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フランス

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約55万平方㌔の面積を持つフランスは,ソビエト連邦を除けばヨーロッパ最大の国です。フランス人は自分の国を「エグザゴン」(六角形)と呼ぶのが常です。掲載されている地図を見ればその理由がお分かりでしょう。フランスには,イギリス海峡,大西洋および地中海沿岸に優れた海岸があり,また,雪を頂く壮大なアルプス山脈とピレネー山脈があります。

フランスは共和国で,パリ特別市と95の県に分かれており,地中海のコルシカ島もこれに含まれます。人口は5,300万人を超え,地中海の諸民族・ケルト人・ゲルマン人・ラテン人といった遠い祖先の名残をとどめる様々なタイプの人々が混じり合っています。今日ではフランス人はみなフランス語を話します。もっとも,かつてのアルザス-ロレーヌ地方では,年配の人々はいまだにドイツ語かドイツ語の方言を使っています。第一次世界大戦後ポーランドからフランスへ来た坑夫たちは大抵ポーランド語を話します。イタリア人やアルジェリア人も大勢います。近年になって,スペイン人とポルトガル人の労働者が多数フランスへやって来ましたから,スペイン語とポルトガル語も全国的によく聞かれるようになりました。

16世紀と17世紀の迫害でプロテスタントが非常に減少しましたから,フランスは全体から見てカトリックの国と言えます。もっとも,「ブリタニカ百科事典」はフランスの宗教事情に関して次のように述べています。

「全西欧諸国に共通の現象であり,フランスにおいて特に顕著なのは,都市化や工業化の進行につれ,人々が多数宗教組織を離れていることである。農村は一般に伝統的な宗教に固執しているが,都市居住者,特に郊外地域の住民は非キリスト教徒化しつつある」。

ラッセルは土台を据える

フランスにおいてエホバの証人が活動し始めたのは19世紀の終わりにさかのぼります。1891年に,ものみの塔協会の会長チャールズ・T・ラッセルはパリを訪れ,フランスという活動領域の印象を「シオンのものみの塔」誌の1891年11月号の中でこう述べました。「カトリック教会のはなはだしい迷信によっていまだに盲目にされている人が多いとは言え,フランス人はあからさまな不信仰へと急速に傾いています」。

しかし,そのように望ましくない印象を受けたにもかかわらず,ラッセル兄弟は「聖書研究」と題する本をフランス語に翻訳させました。また,様々な小冊子やパンフレットもフランス語に翻訳されるように手配し,将来フランスで良いたよりを宣べ伝える土台を据えました。

ひとりの名もないスイス人のきこり

1890年代のある時,アドルフ・ウェーバーという名もないスイス人のきこりがアメリカへ渡りました。ウェーバーはアメリカのピッツバーグのラッセル兄弟のところで植木屋として働き,ラッセル兄弟から聖書の深い知識を得ました。しばらくして,ウェーバーは,フランス語が話される国々で福音を宣明すべくヨーロッパへもどることを申し入れました。ラッセル兄弟は結局その提案を受け入れ,ヨーロッパのフランス語が話される地域で宣べ伝える業を行なう資金を出すことを承諾しました。

アドルフ・ウェーバーは農民風の地味な人物でしたが,同時に,英語とフランス語とドイツ語に通じた,敬虔で円熟したクリスチャンでもありました。スイスにもどったウェーバーは,ラッセル兄弟が著わした「聖書研究」第1巻と幾種類かの小冊子の広告をフランス語の宗教新聞と雑誌に載せました。

関心の最初の兆し

1900年8月12日,フランス中央部のボベーヌという小さな町に住むエリ・テロンという名前のフランス人が広告を見て聖書文書を注文してきました。エリは真理の響きを認め,間もなく自分でも音信を広め始めました。その後1905年に,エリの家は,ものみの塔の文書の注文に応じる,フランスで最初の文書倉庫となりました。

1901年,ベルギーのシャルルロアの近くにある炭鉱村に住んでいたジャン・バプテスト・ティルマンという食料品商も,ウェーバー兄弟が載せた広告を読んで聖書の文書を注文しました。そして,翌年までには自分の家で聖書研究者の小グループの集まりを開いていました。後で分かりますが,その群れはのちにフランスの北部へ真理を伝えました。

1903年にラッセル兄弟はふたたびヨーロッパを訪れ,「シオンのものみの塔」誌をフランス語で発行する手はずをウェーバー兄弟と一緒に整えました。フランス語の「シオンのものみの塔」誌は最初8ページの季刊誌として1903年10月から発行されるようになり,1904年の1月に月刊誌となりました。

フランスの土を“耕す”

ウェーバー兄弟の新聞広告の運動の結果,協会の聖書文書を注文して研究する人は増えて行きました。夏の間ウェーバーはスイスできこりや植木屋の仕事をし,フランス語を話すスイス人に冊子を配布したり伝道したりしました。そのあと,フランスとベルギーに住む,文書を注文した人々や「ものみの塔」誌を予約した人々を訪問する長い旅に出掛けました。旅行中は植木屋をしたり片手間の仕事をしたりして生活費を得ました。ウェーバー兄弟の献身的な奉仕の結果,真理はフランスのあちこちに広まり始めました。

1904年,ウェーバー兄弟はベルギーのシャルルロアの近くのティルマン家を訪問し,プロテスタント教会の外で冊子を配る方法を教えて,ティルマン家の人々が北フランスに活動を広げるように励ましました。こうして,1904年の8月に,ティルマンとその幼い娘ジョゼフィンは北フランスの炭鉱地帯にあるドナンという町へ汽車で行き,バプテスト教会の外で冊子と「ものみの塔」誌を配布しました。その教会の会員数人は興味を持って文書を読み,「ものみの塔」誌を予約しました。それらの家族は間もなくバプテスト派の牧師にやっかいな質問をするようになり,とうとう,もう教会へ来てはならない,と牧師から言われました。それで,ドナンの近くのアヴェルイーに住むジュール・ルキームの家に集まって聖書研究をすることにしました。ついでながら,ドナンのそれらの家族,すなわちルキーム家,ヴォカン家,ポラール家の子供や孫は今もなお活発なエホバの証人で,孫の二人は現在フランスで巡回監督として奉仕しています。

