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パナマ

パナマ

パナマ

「魚の多い国」へ,さあ,おいでください。そのような名前で呼ばれて来たのは,中央アメリカと南アメリカを結ぶ長くて細い地峡パナマです。この国は長さが約772㌔で,ほぼ東西に伸びており,ゆるやかな“S”字型をしています。南東はコロンビア,北西はコスタリカと接しています。パナマ地峡の幅は最も広い箇所で193㌔,最も狭い箇所では60㌔ほどです。最も狭いのはパナマシティとコロン間で,それゆえに当然ながらそこは両大洋を結ぶ運河を掘る地点に選ばれました。その世界的に有名な水路,パナマ運河は大西洋と太平洋間の重要なつなぎ目です。

パナマは西暦1500年ごろロドリゴ・デ・バスティダスによって発見されたと言われています。1502年にコロンブスはその地峡を探査し,1513年にはバルボアが横断して,同年9月26日に太平洋を発見しました。

パナマ全土の面積は7万4,108平方㌔で,人口は170万人と推定されています。住民はインディアンを含め種々様々な人種からなっていて,スペイン人とインディアンの混血が主体をなしています。運河地帯では英語が用いられていますし,インディアンの方言も幾つか話されていますが,公用語はスペイン語です。

この熱帯の国にはふたつの主要な山脈が横切り,幾つもの川が網の目のように流れています。各地の年間雨量は2,290㍉から3,300㍉です。パナマは,ピューマ,ペッカリー,ナマケモノ,アリクイ,ワニなど,多種多様の野生動物が生息しているばかりか,熱帯地帯特有の2,000種を越える植物が生えていることでも有名です。ヘビも非常にたくさんいます。数分のうちに人を殺す猛毒を持つヘビが何種類かいます。

16世紀中,スペインはパナマを征服して植民地にしました。ローマ・カトリックは国教になりました。1718年,パナマはニュー・グラナダの総督の管轄を受けるようになりました。そして1821年にスペインからの独立を宣言してコロンビア連邦に入りました。1846年のビドラック条約によって,アメリカはパナマ地峡を横断する権利を獲得し,海岸から海岸まで鉄道を敷きました。それによってアメリカの東岸からカリフォルニアおよびそこのすばらしい金鉱地帯へ行くことができるようになりました。

1903年,コロンビアがアメリカに運河を掘る許可を与えるのを拒否したため,パナマは独立を宣言しました。そして,運河を掘る権利および,その維持と保護のために水路の両側の幅8㌔の土地を永久に(これはその時以来論争点となってきた)使用する権利をアメリカに与えました。パナマ運河は1914年に完成し,1920年正式に「世界経済の管」となりました。約3億6,600万㌦(約1,098億円)の経費で実現したものは,「ふたつに分けられた国 ― しかし,つなげられた世界」でした。少なくとも経済的な意味でそう言えました。

経済的に見ると,パナマは今日比較的に繁栄しています。主な輸出品はバナナで,輸出用の家畜の飼育が重要性を増しつつあります。果物,野菜,コーヒーも輸出されています。パナマ共和国は運河の運営から直接または間接に,年間ばく大な収入を得ています。観光事業も重要性を増しています。

パナマは宗教的に自由な国で,人口の大半はカトリック教徒で占められています。しかし,プロテスタント教会の大部分の宗派や東洋の宗教もあります。

良いたよりを聞く

パナマにおける王国の業が始まったのは,19世紀から20世紀の変わり目のころです。1890年代の末に,アメリカ聖書協会の一代理人はものみの塔協会の出版物を幾つかパナマに持って来て,配布し始めました。間もなく他の人々が王国の音信に関心を持つようになって,そのことを話題にし始めました。コロン市の教師だったイザヤ・リチャーズはクラス(もしくは,当時の呼び名でエクレーシア)を組織し,毎週の聖書研究を司会しました。それは1900年ごろのことです。

ジャマイカ島における神の真理の普及とパナマにおけるそれとは密接な関係があります。というのは,多くの西インド人が運河で働くためにパナマへ来たからです。まず,大西洋側のコロンで数名の人が神の王国の良いたよりに関心を示しました。そのひとりは,仕事でコロンに来ていたパナマシティ出身の,フリーメイスン団の会員だったヒューバート・L・ワーカーでした。1910年,ジャマイカのキングストンの協会の代表者は,パナマシティとその周辺で良いたよりを知らせるために,ふたりの聖書文書頒布者つまり全時間奉仕者であるモーガン兄弟とレイング兄弟を派遣しました。そのふたりは,ワーカーさんがコロンへ移る前に使っていた家に落ち着きました。その家に兄弟たちは集会を開く部屋と文書をしまっておく部屋も持っていました。聖書とものみの塔協会の「聖書研究」はすでに,英語を話す人々,主として運河建設従事者にたくさん配布されていました。同じ年,クリスチャン会衆がパナマシティに設立されました。その会衆にはほぼ50名の人が交わっていました。

