会は,クリスチャンの一大行事でした。ところで,セイロンの兄弟たちは1958年10月23日から26日にかけてコロンボで自分たちの神の御心大会を開きました。すべての人は霊的な食物と新しい出版物,特に「失楽園から復楽園まで」と題する本に感激しました。平易なことばで書かれ,さし絵の豊富なその本は,弟子を作る業のための有用な道具であることがわかりました。
船荷を受け取ってからわずか2か月で1,044冊の「楽園」の本が配布されました。そうした優れた手引きが手に入ったからでしょう,その年に聖書研究の業は38%増加しました。
I・R・デイビッド兄弟が1958年の神の御心大会で野外奉仕に参加し始めたことにふれておきましょう。同兄弟は1960年4月30日にジャフナの大会でバプテスマを受け,間もなく15件の家庭聖書研究を司会していました。そのひとつはカッシムという人との研究でしたが,彼はセイロンで真の崇拝を行なうようになった最初の回教徒です。
内部的な問題が起こる
セイロンのエホバの民は霊的な繁栄と一致を楽しんでいました。ところが,そうした時に,内部的な問題が徐々に現われたのです。サタンは,不道徳な行ないを助長するという昔からの手口を使う機会を見いだしたのです。1961年に業の発展のために幾らかの変更をすることが必要になりました。したがって,宣教者のC・A・タレハ兄弟が巡回の業を世話するように任命されました。12月にはキング兄弟姉妹が,茶園を登って行った所にあるヌワラ・エリヤに新しい宣教者の家を開設しました。そこは伝道の業が事実上何も行なわれたことがない所でした。
1962年1月にレイ・マシューズは支部の監督の仕事を引き継ぎました。事態のそうした進展を通して,個々の人間が大切なのではないということをすべての人は悟らされました。クリスチャンは人間に頼るよりはむしろエホバを信頼し,エホバに頼らなければなりません。―詩 37:5。箴 28:25。
王国会館の建設
1960年代の初め,モラツワ会衆の兄弟たちは,セイロンでエホバの証人が所有する最初の王国会館の建設に忙しく携わっていました。当時の主宰監督であったB・L・ウディングは遺産を相続しました。人々は彼がそのお金で故郷のニュージーランドへ旅行するものと考えていたにちがいありません。ところがウディング兄弟はモラツワ会衆の王国会館を建てるという夢を実現するためにそのお金を用いたのです。他の人々は資産をためたり持ち物を売ったりして支援しました。
1963年5月4日,200人を上回る人々はその王国会館の献堂式に出席しました。それはラトマラナのケイル・ロードにあって,非常に有名な境界標になっているので,「マウント・ラヴィニア,王国会館」とあて名を書いただけの郵便物が届きます。
「永遠の福音」大会
1963年に開かれた,「永遠の福音」世界一周大会の開催予定地のうち,セイロンの兄弟たちにとって一番近い都市はニューデリーでした。セイロンから,32名の開拓者を含む109名の人が出席できました。
大きな問題だったのは,セイロンからインドへフェリーで渡った後に汽車に乗り換えることでした。「三等船客は接続している列車に絶対乗れず,いつもここで待って翌日乗らねばなりません」,と税関の主任徴税官は語りました。しかし,兄弟たちは責任のある立場の人々に協力を求め,
それからエホバに祈りました。それでどうなりましたか。税関の役人たちは兄弟たちの一行を別個に扱ってくれ,兄弟たちは気がついてみるとすし詰めの列車に乗っていました。彼らは乗り換えが出来たのです!すべての人が大会のプログラムから大きな益を受けました。また,多くの国から来た仲間の信者との交わりはほんとうにすばらしいものでした。出席者のうち数人はニューデリーでバプテスマを受けたので,その年セイロンでバプテスマを受けた人の合計は最高数である43人に上りました。
弟子を作る業は進む
支部の監督,レイ・マシューズがギレアデ学校の第39期に入学する準備をしていたので,C・A・タレハ兄弟が仕事に慣れるために1963年11月に支部事務所に呼ばれました。そのころ,ギレアデから帰ったばかりのメルロイ・キャンベルとA・グナナスンデラム兄弟はジャフナの宣教者の家を本拠に奉仕を始めました。
1965年2月にマシューズ兄弟がギレアデから帰った後,クリスチャンの活動を行なう際に土地のことばを使うことが一層強調されました。そうしないと,シンハラ語かタミル語で教育を受けている比較的若い世代の人々に音信を伝えることができないからです。王国をふれ告げるセイロンの人々に弟子を作る資格をさらに身につけさせるため,それらの言語を大いに使用することが会衆のあらゆる集会で励まされました。いうまでもなく,クリスチャンの出版物はすでに土地のことばで発行されていました。たとえば,「ものみの塔」誌は1956年8月に初めてタミル語で出版されましたし,最初のシンハラ語の雑誌は1958年3月に発行されました。
1967年12月に開かれた地域大会のプログラムのほとんど全部はシンハラ語とタミル語に翻訳され,またプログラムの扱い方は高い水準を示していました。大会の組織も長年の間にたいへん能率的になり,どの部門も良く機能を果たしています。ついでながら,セイロンの人々は午後にお茶を飲むのが好きなので,どの大会でもお茶の時間はなくてはならないものです。お茶といっしょにケーキとサンドイッチが大量に消費されます。
特にひとつの出版物が発行されたことによって,弟子を作る業は著しく進展しました。その出版物とは,「とこしえの命に導く真理」です。その本が船便で少量届いた1968年12月までに,最初の3章がすでにタミル語の「ものみの塔」誌に掲載されていました。正にその月に家庭聖書研究はそれまでの最高数である445件になっていました。他の場所におけると同様,セイロンでも「真理」の本を用いて6か月間の聖書研究課程が設けられまし