1906年,ウェーバー兄弟はドナンのその群れを訪れて組織的な群れになるように助けました。間もなくドナン会衆はサンルノーブルという近くの町のプロテスタント教会の外で冊子を配布するようになりました。やがてその町でパールメール家を含む数家族が真理に関心を持ち始めました。ウェーバー兄弟はそれらの家族を組織して一つの群れにし,ヴィクトル・ジュパンの家で集まるようにしました。ヴィクトル・ジュパンは約60年間エホバに忠実に仕えたのち,1969年11月15日に亡くなりました。

ドナンのバプテスト派の牧師は,聖書研究者になった人々がいつかはバプテスト派の囲いにもどって来るという希望を依然として捨てませんでした。『あのうちのだれかが死ぬか,または結婚したくなるまで待てばいい。その時には,司式を頼みに私のところへ飛んで来るだろう』と心の中で考えていました。牧師の希望は,ある兄弟が亡くなった1906年にまずくじかれ,ルキーム家の二人の娘が結婚した1907年にまたもやくじかれました。その土地の聖書研究者の兄弟たちがそれぞれの式を執り行なったのです。

その間にも,宣べ伝える業はさらに南へと拡大していました。1907年には,レンヌの近くに住む一学校教員がカトリックのブルターニュ地方で「聖書研究」第1巻と「ものみの塔」誌を配布していました。そのころまでにフランスの文書倉庫は3か所になり,フランス語の「ものみの塔」誌の予約購読はそのいずれの文書倉庫にも申し込めました。1907年の末ごろ,「自発奉仕者を募集」することがフランス語の「ものみの塔」誌に発表されました。

1908年と1909年中にドナン会衆とサンルノーブル会衆は周辺の区域で宣べ伝え,パドカレー県のランスとオシェルといった,フランス北部の他の町で研究のグループを組織し始めました。

初期の訪問の旅

1908年12月から1909年2月にかけて,ウェーバーはフランス全国の20の県すなわち行政上の地域に住む群れや孤立した兄弟たちを訪問して回りました。それらの県の中には,ブザンソン,グルノーブル,バランス,ボルドー,ナント,レンヌ,アンジェ,パリ,ナンシーといった大きな都市がありました。また,そのころ,ドイツ語が話されるアルザス-ロレーヌ地方にも真理が広がり始めました。マリーオミーヌの町にはシュッツという活発な兄弟がいましたし,ペータースブーフという小さな町の聖書研究者たちは「考えるクリスチャンのための糧」と題する出版物のドイツ語版を配布していました。

1909年12月と1910年1月には3人の各地を訪問する兄弟すなわちA・メイエル,S・セギエ,およびアドルフ・ウェーバーがフランスの34の都市を訪ねて,そのうちの多くの都市で集会を開きました。フランス北部の織物業の盛んな大きな町ルベもその一つで,そこに会衆が作られました。兄弟たちが一番長く立ち寄ったのはパリで,1909年12月18日から20日まで滞在しました。ということは,その時までにフランスの首都における関心は高まりつつあったということです。同じ1909年に,フランス語の「ものみの塔」誌の名称が「ル・ファール・ド・ラ・トゥール・ド・シォン(文字通りにはシオンの塔の燈台)」から,現在も使われている「ラ・トゥール・ド・ガルド(ものみの塔)」に変わりました。

1910年に,「一般人伝道者」という小冊子のフランス語版の第1号が発行されました。フランス語の「ものみの塔」誌の1910年4月号には再び「自発奉仕者を募集」という記事が載りましたが,その内容は次のようなものでした。「現在,『一般人伝道者』の在庫はたくさんあります。第1号の10万部は印刷されたばかりです。これはすべての人に手渡せる特別号です」。

その年の末に,ウェーバー兄弟は再びフランス全国を訪問旅行しました。1910年12月22日に出発してフランスの聖書研究者の30の群れを訪問し,1911年1月28日にその旅を終えました。その旅行の直前,すなわち1910年12月4日と5日に,フランス北部の聖書研究者の一般大会がランスで開かれました。

ラッセルはその後2度フランスを訪問

1911年の主な出来事は協会の会長チャールズ・T・ラッセルの訪問でした。4月14日,ラッセルはドナンで開かれた大会で100人余りの人々に話を行ない,翌日にはランスで70名の人々を前に話をしました。その二つの大会にはベルギーの聖書研究者も出席していました。この時ラッセル兄弟を補佐したのは,ウェーバー兄弟とアレクサンドル・フライタークというもう一人のスイス人の兄弟でした。フライターク兄弟はフランス語が話される国々における伝道の業を監督する面で主要な役割を果たし始めていました。

ラッセル兄弟は1911年12月から1912年3月まで世界1周旅行をしました。その旅行記である「みやげ話」には,「ローマからパリへ行き,その大都会の中の小さな国際聖書研究者のグループと会った」と書かれています。旅行中ラッセルは幾つかの取決めを設けました。その一つとして,スイスのジュネーブに1912年6月付で「フランス事務所」と呼ばれるものを開設するための準備もなされました。それは,フランスとベルギーおよびスイスのフランス語地域における業を監督するための事務所でした。ラッセル兄弟はアルザス地方のミュルーズの歯科医エミール・ランツをその支部事務所の責任者にしました。ランツはアレクサンドル・フライタークの協力を得,フランス語の「ものみの塔」誌の翻訳を手伝ってもらいました。