その少し前,西アフリカのナイジェリアで“バイブル”ブラウンとして後に知られるようになったW・R・ブラウンは良いたよりに関心を持ちました。彼が,街頭で行なわれたイザヤ・リチャーズの講演に出席したのは1907年のことでした。その聖書の話は,神の目的を説明する上で参考に用いられていた「代々の図表」に基づいていました。真理を学ぶとすぐ,ブラウンはジャマイカに帰りました。それというのも,母親と妹に真理を伝えたかったからです。そのふたりは真理を受け入れ,バプテスマによって信仰を表明しました。それは1909年のことでした。ブラウン兄弟はずっと後にコロンへ戻ってランチの水先案内人として就職しました。彼は真理に対して非常に熱心になりました。それで,聖書文書頒布者のモーガンとレイングがパナマシティで業を開始した時,ブラウンは直ちにコロンを去り,ふたりに加わって良いたよりを広めました。3人は部屋が三つあるアパートを借り,ひと部屋を住居に,他のふた部屋を集会と倉庫に使いました。

1911年,ものみの塔協会の代表者のE・J・カワード兄弟はパナマに来て,運河建設従事者を対象に聖書の講演旅行をしました。彼は,ブラウン兄弟,モーガン兄弟,レイング兄弟を初め,パナマシティとコロンの,関心を持つすべての人々と会合しました。カワード兄弟はブラウン兄弟が特別な奉仕をする資格を持っていると判断し,パナマ地峡講演運動を終えた後ブラウン兄弟をトリニダードへ連れて行きました。彼はそこで1922年まで奉仕しました。それから,家族といっしょにアフリカへ渡り,“バイブル”ブラウンとして非常に有名になったのです。一方,聖書文書頒布者および関心を持つ人々はパナマで王国の宣明を推し進めました。その結果,パナマ地峡の両側と運河地帯の建設用の町々に強力なクラスが設立されました。

ジャマイカのキングズタウンにいた時,カワード兄弟は若い人々を聖書文書頒布者に任命し,訓練していました。1912年,そのうちの3人は世俗の仕事に就くために運河地帯に来ました。3人は会衆とも密接に交わり,存在していた組織を築き上げたり,真理を広めたりする上で大いに貢献しました。

ものみの塔協会の初代会長である,チャールズ・テイズ・ラッセルは1913年にパナマを訪れ,パナマシティの国立劇場とコロンのガーデン劇場で講演しました。彼が訪問した結果,王国の音信に対する関心が大いに鼓舞されたことは言うまでもありません。しかし,運河が開通した1914年に変化が起きました。建設の仕事がだんだん減ったので,兄弟たちや関心を持つ人たちの多くは西インドへ帰らなければなりませんでした。労働者を泊めるために建てられた多くの町は廃されました。それにもかかわらず,パナマシティとコロンには聖書研究者(当時のエホバの証人の呼び名)の非常に強い群れが残りました。したがって,王国伝道の業はしばらくの間引き続き繁栄を見ました。

試みの時に示された忠実さ

ところが,1916年のラッセル師の死と,その後の過渡期があったために,多くの人の熱意が冷めました。その上,自分が群れの指導者であると考えるようになり,他の教えに従い始める者も出て来ました。彼らは,特に,かつてニューヨークの協会の本部にいたにもかかわらず不忠実になった者たちの教えに従いました。事態のこうした展開に,パナマにおける業は衰退し,1930年までに会衆の集会に出席したり「ものみの塔」誌を読んだりする忠実な人はほんの一にぎりしかいませんでした。しかしながら,パナマシティとコロンのクリスチャン会衆は決して解体しませんでした。

1931年,ものみの塔協会の二代目の会長であるJ・F・ラザフォード兄弟は,カリフォルニアへ行く途中でパナマを通りました。ラ・ボカとクリストバルという運河地帯の町にいた少数の関心を持つ人に話をしました。その中には,協会の運営方法に不満を持つ人がいました。その集まりはそれらの人々にとって決定的な要素となり,背教が起こり始めました。1931年に聖書研究者が採択したエホバの証人という名称で自分たちが呼ばれることを拒否するに至って,彼らは完全に背教してしまいました。それ以後,不忠実な者たちは自分たちのグループを作りました。少数の忠実な人たちにとってそのことは祝福となりました。ひとりの人はこう語っています。「集会で全くの平安を得,主との調和や互いの一致を感じたのは幾年かぶりのことでした」。

ジャマイカ支部のT・E・バンクス兄弟は1938年にパナマを訪れて,諸会衆を強めるためにできるだけのことをしました。王国伝道の業は引き続き行なわれましたが,増加はほとんどなく,スペイン語を話す人々に対しては事実上何の業も行なわれていませんでした。緊急に必要なものがありました。それは何でしたか。ものみの塔のギレアデ聖書学校はその答えを与え,それによって1945年にパナマにおける王国の業は真の転換点を迎えました。

宣教者の到着

1945年2月のある晴れた夏の日に,パンアメリカン航空の飛行機が運河地帯のアルブルック空軍基地に着陸しました。降りて来る乗客の中に書類かばんを持った中年の夫婦がいました。忠実な証人たちは,パナマへ派遣された初めてのギレアデ学校の卒業生であるロイ・W・ハーヴィ兄弟姉妹を暖かく迎えました。1945年の初めにパナマには45人の王国宣明者がいました。当時,全国にわずか三つの会衆しかありませんでした。すなわち,パナマシティとコロンとボカス・デル・トロの会衆です。