た。新しい人々がその研究課程に直ちに応じていることは間もなく報告に表われてきました。「地に平和」大会
1969年,宣教者たちと少数の伝道者は「地に平和」国際大会に出席するために海外に旅行しました。ふたりの宣教者(B・L・ウディングとフランク・ステッビング)はすでに亡くなっていましたが,ロンドン大会後にギレアデの第47期生であるアーサーとグウェネス・モリスがコロンボに到着しました。
様々な国の大会に出席したセイロンの兄弟たちの多くは,自分の国で「地に平和」大会が開かれる12月までに帰国しました。その大会で10人がバプテスマを受けて新しい弟子になりました。そのうちの数人は,「真理」の本を用いた6か月の聖書研究課程で真のキリスト教を奉じるようになった人々でした。
増加と問題
1970年4月,伝道者は新最高数の292人になりました。とはいえ,セイロンの人口は1,249万人でしたから,各伝道者が平均4万2,774人にまだ証言をしなければなりませんでした。彼らが一般の人々に伝道し続けるにつれて問題も起こりました。
1971年4月,全国的にテロ活動が起きて武装革命の脅威があったため,夜間外出禁止令が出されました。4月9日,兄弟たちがキリストの死を記念する式をしようとしていた時に突然丸24時間の外出禁止令が出されました。したがって集会を開くことは不可能になりました。しかし,幾つかの家族は家で忠実に式を行ないました。聖書に基づい民数紀略 9章9-13節と比較してください。)夜の9時以降の外出は依然として禁止されていて,出歩くのが難しかったので,ある人々は小さなグループで記念式を行ないました。しかし,そうした問題があったにもかかわらず,出席者の合計は615人でした。
て,神の民の全会衆が同年の30日後に記念式を行なうという取り決めが設けられました。(辛抱強さの実
長年にわたって様々な問題に遭遇したにもかかわらず,伝道者たちは辛抱強く良いたよりをふれ告げることに努力しました。そうした不動の態度は実を生みました。確かに,聖書の真理に答え応じた人々のほとんどすべては名目上のクリスチャンでした。しかし,キリスト教を信ずると唱えていない多くの人々が協会の出版物を読み,たとえばかつての仏教徒とヒンズー教徒が少数ながらエホバの証人になりました。
偽りの崇拝から真の崇拝への転向は大きな変化をもたらします。たとえば次のような例があります。ヒンズー教徒で,土地の医師でもある人が数年の間ジャフナの集会に出席していました。かつては自分もヒンズー教徒であったナダラジャー兄弟はその人との聖書研究を忍耐強く司会していました。初めて王国会館に来た時,彼はだらしのない服装をし,ヒンズー教の“神聖な”灰を額に塗りつけ,片方の耳に赤いハイビスカスを差していました。また,彼は誓いをしていたので髪の毛やひげをほとんど抜き取っていました。それでもその医師は毎週集会に来ました。両側にひとりずつ息子を伴って最前列に座っていました。真理の力の影響がしだいに表われてきました。衣服は清潔になり,灰は花とともになくなり,髪の毛は普通に生やされ,ひげはすっかりそり落されました。家庭でも社を取り壊したり他の処置を取ったりしたので,その人はエホバに献身することができました。彼は英語がわかりませんでしたが,バプテスマを受けた後に仲間の信者とにっこり交わした王国のほほえみは,自分がゴパラン兄弟として受け入れられていることを理解していることを確かに示していました。彼は急速に進歩して,1967年11月に特別開拓者になりました。彼の妻と子供たち全員も王国をふれ告げる者になりました。
増加は喜びをもたらす
他の場所と同様セイロンでも,上昇する物価と低収入のために生活の必需品を手に入れることは容易ではありません。また,バスや電車の料金の値上がりで,ある人は伝道の業をしたり集会や大会に行くのが難しくなりました。そうした人たちは,伝道者がなるべく旅行しなくてもよいような
場所で巡回大会を開く努力がしばしばなされていることに疑いなく感謝しています。様々の問題があるにもかかわらず,エホバは引き続き増加を促してくださっており,それゆえに兄弟たちはほんとうに喜んでいます。前奉仕年度中,王国をふれ告げる人々の数は最高数である529名に達し,1975年の主の記念式には1,377人が出席しました。8月に開かれた「神の主権」地域大会には912名が出席して,兄弟たちは大きな喜びを味わいましたが,もうひとつの大会がその後に開かれることになっていました。ところで,前途を考える時,兄弟たちはこの島にある14の会衆が今後繁栄することを確信しています。神は引き続き成長を促してくださるからです。―コリント第一 3:5-9。
開拓奉仕の業に携わる人の数が増加していることも兄弟たちにとっては大きな喜びです。恐らく,今後大勢の人が特別開拓者となり,新しい区域に行ったり,会衆の設立を助けたりすることができるでしょう。スリランカでは1,000万人を優に越す人々がまだ良いたよりを聞いていないので,それは絶対必要なことであると思われます。
第1世紀中,イエスの追随者たちは,受け入れる心のあるユダヤ人をイエスの弟子として集めることによって『刈り取り』ました。同様に,幾年もの間スリランカの兄弟たちも「永遠の命に至る実を集めて」きました。しかし,なすべき事はさらにあり,兄弟たちは,神の祝福が引き続き注がれることを確信しつつ,神から与えられた業を喜びのうちに推し進めます。スリランカの畑はまだ「収穫を待って白く色づいて」いるようであり,王国を宣べ伝え弟子を作る業の前途には胸のおどるような見込みがあります。―ヨハネ 4:34-38。
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1967年から用いられている,コロンボの支部事務所と宣教者の家