こうして,世紀の変わり目に,ヨーロッパのフランス語地域における業をその出発から忠実に監督して来たアドルフ・ウェーバーは,高い教育を受けたランツとアレクサンドル・フライタークにその立場を譲りました。しかし,ウェーバー兄弟は良い精神を保ち,フランス語が話される地域の会衆と孤立した兄弟たちを年に1度訪問して回る奉仕を引き続き行ないました。1912年12月には,フランス全国の42の市町村を訪問する長い旅行に出発しました。

会長からの手紙

フランス語の「ものみの塔」誌の1913年3月号は,ラッセル兄弟がフランス語を話す兄弟たちにあてて書いた手紙を掲載しました。手紙の中でラッセル兄弟はとりわけ次のように述べました。

「フランス,スイス,ベルギー,イタリアの兄弟たちの関心が高まっていることを最近知って,うれしく思いました。私はそのことを大変喜んでいます。……本当に読んでくださる人々に無料で,また賢明に冊子を配る自発的な配布者の業の利点について,二,三お話しする必要があります。言うまでもなく,この業は,ジュネーブの事務所から与えられる指示に従い,特にプロテスタントの地方で行なわれなければなりません。……私は,今年フランスにおいて大きな努力が払われることを,また,それに相応する豊かな祝福が収穫の業に参加するすべての自発奉仕者に注がれることを願っています。フランスの聖書文書頒布者の業は他の国におけるほど成功していないようです。残念なことですが,私たちはそれを認めなければなりません」。

第一次世界大戦勃発の前年に当たるその年の間に,フランスの幾つかの場所で大会が開かれました。3月には北部のランスで二日間の大会が,夏には同じ地方のドナンでやはり二日間の大会が開かれ,ドナンでの大会には260人が出席しました。

ラッセルとラザフォードのパリ訪問

1913年8月31日,ラッセル兄弟は再びパリに立ち寄り,サン・ラザール駅のそばのアテネ通りにある農業展示場で集まりを開きました。ベルギーやスイスやドイツの兄弟たち数名を含むおよそ70人の兄弟たちが出席しました。

3週間ほどのちの1913年9月19日,ジョセフ・F・ラザフォードもパリで公開講演を行ないました。さらに,次の日には北部フランスのドナン大劇場で,実に1,000人を上回る聴衆を前に公開講演を行ないました。

第一次世界大戦直前の報告

フランス,およびスイスのフランス語地域において1913年に成し遂げられた業に関するラッセル兄弟あての報告の中で,エミール・ランツは次のように書きました。

「私たちは,国の中で,ユグノーや,ほかの新教諸派の信者が定着している地域に特に努力を集中することにしています。それらの地域で公の集会を催したり,関心を示す人々の住所を集めたりしています。……『トゥール・ド・ガルド』[フランス語の「ものみの塔」誌]の予約購読者は800人です。……訪問旅行をする兄弟たちが奉仕するのは,会衆のあるスイスのフランス語地域,フランス北部およびベルギーに限られています」。

こうして,世紀の変わり目から1913年に至る期間中は,人口の1.5%を占めるに過ぎないフランス人の新教徒に重点が置かれました。それもその全部にではありません。というのは,おもに北部フランスに力が注がれたからです。

1914年にも,アルザスで業の拡大が見られました。2月20日,ミュルーズの兄弟たちはストラスブールで初めての公開集会を催しました。エミール・ランツ兄弟は大勢の聴衆を前に,「死者はどこにいるか」という講演を行ないました。出席者のうち350人が住所氏名を置いて行きました。あとから,ドイツの聖書文書頒布者の一兄弟がその人々を訪ねて関心をさらに高め,こうして,ストラスブールに聖書研究者の小さな群れができました。7月には7人の新しい兄弟がバプテスマを受けました。

フランスにおける多難な時代

フランス語の「ものみの塔」誌の1914年8月号には,8月15日と16日にドナンで大集会が開かれることが発表されていました。ところが1914年8月3日にドイツがフランスに対して宣戦を布告したため,その集会はやむなく中止になりました。8月初旬,ドイツはベルギーおよび北部フランスに侵入しました。ある兄弟たちはパリ地方に疎開し,そこにすでにあった小さな会衆に加わりました。しかし,戦線の後方にとどまって引き続き伝道を行なった兄弟たちもいました。ドナンとその周辺の地域はドイツ軍に占領されてはいましたが,毎週日曜日に集会を開くことができ,ベルギーのシャルルロアの兄弟たちから「ものみの塔」誌の手書きの写しを入手することができました。

もっと南では,ドナンを離れてパリ地方に住んでいたテオフィル・ルキーム兄弟が「ものみの塔」誌を翻訳し,兄弟たちのためにその写しを作りました。このようにして,ドイツ軍の戦列の前にいても後ろにいても,兄弟たちは霊的な食物を受け取りました。ところが,一部の油そそがれたクリスチャンたちの間では失望感が深まっていました。エミール・ランツ自身もその一人でした。1914年は終わりに近付いていましたが,テサロニケ第一 4章17節に関して彼らが理解していたように,クリスチャンが「取り去られて空中で主に会(う)」ということは起きていなかったのです。フランス語が話される土地での業は,明らかに多難な時期にはいろうとしていました。

1915奉仕年度に関するラッセル兄弟あての報告の中で,ランツはジュネーブの事務所の活動を正当化する事柄を長々と書いていましたが,ジュネーブの事務所が必要となるほどに業を発展させた過去に払われた努力については一言も述べていませんでした。ラッセル兄弟はランツの物事の取り扱い方に不審を抱くようになり,1916年に,ドイツ系のアメリカ人であるコンラド・ビンケレをブルックリンからスイスへ派遣して事情を調べさせました。ランツはそのことに憤慨し,反抗的な態度を示して,ついには協会に敵対するようになりました。したがってビンケレ兄弟がチューリッヒにあった中央スイス支部の責任者となり,アレクサンドル・フライタークがジュネーブにある「フランス語地域支部」を監督することになって,その危機は過ぎ去りました。