ハーヴィ兄弟姉妹に続いて間もなくギレアデの宣教者が来ることになっていました。その中には第二回生も混じっていました。その人たちのために適当な家を見付けなければなりませんでした。ハーヴィ兄弟は,「兄弟たちのしもべ」すなわち巡回監督になって諸会衆を訪問し,兄弟たちが王国の関心事を促進するためにより良い組織を得るのを援助することになっていました。ハーヴィ兄弟姉妹は,旅行していない時はパナマシティの会衆に交わりました。

ほどなくして,ドナルド・クジョーリーン兄弟が到着し,コロンで宣教者の奉仕をするよう割り当てられました。その後1945年9月に4人の宣教者が来ました。それは,アンナ・ミューラー,セルマ・ハルトクウィスト,メアリー・ドブロワルスキー,エダ・アンダーソンで,4人ともパナマシティで宣教者の業を始めました。宣教者の到来により,人口の大多数は自分たちの言語であるスペイン語で王国の音信を聞く機会を初めて得られました。とはいえ,スペイン語を知っていたのはクジョーリーン兄弟だけで,その外の宣教者はそれを学ばなければなりませんでした。彼らは立派にスペイン語が話せるようになりました。

1945年の暮れに,ヘイゼル・バーフォード,シルビア・プレスコット,エレン・キーンボームが到着してコロンに派遣されました。ハーヴィ兄弟は土地の弁護士を通して協会の法的な立場を得ました。増加のために万事が計画され,人々は答え応じ始めました。その年の末までに,パナマには王国伝道者が53人いました。再訪問の数は前年の合計1,657から1945年の合計3,879に増加しました。聖書研究は32件から113件に増えました。宣教者の業はパナマで効果的に行なわれていました。

支部の設立

インフルエンザのためにニューヨークに残っていた,バーフォード姉妹のパートナーのメアリー・ヒンズは1946年の初めに到着し,コロンに割り当てられました。4月には,ものみの塔協会の三代目の会長,N・H・ノア兄弟が,F・W・フランズ兄弟を伴って訪問しました。非常にうれしいことに,パナマに協会の支部が設立されるという発表がなされました。ロイ・W・ハーヴィは最初の支部の監督になりました。1938年以降,パナマはコスタリカ支部の管轄を受けてきました。

そればかりか,ノア兄弟の訪問中に,宣教者の家に関する新しい取決めが実施され,宣教者たちは大いに安心感を抱くことができるようになりました。

音信を携えて推し進む

その後,同じ年に,アーチ・レイパー兄弟とジュリアス・ルウィス兄弟が着きました。ふたりの行き先は,西パナマのチリキ州のダビデという土地でした。ふたりの外に数名の人がそこへ派遣されました。その土地は,ギレアデ出身の宣教者が大都市や人口の多い町から離れて任命される最初の土地のひとつに予定されていました。クジョーリーン兄弟とレイパー兄弟はまず家を整え,その後ルウィス兄弟がふたりに加わりました。しかし,その家には5人住むことができたので,1946年の末までにエル・ジャクザクとF・E・ハーヴィが到着しました。

チリキ州のダビデは多くの点で昔のアメリカ西部の辺境の町に似ていました。家畜を追いながらほこりっぽい裏通りを行く“カウボーイ”の姿が見られました。この肥よくな地域はパナマで消費される牛肉,米,および野菜を豊富に産しました。いうまでもなく,宣教者たちはそこでどんな霊的収穫があるかに関心を持っていました。そして,「畑」で働き始めたのです。―コリント第一 3:5-9と比較してください。

6か月後,9名からなる群れができました。その新しい王国伝道者たちは他の人々との聖書研究を司会しませんでしたが,自分たち自身は霊的に進歩していました。その後6か月以内に,新たに3名が群れに交わり始めました。それで,王国の音信を携えて,さらに一層推し進むのは賢明でした。

1947年と1948年中,ダビデの宣教者はチリキ州のほとんど全部の町と村で徹底的な証言をしました。彼らは人々に協会の書籍を多数配布し,真理の種は成長し始めました。

速力を増す!

その外に,1946年にパナマで宣教者の業を始めた人々は,ローパー兄弟姉妹とその娘であるメアリー・リー,およびエミリー・ズラク(現在のアーチ・レイパー夫人),エセル・コフマン,ホープ・ライヤーです。それと同じころ,パナマシティに最初のスペイン語の会衆が設立されました。1945年から1946年にかけての奉仕年度は,平均伝道者数109人,伝道者最高数131人をもって終わりました。その中には23名の伝道者と少数の開拓者が含まれていました。それら伝道者は,概算で,王国伝道の業に1万2,000時間費やし,書籍と小冊子を3万8,000冊,雑誌を2万8,000冊配布しました。再訪問は1万5,000にのぼり,平均214件の研究が司会されました。そうです,その時までにパナマにおける王国の業は速力を増していたのです!