もっと大きな危機

協会の出版物をフランス語に翻訳していたフライターク兄弟は勝手なことをするようになり,「ものみの塔」誌に自分の考えをさしはさむようになりました。ウェーバー兄弟はその変化に気づいてブルックリンに知らせました。ラッセル兄弟は,フライタークをジュネーブ支部の責任者に任命したばかりだったので,「もし彼[フライターク]がよこしまな僕なら,そのことはおのずと明らかになるでしょう」とウェーバーに書き送りました。

1916年10月31日,ラッセル兄弟は死亡しました。そのことは,ラッセルの後継者についての知らせを待つ間に,さらに様々な疑問や試みを兄弟たちにもたらしました。結局,1917年1月にラザフォード兄弟が協会の会長に選ばれました。

その後,ラザフォードはフライタークあての手紙を通して,『ベレア人の質問に関して決められている事柄を実行する』ようフランスの兄弟たちに勧めました。グループによる「ものみの塔」誌の研究に資するよう設けられた質問がベレア人の質問と呼ばれていたのです。1917年にそのベレア人の質問を用いての研究はフランス語の会衆でおろそかにされていたらしく,ラザフォード兄弟が上のように書き送ったのもそのためであったようです。

しかし,ラザフォード兄弟がベレア人の質問の使用を強く勧めたもう一つの理由は,兄弟たちが協会の出版物に載せられている真理に固く従うように助けることにありました。フライタークが「ものみの塔」誌を翻訳する際に自分の考えをそう入するということをラザフォード兄弟が知らされていたことは十分にあり得ます。フライタークが1917年10月6日から8日にかけてジュネーブでフランス語を話す兄弟たちのための大会を催したとき,ラザフォード兄弟が大会で読み上げさせる一通の手紙を書いたことは,そのことを示しています。それには一部次のように書かれていました。

「この機会に,クリスチャン愛をこめてみなさんにごあいさつ申し上げ,私がみなさんの霊的な幸福と現在の世における幸福に深い関心を抱いていることをお伝えしたいと思います。……目下許されている火のような試練は,是認されている人々とそうでない人々とを明らかにするものとなるでしょう。……心の中に誇りと野心を持っている人はみな大きな危険に面しています。というのは,そのような人々がそれらの傾向に強く抵抗しないなら,堕落したみ使いたちがその弱みに付け込んでそれらの者を征服するからです。その心の奥底ににがにがしい気持ちを持っているなら,悪魔にすきを与えます。……誤りのではなくて真理の使者であり僕でありましょう……むなしい議論を避け,中傷やうわさ話を一切退けましょう。……神は忠実と忠節を愛されます。したがって,わたしたちは,神に忠節であり,主に忠節であり,王国の音信を広めるために神が設けられた組織的な方法に忠実に従うべきです」。

ラザフォード兄弟は仲間の人々に対して温かで寛大でしたが,また,飾らない率直なタイプの人でもありました。そして,自分に取り入ろうとしているように思える人々に疑いを持ちました。一方,フライタークは人格の陶冶にたいへん重きをおき,自分自身に注意を引くことや,特に姉妹たちの人気を集めることを好みました。ですから,フライタークはラザフォード兄弟に腹を立てた人の一人でした。

ジュネーブ支部は今後経済的に独立すべきであると本部から言われたことに対して,フライタークは,フランス語の「ものみの塔」誌の1918年12月号に掲載されたフランス語地域における業に関する報告の中で『本部事務所』を公然と批判しました。当時,ラザフォード兄弟と本部のベテルの7人の兄弟たちは不当にもアメリカのジョージア州アトランタの刑務所に入れられ,服役中であったということを忘れてはなりません。フライタークは次のように考えたものと思われます。“ラッセルは死に,その同労者たちは投獄されている。だから彼らは,啓示 3章15-21節にある,神が口から吐き出された現代のラオデキア人である。わたしは主の使者だ。神は,新しい地を確立するために,そして今後ご自分の民を導くためにわたしを選ばれたのだ。”

パリ会衆がピッツバーグに通報

このような事態を考えて,パリ会衆は1919年1月19日付でジュネーブ支部に手紙を送り,その写しを,ペンシルバニア州のピッツバーグに一時的に移転していた協会の本部に送りました。その手紙には,書籍と小冊子と雑誌のフランス語の翻訳が「欠陥」翻訳であること,また「あまりにも誤訳が多いので,幾つかの出版物を販売もしくは配布するのを兄弟たちがちゅうちょしている」ことが述べられていました。さらに,その手紙は,「ジュネーブ支部の責任者の一人が採っている方法」に対して遺憾の意を表明していました。それには,パリ会衆の長老の委員会を代表して,書記のH・ルッセル兄弟の署名がありました。

同じ月,すなわち1919年1月にパリ会衆はジュネーブ支部に代わる,いわゆる“中央委員会”という組織を作りました。それというのも,ジュネーブ支部から来る指示が主の指導を表わしているとはもはや感じられなかったからです。

フライタークは乗っ取りの下工作をする

フライタークはフランス語の「ものみの塔」誌の1919年4月号から,ジュネーブ支部の「責任者」としてでなく「編集者」として自分の名前をその2ページ目に載せるようになりました。「ものみの塔」誌の公式のフランス語版の内容が英語版のそれとだんだん異なってきたので,スイスの数人の兄弟たちは,英語の「ものみの塔」をもっと正確に翻訳したものを自分たちで発行し始めました。ですから,しばらくの間,2種類のフランス語の「ものみの塔」誌が兄弟たちに配られていたのです。

1919年8月,フライタークは協会の文書の在庫と他の資産の一部を自分の住所に移しました。パリ会衆が起きている事柄を1月にピッツバーグへ知らせたこと,また1919年3月25日にラザフォード兄弟が釈放されたことを知って,フライタークは協会が間もなく必ず自分に対して処置を取ると考えたに違いありません。それで,自分の物にしたい資産を隠匿し始めたのです。

そしてついに,フランス語の「ものみの塔」誌1919年9月号で,神の真理は今やジュネーブの自分を通してでなければ得られないことを主張する記事を書きました。

よこしまな僕は解任される

「ものみの塔」誌の次の号には,フランス語版の読者すべてにあてたラザフォード兄弟の手紙が掲載されました。その内容は次の通りです。

「キリストにある親愛なる兄弟たちへ,

「……ラッセル兄弟は主の代表者として,数年前にものみの塔聖書冊子協会の支部をスイスのジュネーブに設立し,A・フライターク兄弟をその地域の代表者に任命しました。フライターク兄弟は,協会と主の単なる僕という立場にあったに過ぎません。……雑誌や出版物を発行する,つまりラッセル兄弟によって,あるいはその指示のもとに書かれた出版物とは異なるものを流布する権威が同兄弟に与えられたことは一度もありませんでした。今や兄弟が,教会の業の完成をゆだねられた特別の使者として主から任命されたと主張している以上,確かに同兄弟の問題は非常に重大です。

「彼が不忠実に振る舞うので,ものみの塔聖書冊子協会の管理機関は,彼を解任してフランス語地域の支部と関係のあるあらゆる事柄から手を引かせ,その代わりにC・ビンケレ兄弟を任命しました。ビンケレ兄弟は,私の承認のもとに,彼の監督下でフランス語を話す人々を対象とする業の世話をするフランス人の兄弟を選ぶ権威が与えられています」。

フライタークは裁判にかけられる

フライタークは法律的にものみの塔聖書冊子協会の代表者でなくなりましたが,それで問題が終わったわけではありませんでした。ジュネーブ支部の職員はフライタークの側に付き,フライタークはジュネーブのラトゥールメトレッス通り7番にあった協会の土地家屋を明け渡すことを拒みました。さらに,協会の「ものみの塔(ワッチタワー)」誌の予約購読者のファイル,文書の在庫,「創造の写真-劇」を上映する際に使われる高価な設備も手離しませんでした。そのうえ,フライタークは「ザ・ワッチタワー(ものみの塔)」と題する雑誌を発行し続けました。

協会の資産を手離すようにとフライタークを説得するためにあらゆる努力が払われましたが,効果がありませんでした。結局その問題は裁判にかけられ,フライタークは協会から盗んだ資産を返さなければなりませんでした。協会のジュネーブの支部は正式に閉鎖され,その活動はスイスのベルンに移されました。

言うまでもなく,こうした事柄はすべてフランス,ベルギー,それにスイスのフランス語地域の兄弟たちにとって大きな試練でした。自分を「主の使者」であると称して宗派を作ったフライタークに,少数の人が従いました。その多くはスイスの人々でした。フライタークは追随者から資金を出してもらって,ジュネーブの郊外に大きなカントリーハウスを買い,そこから自分の宗派の指揮を執りました。その宗派は「人間の友だち」という名前で今でもフランスにあります。

平和の回復とともに業は発展

フランス語地域における業は新たな出発をしました。フライタークの問題が解決したあと,フランス語を話す兄弟たちは1919年9月28日にパリで小規模な大会を開きました。その時に,一致と平和のすばらしい精神が示され,兄弟たちは協会の会長によって任命された兄弟たちと協調して働くことを決議しました。ものみの塔聖書冊子協会が業を再組織するまでの,ジュネーブ支部の行動に対する“防御手段”に過ぎなかった「中央委員会」は解散しました。

フランス語の「ものみの塔」誌は再び一種類となり,アドルフ・ウェーバー兄弟は翻訳委員会にもどりました。ラザフォード兄弟はフランス語を話す兄弟たちに手紙を書き送りました。その内容は1919年11月号のフランス語の「ものみの塔」誌に載りました。その中で,フライタークの事件を残念に思っていることを述べ,ベルンのエルネスト・ツァオク兄弟がフランス語関係の業の責任者となったことを告げたあと,ラザフォード兄弟は次のように書いていました。

「私たちの今の願いは,フランス語を話す友人たちの間に一致と調和を行き渡らせることを主がふさわしいと考えてくださるようにということです。……状況がもっとよければ,私は喜んでみなさんを訪問するのですが,個人的にも国家的にも大きな苦難を経験している今,そうすることは不可能のようです。しかし,主のご意志によって来年道が開かれるなら,みなさんに会いに行きたいと思います」。

ラザフォード兄弟の編制した,フランスにおける業を管理するための新しい組織は次の通りです。コンラド・ビンケレがチューリッヒの事務所にいて全体の責任を持ちました。エルネスト・ツァオクはベルンの自宅に事務所を持って,ビンケレ兄弟の監督のもとにいわゆる「フランス語関係の業」の責任者を務めました。ツァオク兄弟にはフランス人の「補佐兼顧問」が二人いました。すなわち,パリのジョゼフ・ルフェーブルとルアーブルのエミール・ドゥラノワの二人です。ルフェーブルは文書のフランス語版を発行する面でツァオク兄弟を補佐し,ドゥラノワは,フランス語の会衆が必要としている事柄の世話をするのを手伝うことになっていました。さらに,アンリ・ルッセル兄弟が,パリのレン通り11番の自宅にあった文書倉庫の監督を任せられました。

1919年8月27日,パリのレン通り11番に本部を置く,フランスの国際聖書研究者協会が設置されました。むろん,フランスにおける業は依然としてスイス支部の指導下にありましたが,その協会の設置によって,フランスの組織は法的にしっかりとした足場を得ました。

1920年の初頭にツァオク兄弟はフランス(アルザス-ロレーヌを含む)とベルギーの兄弟たちを訪問する長い旅行をし,ベルンへもどると兄弟たちに次のような手紙を書きました。

「刈り入れを拡大する業の開始に必要なものと指示が協会からいつ来てもよいように待機している熱心な兄弟姉妹たちを見て,深く感動させられました。どこへ行っても,フランス,ベルギー,アルザスの兄弟たちが過去数年間の厳しい試練を通して実を生み出しているということを確かに感じました。また,フランス語が話される区域でなお行なわなければならない業を主の民が主の道具を用いて完了することができるように,こうして至高の主がご自分の民を整えられたことを確信しています」。