1946年から1947年にかけての奉仕年度中,パナマで最初の巡回大会がスペイン語で開かれました。ダビデから5人の宣教者が出席し,十分に上達したスペイン語でプログラムに参加しました。その奉仕年度の終わりまでに会衆は九つになっていました。そのうちの六つは内陸部にありました。そして,王国伝道者は175人になっていました。1945年の初めから1947奉仕年度の終わりまでに,その数は289%も増加したのです。

続く数年間に,ある宣教者たちは様々な理由で任務を離れました。会衆のためにふさわしい集会場所を見つけるのにいつもたいへんな苦労がいりました。さらに多くの宣教者を収容し,文書を在庫しておく場所を得るために,支部は数回移転しました。ふたりのパナマ人の特別開拓者が任命された1948年から,それら特別開拓者の数は着実に増加し始めました。事実,長年にわたってクリスチャン活動は着実に発展してきました。

顕著な集まり

1948年に,北西パナマの小さな島であるボカス・デル・トロで地域大会が開かれました。コロンとパナマシティから100名ほどの兄弟姉妹を運ぶために一せきの船が雇われました。ところが出発の日に,雇われた船は姿を現わさなかったので,かえって人々の注意を引きました。しかし,エホバは別の船を準備してくださり,1,2時間遅れただけで,103人の証人からなる喜びにあふれた一行はコロン港の防波堤を通り過ぎて,波立つ青いカリブ海に乗り出しました。夜になった時,比較的大勢の人は甲板の下の何となく怪しげな様子の寝棚を使うよりも,静かな熱帯の空を仰ぎながら甲板の上で寝ました。いずれにしても眠れたのはほんの少数に過ぎませんでした。多くの船客は船酔いにかかり,手すりのそばで夜を過ごしました。しかし,全員はそれを切り抜けて,約402㌔の旅を終え,翌日の午後2時30分に無事到着したことを感謝しました。

巡回監督のアーチー・レイパーは,ホテルも大会会場も契約を無効にされてしまったというニュースを持って船にやって来ました。しかし,再びエホバは備えを設けてくださり,船がホテルになりました。その小さな島の住民は波止場に群がり集まりました。彼らは,エホバがパナマに組織を持っておられ,エホバの民が異なっていることを知るようになりました。小さな船の上に,白人のアメリカ人,黒人の西インド人,スペイン語を話すパナマの原住民,少なくともひとりの中国人,他の幾つかの人種や国籍の人々がみな,エンジン付きの大型ボートの狭い場所で起居を共にし,食事をしていました。そうしたクリスチャンの一致は島の人たちにとってそれまで見たことのないことでした。彼らが知っている白人といえば,パナマの人口を構成していた数か国語のできる人種から全く分離していた,排他的な「尊師」とか果物会社の実力者たちでした。

大会ホールといっても,入江の水に突き出た,屋根の付いた演壇があるだけでした。そこは,大会会場を吹き渡る貿易風のおかげで涼しくなっていました。その集まりは99人の出席者で始まりましたが,最後の公開講演には178人が集まりました。大成功だったので,次の年にも大会が計画されました。

拡大の一途をたどっていた特別開拓者の業と同じように,それらの大会も王国の音信を広める上で多くのことを成し遂げました。支部事務所は,伝道の業が全部の区域で行なわれるようになるまで,漸次伝道の業を拡大することを計画しました。特別開拓奉仕の資格を持つ伝道者ができるやいなや,それらの人たちは最初は比較的大きな町に,それからその次に大きな町にという具合いに派遣されたものです。ある特定な町に弟子が生まれる見込みがあるということが分かると,さらに大勢の開拓者が送り込まれました。成果が上がらない場合,開拓者たちはどこか他へ派遣され,その区域での伝道は一時中止されました。

出来事の多かった1950年

さて,アメリカのニューヨーク市で増し加わる神権政治大会が開かれる1950年になりました。初めて,パナマから国際大会に代表者が派遣され,4人の原地人が出席しました。

パナマでは,1950奉仕年度中,伝道者は496人の最高数に達して,14の会衆と様々な孤立した群れに交わっていました。宣教者がパナマで奉仕するようになってから最初の5年間で伝道者はおよそ10倍増加しました。

1950年の初め,ノア兄弟とロバート・E・モーガン兄弟はパナマを訪れました。協会の本部からそのふたりが訪問したほとんど直後の2月に,チリキ州ダビデで全国大会が開かれました。コロンとパナマシティからの旅行を回顧して,ヘイゼル・バーフォードは次のように書いています。

『ターミナルのあるふたつの都市の兄弟を乗せて,数台のバスがパナマシティから出発しました。わだちやくぼみで一杯の,舗装されていない道を20時間ほど旅行しました。その時は乾燥期の終わりごろだったので,粉のようなほこりが数㌢も積もっていました。ホイール・ボックスの上や後部に座っていた私たちは,もうもうとしたほこりの煙霧に包まれていました。バスの床とホイール・ボックスとの間に数㌢のすきまがあったからです。したがって,車輪に持ち上げられた,もしくは舞い上げられたほこりはバスの中に流れ込んで来ました。バスの前方が見えないこともしばしばありました。ほこりを幾らかでも吸い込まないように,私たちは鼻と口にハンカチをしっかりと当てましたが,かなりの量を吸い込みました。正午ごろダビデに着いた時,私たち全員は体も頭も着ている物もほこりで灰色一色になっていました。私たちがまず必要としていたのはシャワーだったことは言うまでもありません。しかも,親切にもそれは用意されていました。間もなく私たちは本来の姿に戻りました。

『いつもそうですが,大会はすばらしいものでした。その結果,ダビデと近隣の地域の人々に大きな証言がなされ,そこの兄弟たちはたいへん励まされました。帰りの旅行では,バスの様子が分かっていたので,ホイール・ボックスの周りにぬれた南京袋を詰めて,砂ぼこりがバスの中に入って来るのを大いに食い止めました』。