「神のみことばの奉仕者」(V.D.M.と呼ばれた)という質問表が使われるにつれて兄弟たちの教える能力は向上しました。その質問表は,聖書的な事柄に関する22の質問からなる4ページの問題集でした。フランスの兄弟たちは採点してもらうためにそれをベルンの支部へ送りました。問題の85%以上に満足のゆく答えを書けた人は神の言葉の熟達した奉仕者とみなされました。

また,1920年にはフランスにいる兄弟たちの中から訪問旅行をする人が任命されました。最初に任命されたのは,すでに聖書頒布の業を活発に行なっていた,ルベ出身のアルフレッド・デュリユ兄弟でした。8月にはパリ出身のジョゼフ・ルフェーブル兄弟も訪問旅行者として奉仕し始め,フランス中部の孤立した兄弟たちを訪問しました。フランス語による業がランツとフライタークの指示を受けていたあいだずっと,その地域はなおざりにされていました。そして同年12月にエミール・ドゥラノワ兄弟がフランスの訪問旅行者として,また,ヴェルナー・ガイガー兄弟がアルザス-ロレーヌとザール地方の訪問旅行者として任命されました。

第一次世界大戦後,ドイツはフランスにアルザス-ロレーヌを返還しました。また,ザール地方そのものは15年間国際連盟の管轄下に置かれましたが,そこの炭田は損害賠償としてフランスに与えられました。しかし,そのいずれの区域も再び協会のベルン支部の管轄下に置かれました。

ラザフォードの訪問 ― 新しい組織

ラザフォード兄弟は願いがかなって1920年9月にパリを訪問し,9月19日に約120人の兄弟たちと会合しました。そのうちの40人ほどはベルギーやアルザスから来た兄弟たちで,アルフレッド・デュリユ兄弟が通訳を務めました。夜になって,ラザフォード兄弟はソシェテ・サヴァント・ホールで約1,000人の聴衆を前に公開講演をしました。そのうちの300人以上の人々は兄弟たちに訪問してもらうために住所氏名を残して行きました。

1920年の末ごろ,「中央ヨーロッパ支部」の設立が発表されました。チューリッヒのその支部(かつては「スイスにあるドイツ語地域支部」と呼ばれた)の管轄下に入る国は,スイス,フランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,オーストリア,イタリアでした。ビンケレ兄弟はその責任者に任命され,ツァオク兄弟はベルンに事務所を置く「フランス語関係の業」の責任者であることが確認されました。

「写真-劇」はめざましい成果を上げる

「創造の写真-劇」は1920年中フランスで広く用いられました。例えば北部の町ドナンで上映された時には900名の人が集まりました。アルザス-ロレーヌとザール地方ではもっと良い成果が見られました。フランス語の「ものみの塔」誌の1921年4月号は次のような報告を載せています。

「『写真-劇』はアルザス-ロレーヌとザール盆地の各地で申し分のない成功を収めました。最も大きな成果のあった土地はザールブリュッケン,フォルクリンゲン,およびストラスブールでした。……(ザールブリュッケン)の会館は3,000人を収容することができますが,満員のため毎晩大勢の関心ある人々が入場できませんでした……フォルクリンゲンでは,プログラムが午後8時から始まることになっていたのですが,午後6時半から始めなければなりませんでした。それで,店を持っている人々は特に『写真-劇』が見られるようにいつもより早く店を閉めました。ストラスブールで4回目の上映の時,2,000人の観客は神の王国のすばらしい設立についての説明がなされるのを午後11時半まで格別の関心と深い敬意を持って聴きました。わたしたちは,この種が多くの実を結ぶのを可能にしてくださるよう親切な天の父に祈っています」。

この区域で神のみ名と王国を知らせるこうした努力をエホバが祝福してくださったことに疑問の余地はありません。フランス語の「ものみの塔」誌の1921年8月号に掲載されたスイス人の訪問旅行者ヴェルナー・ガイガーの報告は次のとおりです。

ストラスブールでは,集会の出席が引き続き非常に良く,日曜日でも第7巻のベレア研究に100名の人が出席しています。以前は出席者はわずか50名でした。ブルマトには,関心のある人々30名からなる群れができました。その人たちは集会に欠かさず出席しており,彼らの知識の増加は目ざましいものがあります。……ここストラスブールでは兄弟姉妹たち10人が聖書頒布の業をしたいと自発的に申し出ました。ザールブリュッケンにもどると,関心を持って定期的に集まり合う150人の人々から成る群れができています。……その(ザール)地域の友の中には,バプテスマを受けたいという人が数人います」。

アルザスとザールで示されたこのような強い関心は,スイスから来た兄弟たちだけでなく,地元の数人の兄弟たちによってもさらに高められました。ベルン支部は,フレッド・ゲルマンをアルザス-ロレーヌとザールにおける業の責任者にしました。ゲルマン兄弟は1926年に別の土地に任命されるまで忠実に奉仕しました。その業に関連して同兄弟を熱心に助けたのは,ストラスブール会衆の監督をしていたアンリ・ガイガーでした。このように,1921年までに,アルザス-ロレーヌとザールにおける業はよく組織されるようになりました。

試練にもかかわらず業は進展

フランスのそのほかの地方でも業は進展していました。1921年の初めに,北部フランスのドナンとブリュエアンナルトワ,およびパリでバプテスマの式が行なわれました。その年の主の記念式の報告によれば,フランスの16の町で開かれた記念式に合計422人が出席しました。そのうちドナンの出席者は81人,パリの出席者は68人でした。

フランス語の「ものみの塔」誌の1921年10月号を通して,聖書文書頒布者の募集が行なわれました。当時,宣べ伝える業は主として,「現存する万民は決して死することなし」と題する書籍の配布を通して行なわれていました。協会は兄弟たちが親族友人にその書籍を配布する際に用いる特別の手紙を印刷しました。

その年,訪問旅行の業も強化されました。ドゥラノワ兄弟とデュリユ兄弟はロアール川の南部と北部の会衆や孤立した群れを訪問し,アドルフ・ウェーバー兄弟はパリとノルマンディー地方ばかりかフランスの東部と北部の会衆を訪問してアルザスで旅行を終えました。

アレクサンドル・フライタークが1919年に真理から離れたあと,ドゥラノワ兄弟,ルフェーブル兄弟,ルッセル兄弟がフランスのツァオク兄弟の補佐として任命されました。読者のみなさんは覚えておられると思いますが,ルッセル兄弟はパリ会衆の書記として,1919年1月にジュネーブとピッツバーグに送られた手紙に署名して,フライタークの不忠節を訴え,協会に忠節であることを表明した兄弟でした。さて,時がたつにつれ,ルフェーブル兄弟とルッセル兄弟は二人とも不満を抱くようになり,ついにはよこしまな僕になりました。

フランス語地域における2度目の試練の期間は,実を言うとそれより前の1917年にアメリカで起きた反逆の余波でした。その年にP・S・L・ジョンソンと協会の4人の理事は新しく会長に選ばれたラザフォード兄弟からその権限を奪おうとしました。計画が妨げられたため,その者たちは,アメリカとカナダとヨーロッパの全域で口頭や文面による大々的な運動をしてベテルの外で反対運動を拡大し始めました。

1920年にジョンソンは,サンルノーブルといった,北部フランスの非常に古い幾つかの会衆を訪問しました。その目的は,兄弟たちを分裂させてエホバの組織から引き離すことでしたが,ついにそれに成功しました。1922年9月,パリのルッセルとルフェーブルを含む一群のフランスの兄弟たちは,「再び団結が必要」と題するラザフォード兄弟を批判する16ページの決議文を印刷し,フランス語を話す兄弟たちにそれを広く配布して,混乱と分裂を大きくしました。

1922年,ドナンで総会が開かれて,訪問旅行者のアドルフ・ウェーバー兄弟が問題を処理するためにスイスから派遣されました。ラシェル・ブジャン姉妹とサミュエル・ノンガイヤール兄弟はその時の様子をこのように描写しています。

「不満を抱いていた者たちは,ラッセル兄弟を忠実で賢い僕であるとし,ラッセル兄弟が亡くなった1916年以後の業はラッセル兄弟が残していかれたままにして置くべきであると考えていました。それ以上の光明は表われるはずがないというのです。……それら不満を抱く者たちにとって,戸別に宣べ伝えることは気に入らない事柄でした。ハルマゲドンで神が介入されるまでただ待っているべきだという考えでした。ウェーバー兄弟は聖書の助けを借りながら,組織が正しいことを彼らに対して証明しました。……票決が採られましたが,それは非常な接戦で,協会の考えに反対する票が39票,賛成する票が42票でした。39人の“反逆者たち”はそれぞれのいすを持って立ち去り,『ドナン聖書研究者』協会を作りました」。

ある人々は1922年に真理を捨ててよこしまな僕になりましたが,大部分の兄弟たちは忠実さを保ちました。ラザフォード兄弟はその年の6月にパリを訪問して兄弟たちを強めました。「現存する万民は決して死することなし」の本を用いての戸別の業は1922年に始められました。また,会衆で初めて「ものみの塔」研究が組織されました。さらに,その年には訪問旅行の業が大いに促進されました。

こうしてフランスの兄弟たちは厳しい試練に遭いましたが,忠実さを保った人々は王国を宣明するという大切な業にあずかり,すばらしい経験をすることができました。

アルザス-ロレーヌにおける証言活動

「黄金時代」誌(ドイツ語)の配布の増加に伴い,ものみの塔協会はストラスブール市にアルザス-ロレーヌ地方のための事務所と文書倉庫を設置し,アンリ・ガイガー兄弟をその責任者にしました。「黄金時代」誌はベルンからまとめて送られ,ストラスブールの事務所で包装されて予約購読者に送られました。姉妹たちはストラスブールの多くのレストランを訪問し,テーブルからテーブルを回って食事をしている人々に雑誌を提供したものです。一晩に90冊もの雑誌を配布することは珍しくありませんでした。リディア・ガイガー姉妹はその業で特に成功を収め,時には1か月に2,000冊の雑誌を配布しました。

1923年,アルザス-ロレーヌとザール地方で「写真-劇」を上映するためにフランツ・チュルヒャー兄弟がベルン支部から派遣されました。このスイス人の兄弟は1925年にベルンのベテルに招かれるまでずっとフランスとザールで「写真-劇」の業にあずかりました。1923年はアルザスのミュルーズに50人ほどの人が交わる会衆がありましたが,その年の記念式には110人が出席しました。ストラスブールにおいても同じ数の出席者がありました。

強められた組織

組織の点から言えば,フランス語による業は1923年に良い出発をしました。各会衆には協会によって「奉仕指導者」が任命されました。「奉仕指導者」には二人の補佐がいて,一人は会計を扱い,もう一人は文書の供給を担当しました。そしてその3人の兄弟は「奉仕委員会」を構成しました。それはフランスにおける活動に神権的な指導が与えられるようになったしるしです。1923年中,協会は奉仕指導者を通して「証言の日」を組織しました。それで同年8月26日に,フランスの兄弟たちはブルックリンの事務所によって計画準備された「世界的証言」に参加しました。