宣教者の生活

宣教者たちが増し加わる神権政治大会に出席し,休暇を終えて帰った後,そのうちの4人は新しい任命地であるチトレに行きました。当時を振り返って,1930年以来開拓奉仕をしているメアリー・ヒンドスは次のように書いています。

『8月の末に,ヘイゼルと私は荷造りを終えて,トラックで私たちを運んでくれるある関心を持つ人が来るのを待っていました。その人は思っていたよりも遅くやって来ました。ところが,彼は出発する前にトラックを洗わなければなりませんでした。トラックは前の日まで家畜の運搬に使われていました。主要道路でタイヤを変えるために止まったので,パナマシティに着くのが遅れました。パナマシティでエレン・キーンボームを乗せることになっていました。その後キャロリン・グレンズも加わりました。私たちは,新しい任命地に新鮮な果物や野菜が少ないと聞いていたので,かん詰めの補充もしました。支部で昼食をすませてから出発しました。

『チトレまでの旅行はおもしろいなんていうようなものではありませんでした。トラックの運転者の奥さんも私たちについて来ました。トラックには席が3人分しかなかったので,他のふたりは荷台にはいあがって家具といっしょに行かなければなりませんでした。旅の後半は,運転者の妻と私がトラックの荷台の,一番後ろの方に行き,ひっくり返したテーブルの上にマットを敷いて座りました。私たちの頭上には防水布がきっちりと掛かっていました。突然雨が降って来ました。それで運転者は,スピードを出せば雨水がトラックの後ろに入り込まないと考えて,アクセルを踏みました。トラックの後部にいた私たちは雨ばかりか,でこぼこ道での激しい揺れを一番ひどく経験しました。

『夜になって,私たちは近所の人たちにじろじろ見られながら荷物を降ろしました。その夜はアパートの床にマットを敷いて寝ました。ふたつの寝室,大きな食堂,玄関の片方の端にある台所,そのどの部屋にも戸だながありませんでした。窓には木のよろい戸がおりていました。私たちは大工の腕を奮わねばなりませんでした。ヘイゼルとエレンは窓に金網を取り付け,網戸を作りました。それから少し後に,ヘイゼルと私は台所の食器だなと寝室の衣装戸だなを作りました。

『私たちが使う水道の水は,人々が体を洗ったり,泳いだり,衣類を洗ったりする近くの川からパイプで送られて来ることを知りました。その川では家畜が水を飲んだり,豚が転げ回りもしました。私たちは水が澄んでいようと,チョコレート色をしていようと,一滴残らず15分間煮沸し,おりを沈殿させて飲料水にしました。それで,チトレにいた2年余りの間,私たちはアメーバつまり赤痢に感染したことは一度もありませんでした。その地域に豊富なサボテンの一種の果肉は,洗たく用の水をきれいにするのに使われました』。

チトレの生活様式や人々について,ヒンドス姉妹はさらに次のように話を続けています。『進歩的な農業地帯であるヘレラ州の州都チトレは新旧の文化が相会する所でした。土間になっていて草ぶき屋根の付いた小屋の泥の壁が,かわらぶきの屋根,つや出し加工をしたタイル張りの床,コンクリート・ブロックの壁からなるモダンなシャレーの隣りにあります。近代的な病院の横で祈とう師が開業しています。夏の間,水を飲ませるために砂地の牧場から家畜がほこりっぽい街路を川まで導かれて行く一方,そのすぐそばには,かんがいされ,近代設備の整った牧場があります。

『その町ではカトリックが非常に優勢だったので,人々は聖書を読むことを恐れ,ましてや聖書について話すことを恐れていました。また,親族が死ぬと,恐れのためにその死者の霊を慰める目的で何日も通夜をしないではいられませんでした。どんな方法にせよ司祭を怒らせてその不興を買い,“聖なる土地”に葬ってもらえなくなるのを恐れていました。教えられた慣習を破ることも恐れていました。

『その町はカンペシノス(田舎の人々)のための市場になっていました。人々は,卵の入った大きな平なべを頭にのせてチヴァ(小型の自家製バス)で来たり,産物を一杯詰めたかごを左右に付けた馬に乗ってやって来ました。そのかごの中に豚まで入っていることがありました。時には,前の馬のしっぽに2頭目の馬を付け,それにも荷物を乗せて来ることがありました。あるいは農産物のかごを肩にかついで歩いてやって来る人もいました。彼らは品物を現金と引き換えましたが,紙幣よりも銀貨の方を好みました。そこは,自分が持っているものはなんであれ分け与え,他の人からも同様にしてもらうことを当然と考える習慣にはぐくまれた,謙そんで愛すべき人々の生活の場でした。その大半がひたいに汗を流しながら土を耕してどうにか生計を立てている,勤勉な人たちの生活の場だったのです。これが,ほぼ2年余りの間私たちの区域になることになっていた土地の様子でした』。

宣教者たちはその地域の全住民に良いたよりを告げるためにそこにいました。それは容易なことでしょうか。ヒンドス姉妹はこう記しています。『さて,問題はどのようにしてその人たちの心に達するかということでした。私たちの到着以前,休暇を利用して真理の種をばらまくために出掛けた人たちが配布した文書は,そこに住む司祭を動揺させていました。ですから私たちは偏見から来る非常な憎しみの中にいました。「あの者たちの言うことを聞いてはいけない」。「あの者たちの文書を読んではいけない」。「彼らにつばきせよ」。「石を投げつけろ」。「聖書を半分でも読めば気違いになる」。司祭はそのようなことを言ったのです。理解できることですが,人々は私たちがやって来るのを見ると,逃げて隠れたものです』。

『うっかりしていると,ひどい目に遭った上,侮辱されました。こんな具合にです。ある朝,一軒の家のドアをノックしたところ,私にはよごれた長いガウンに見えた服を着た,やせて背の高い,病人のような人が応対に出ました。私はスペイン語で女性形の語尾を用いて,「お気の毒な奥様」とその人に呼びかけ,病気かどうか尋ねました。中に招じ入れられて分かったのですが,その人は司祭でした。私はさんざんしかりつけられました。その司祭は私がアメリカ帝国主義者で,人々を誤導し,彼らの宗派から人々をわいろで引き離していると非難したのです! その人は私たちを困らせるためにあらゆる手段を尽くしました』。

それにもかかわらず,クリスチャンの熱意と隣人愛は勝ちを得ました。ヒンドス姉妹の説明によれば次の通りです。『親切と忍耐と感情移入。それはなんと必要かつ効果的なのでしょう。何日もたたないうちに,人々は私たちを家に呼び入れ,司祭が私たちを憎んでいる理由を尋ねるようになっていました。少しずつ,人々の信頼が勝ち得られました。それで,家庭聖書研究を2,3回した後,ラモスさんは恐れずにこう質問しました。「ノアの日の洪水は1914年の前でしたか,それとも後でしたか」。マリアは,低いバンキト(ベンチ)から,「金曜日に肉を食べるのはなぜ罪ですか」と聞きました。質問の多くはそのような簡単なものでした。でも,その人たちが答えてもらったのはそれが初めてだったのです。間もなく,私たち4人は,自分たちが十分に世話できる限り多くの家庭聖書研究を司会していました。……

『健康の問題ですか。もちろん,それはありました。宣教者は免疫を持っているわけではありません。でも,私たちは熱帯の病気に通じた優秀な医師を見付けました。その医師は,患者が治ったと納得のゆくまで朝も夜も応診して,真心からの関心を私たちに示してくださったので,私たちはその人を心から慕いました。しかも,その医師は最初の応診の後特別の手数料を請求することなく治療してくれたのです。こうして,ロジャス・スクレ博士のおかげで,ヘイゼルはマラリアから,私はがん固なインフルエンザから救われました。私はインフルエンザが,温暖な気候のところより熱帯におけるほうがずっと油断ならない病気だということを知りました』。

チトレで2年4か月奉仕した後,宣教者たちは新しい任命を受け,そのうちのふたりは運河地帯に派遣されました。それでチトレの新しく設立された会衆は献身した土地の兄弟たちの導きにゆだねられました。

著しい増加の見られた年月

1951年の前半に,ギレアデ学校12回卒業生のジョージ・A・ラニングがパナマに割り当てられました。そして,6月1日付けでパナマの,2番目の支部の監督に任命されました。しかし,ラニング兄弟は間もなく病気になって,2,3か月で奉仕が続けられなくなったため,以前にキューバ支部の監督だったジョージ・パパデムがパナマに派遣されて三人目の支部の監督になりました。もっともラニング兄弟は宣教者としてパナマにとどまりました。

当時パナマにはひとつの会衆しかありませんでした。その会衆はガンボアという町にあり,運河会社に勤める黒人の兄弟たちからなっていました。しかし,運河地帯で働く,アメリカ人を主とする白人に対しては,ほとんど証言が行なわれていませんでした。そのため,1952年にヘイゼル・バーフォードとメアリー・ヒンドスは運河地帯の町々で奉仕するよう割り当てられました。約1年半して,バルボアにふたりの宣教者と5人の伝道者からなる姉妹ばかりの会衆が設立されました。軍人を夫に持つ姉妹たちは,夫が勤務期間を終えると引っ越しましたし,運河地帯で就職していた他の人たちもよく別の土地へ移りましたから,その会衆の王国宣明者の数は一定していませんでした。やがて,運河地帯の町パライソにも,土地の従業員のために会衆が設立されました。

1952年に509人だった王国伝道者は1955年にほぼ78%の増加に当たる906人になりました。1951年には多数の宣教者の姉妹や他の幾人かの人々が到着しました。その中には,コスタリカ出身のドレル・スワビィとフェイ・グッディン,ジャマイカ出身のメイヴィス・マイヤーズ,アメリカ出身のミルドレド・タイラーがいました。ある人々は内陸部の町へ派遣され,新しい区域が証言を受けるようになりました。1955年の末に会衆が31に増加したことから,それが良い成果を上げたことは確かです。

1955年の初め,パパデム兄弟はメキシコ支部へ移され,しばらく巡回の業をしていたアーチ・レイパーがパナマの支部の監督に任命されました。F・E・ハーヴィ兄弟は,その時,スペイン語の全会衆に仕えるために巡回の業の任命を受けました。それまでにスペイン語の会衆の数は,幾つかの孤立した群れを含めて20ほどになっていました。2,3か月後,ギレアデ学校14回卒業生のW・R・ギルクス兄弟も巡回の業に任命されました。ですから,巡回監督は3人いたわけです。地域の業は支部の監督が行ないました。当時,巡回区は三つで,31の会衆とかなり多くの孤立した群れがありました。

1955年から1960年にかけて着実な進歩がありました。特別開拓の業が強調され,1960年の終わりまでに全時間伝道者の数は40人を上回っていました。また,パナマには21人の宣教者がいました。

支部の新しい施設

1957年,約300人を収容できる王国会館の付属した新しい支部事務所と宣教者の住居を建てることが許可されました。M・G・ヘンシェル兄弟が1958年1月にパナマを訪問した時に,その建物は献堂されるばかりになっていました。支部事務所の職員だけでなく,宣教者たちやパナマの全会衆は立派な新しい施設を大いに喜びました。それはこの国における王国の業の前進にとって確かに恵みであることが分かりました。

1960年までにパナマには1,231人の王国伝道者がいました。5年間にほぼ36%増加したのです。孤立した群れに交わっていた人々は一層強い霊性を身に着け,兄弟たちは会衆の責任を担う資格を得たので,新しい会衆も次々に設立されました。それで,1960年までに41の会衆と幾つかの孤立した群れがありました。増し加わる必要を満たすために,特別開拓者だったディマス・アルベレズ兄弟はパナマで2番目の原地人の巡回監督になりました。それからじきに,やはり特別開拓者だったデイビド・サンチェズ兄弟も巡回の業に入りました。王国の業は文字通りパナマの至る所で影響を与えていました。

教化する時

伝道者が1945年の初めの45人から1960年の1,231人に増加した後,それまでの進歩の地固めをし,すでに真理にいる人々を教化する時が来たように見えました。したがって,1960年から1965年にかけて,伝道者はわずか95人増えたにすぎませんでした。

これによって業が停滞したということにはなりません。そういうことは決してありません。伝道活動はパナマ全土で引き続き推し進められていました。ただ人々がそれまでのように答え応じなかったのです。その時期の政治的に不安定な状態が証言の業に幾らか影響したとも考えられます。

伝道活動が活発になる

1966年から1970年まで順調な増加が見られました。王国伝道者の数は1970年の末までに平均1,781人に増え,パナマには45の会衆と16の孤立した群れがありました。こうした増加は,「とこしえの命に導く真理」と題する本および,それを配布し聖書研究を始めることに熱心に努めた伝道者と開拓者の働きによるところが少なくありません。

伝道者は1971年から1976年まで引き続き増加しました。1971年4月には初めて2,000人を超えました。1972年と1973年には目立った増加がありませんでしたが,1974年に,エホバの王国を告げ知らせる人の数は15%増えました。1975奉仕年度中,神のみ言葉の伝道者数は毎月平均2,686人で,それは前年度の16%増加に当たります。1976年の4月には,3,028人の幸福な王国宣明者たちが伝道活動を報告しました。

建設の時

初期のころ,ふさわしい集会場所がなかなか見付からなくて苦労しましたが,エホバの過分のご親切によってその問題は克服されました。例えば,パナマシティの真ん中に位置する支部の建物には王国会館があります。1959年から1976年の半ばにかけて,少なくとも38の王国会館ができました。その中には,新築されたものもあれば,建物を買い取って集会用に改築されたものもあります。したがって,1976年までに,パナマの会衆の大部分は自分たちの王国会館で集会を開いていました。

王国伝道の業の拡大に伴い,文書を在庫しておく場所もさらに必要になりました。その必要を満たすため,まず1970年に,そして1975年にも,支部事務所の増築および改築工事が行なわれました。その工事は主として,時間と労力を提供した兄弟たちによって行なわれました。1958年に完成した建物には倉庫にする場所が十分あると思われました。しかし,パナマで良いたよりを広めるに際して配布される文書の量がほとんど信じられないくらい増加することは予知されなかったのです。現在,最初の時の3倍もの広さがありますが,それでも,聖書と書籍と小冊子の2年間分を常に在庫しておくには十分でありません。必要であれば,パナマの伝道活動にいつでも用いられるよう,適当な量の聖書文書を在庫しておくために,喜んで一層の調整を加えたいと思います。

高められた霊性

パナマの神権史上で顕著な出来事の中には,ものみの塔協会本部の兄弟たちや地帯のしもべの霊的に築き上げる訪問があります。1966年の12月にパナマで開かれた「神の自由の子」国際大会は思い出深い大会でした。多くの国々から約600人の訪問者があり,ものみの塔協会の理事が,ひとりを除いて全員出席したのです。その大会では英語とスペイン語の2か国語が同時に用いられました。

他の土地におけると同様,パナマでもエホバのクリスチャン証人の霊性に目立って貢献してきた,協会の教育活動のひとつは,王国宣教学校です。最初のクラスは,会衆の監督たちおよび男女の特別開拓者から成っていました。しかし,現在その課程を受けるのは長老たちです。そうした訓練はパナマにおける業にたいへん健全な影響を及ぼしてきました。それによって会衆はより良く組織され,監督たちは聖書の原則に対してさらに深い洞察力を持てました。

クリスチャンであるゆえに受けた苦難

長年の間に,証人の子供が放校処分を受けることが時々ありました。それというのも,国家の象徴の前で崇拝行為をすることや,現在の事物の体制の一部のための祈りを含む歌をうたうことに対する子供たちの立場が問題となったからです。比較的最近,当局はエホバの民にそのしきたりを守らせようとする態度を強めました。しかし,いうまでもなく,真のクリスチャンは政治に関して中立な立場を維持し,あらゆる形の偶像崇拝を避けます。―申命 5:8-10。ヨハネ 15:19; 18:36。コリント第一 10:14

一群の,エホバの証人の子供たちが学校で国旗に敬礼したり国歌をうたうことを拒否した後,1971年5月20日にそのことが新聞紙上で報道されました。また,巡回監督のペドロ・コルドバ兄弟外3人の男子の証人(そのうちのひとりは15歳の少年)は,国家守備隊員によって勾留されました。それらのクリスチャンは酔った少佐にこ突かれたり,侮辱されたりし,後でパナマシティの刑務所へ移されました。一週間ほどして,少年裁判所の判事は少年を釈放し,両親の保護の下に置きました。他の兄弟たちは,保釈金を請求されることなく,2,3週間後に釈放されました。

投獄された兄弟たちの裁判に立ち合った弁護士は政府の高官,つまり大臣の前で口ぎたなくののしられました。というのは,その弁護士が,保釈金を請求する根拠として挙げられた法律はその件に適用されないことを大臣に説明しようとしたからです。国旗敬礼や国歌をうたうことを直接義務付けた法律はパナマの法令全書にないことは明らかです。

忍耐の報い

真のキリスト教を実践する上でいかなる問題に直面しようとも,パナマの王国宣明者たちは辛抱強く良いたよりを宣べ伝え,エホバはその努力を報いられました。忍耐にどれほど価値があったかは,エミリー・レイパーの経験に良く示されています。レイパー姉妹は次のように書いています。

『10年前に,私は妻子のある金持ちの男性のめかけとなっていた人と聖書研究を始めました。その人には当時12,3歳の男の子がいて,その子は研究の時によく一緒に座っていたものです。男の子は父親に当たる人と母親との間柄に気付き始めて反抗的になっていましたが,女の人はその子を連れて集会に来始めました。彼女はその男性と別れてエホバに献身したいと強く願いました。しかし,克服し難い障害がありました。その人には在住証明書がなく,そのために職を得る機会もなかったのです。男の人は彼女に変化するのを思いとどまらせるため,自殺すると言って脅しました。おまけに,その男の人と正妻との間の子供たちから侮辱や脅しがありました。父親の生活を台無しにしたと彼女を責めたのです。数年の間,その聖書研究は中断されていました。ただ,私は時折その人を訪問して励ましたり,最近号の雑誌を届けることだけはずっとしていました。その間に彼女は体が悪くなって行き,息子は大酒を飲んだり悪い仲間に同調したりして,不良化しました。その女の人はどうすることができたでしょうか。

『さて,そのころ,政権が変わって,すべての外国人はふさわしい在住証明書を得るか,さもなければパナマを立ち退かねばならないという法律が施行されました。それまでに,息子は結婚していたので,母親と息子夫婦の3人は引っ越し先の住所を告げずにパナマを離れました。その人たちのために費やした7年間の労苦は無駄でしたか。

『その人たちの消息が分からないまま3年たってから,私たちを忘れられないほど感激させた一通の手紙が届きました。その息子と妻はバプテスマを受け,一時開拓奉仕の経験さえしていたのです。母親の方は次の巡回大会でバプテスマを受ける準備をしていました。しばらく後に,私はその家族を訪問する特権を得ました。彼らのたいへんな変わりようにすっかり感激してしまいました。母親は一時開拓奉仕を終えたばかりでしたし,息子は大会の劇に出演するので忙しくしていました。その3人は今ではきちんとまとまった幸福な家族になっていました。確かにエホバはその人たちを祝福なさり,3人の心の中で真理が成長するようにしてくださいました』。

かつてめかけという不道徳な生活をしていたその人は,やがてクリスチャンの男性と結婚し,聖書の原則に根差した家庭を持って結婚生活を楽しむようになりました。興味深いことですが,パナマのエホバの証人は幾年かの間に約850組の男女の結婚式を執り行ないました。そのうちの半分かそれより多くの男女は内縁の関係にありました。しかし,男女のいずれか一方もしくは双方が聖書の原則を学び,バプテスマによって神への献身を象徴するためにその原則に従いたいとの強い願いを持ち,正式に結婚したのです。

過去および将来の祝福

さらに大勢の誠実なパナマ人がエホバに献身することは疑いありません。弟子を作ろうと努めてきた長年の間,神は私たちを豊かに祝福してくださいました。そして,神が王国の音信を宣明する今後の努力をも祝福してくださることを確信しています。

時の経過と共に,エホバの賛美者の増加は勢いを増してきました。パナマで王国の伝道者が初めて1,000人になるのに約55年かかりました。それは1955年のことです。それから16年後の1971年に2,000人に達しました。ところが,わずか5年ほど後の1976年3月に,伝道者の数は3,000人になったのです。

現在3,000人を上回るパナマの王国伝道者たちは,エホバの祝福が引き続きあることを確信して将来に期待をかけています。神がご自分の民に託しておられる業を行ないつつ,神に忠節であり続けられますように。「行ないの忠実な人は多くの祝福を得る」とある通り,そうした活動は豊かな報いを得る結果となるからです。―箴 28:20,新。