フランス語地域における業の発展の上でもう一つの里程標となったのは,「神のたて琴」という本のフランス語版が発行されたことです。この本はフランスにおける教える業の大きな推進力となりました。また,1923年9月2日と3日には,フランス語を話す兄弟たちのための大会がドナンで開かれました。スイスからツァオク兄弟とウェーバー兄弟が出席し,この二人の兄弟とフランスで訪問旅行をしていたエミール・ドゥラノワとが大会の主要な話をしました。その前年にアメリカのシーダー・ポイントでラザフォード兄弟が行なったように,「王と王国を宣伝せよ」という標語の書かれた大きな幕が聴衆の前に広げられました。兄弟たちは感激し,出席者全員は一致して決議を採択しました。ラザフォード兄弟は1923年のフランスの業を次のように要約しました。

「業全体において,友たちの熱意が真に高まっているのがうかがえます。わたしたちは,現在王国の良いおとずれを宣明するということを大きな特権であると考えています。普通,友たちは五,六人のグループになって聖書文書の頒布に出掛けます。そして日曜日の午前中に250巻余りも頒布します」。

1924年には,「黄金時代」誌の最初の幾つかの号がフランス語で発行されました。同誌は1925年中隔月に発行されましたが,1926年にラザフォード兄弟の指示で発行が中止されました。しかし,1932年の10月に再び登場し,その時から毎月1回定期的に発行されるようになりました。

1924年5月,ラザフォード兄弟はフランスを短期間訪れ,パリと北部地方で講演しました。「フランスの人々は真理に対してかなり目覚めてきているが,フランスにおいてなすべきことはまだ多い」とラザフォード兄弟は述べました。その後,7月にフランス北部のドナンの近くにあるアヴェルイーでフランス語を話す兄弟たちのために大会が開かれました。ツァオク兄弟ほか,ベルンのベテル家族の成員数名がプログラムを扱いました。

兄弟たちの希望

1924年の主の記念式の出席者は,アルザス-ロレーヌの約300人の出席者を含め合計557人でした。多くの兄弟たちが抱いていた希望について,シュザンヌ・ブジャン姉妹はこう述べています。『残りの者だった人たちは1924年が終わるまでに天へ行くことを期待していました。ドナンの私たちを訪問するために来られたドゥラノワ兄弟は,大群衆である私たちが見捨てられることはないと言って慰めてくださいました。でも,1924年が終わったとき,両親がまだいたのを見て,私はほっとしました』。しかし,そのような状況は,次の年にさらに試練が来て兄弟たちがふるい分けられることを意味しました。

1925年 ― 危機の年

フランス語の「ものみの塔」誌のページ数が12ページから16ページに増えて,1925年はまずまず良いスタートを切りました。また,「教会僧職者級を告発する」と題する小冊子がフランスで配布されました。その小冊子は教会のすぐ外で多数配布され,フランス語地域全体では,200万冊余りが配布されました。

ラザフォード兄弟は1925年5月にもう1度フランスを訪れました。エッフェル塔の真向かいの,セーヌ河を見下ろす大きなトロカデロ・パラスで,「僧職者の欺まんを暴露する」と題する講演がラザフォード兄弟によって行なわれる予定になっていました。フランス北部の兄弟たちは1週間前にパリに来て,地元の兄弟たちがその講演の宣伝をするのを手伝いました。ところが大判のビラはたちまちカトリックの僧職者の手に渡ったため,僧職者たちは街頭での宣伝をやめさせるように警察に圧力を掛けました。その結果,数人の兄弟たちが逮捕されました。

およそ2,000人の人々が招待に応じて講演会に出席しました。ラザフォード兄弟が話し始めると,突然,司祭とカトリック・アクションのメンバー約50人がこん棒を持ち,「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)を歌いながら会場になだれ込んで来ました。ラザフォード兄弟が演壇を離れてまたもどるという場面が3回ありました。反対者たちは,『きさまが判事なら,アメリカ人を裁け』と叫んでいました。1925年8月1日号の「ものみの塔」誌は次のように報告しています。

「聴衆の大部分は僧職者に反対でしたが,互いに冗談を言い合って講演者に注意を払いませんでした。ですから,その人たちに講演することはできませんでした。……集会は断念することを余儀なくされました」。

その同じ年,組織内でもっと難しい問題が持ち上がりました。「現存する万民は決して死することなし」と題する本が1921年以来フランスで広く用いられていました。そして,その内容に基づいて1925年に大きな期待が寄せられていました。ところが,1925年が到来し,期待されていたことが何も起こらずに過ぎ去ったので,その本を読んでいた外部の人々は兄弟たちをちょう笑しました。サンルノーブルのジュール・アナシュ兄弟は次のように書いています。「敵は私たちをあざける記事を書きました。その一つの記事は,当時評判になっていた薬を引き合いに出した「ピンクの薬を飲めば現存する万民は決して死することなし」と題するものでした。

さらに悪いことに,兄弟たち自身の中にも信仰をぐらつかせる人々がいました。ある兄弟たちは1925年に天へ行くことを期待していたのです。そのため,特にアルザスの諸会衆の兄弟たちはふるい分けられることになりました。アンナ・ジママン姉妹は,「根拠のない希望は大きな試練をもたらし,多くの人が絶望しました」と書いています。

1926年5月1日から3日にかけてスイスのバーゼルで開催された大会中,ラザフォード兄弟によって開かれた質疑応答の集会はそのような試練があったことを示しています。その大会の報告にはこう書かれていました。

質問: 古代の立派な人々は帰還していますか。

答え: 帰還していないことは明らかです。それらの人を見た人は一人もいません。ですから,そのように発表するのは分別のないことです。1925年からほどなくして彼らが帰還することは十分に考えられると『万民』の本に述べられていますが,それは単なる見解が表明されているに過ぎません」。

考え違いがなされましたが,それだからと言って主に仕えるのをやめるべきであるということにはならない,とラザフォード兄弟は話しました。しかし,ある人々は主に仕えるのをやめました。ですから,その時期は,フランスの兄弟たちがさらにふるい分けられる時となりました。フランス語の「ものみの塔」誌に載った数字によれば,1925年にアルザスのミュルーズ会衆で行なわれた主の記念式には93名の出席者がありましたが,1927年の記念式の出席者は23人に減少していました。

フランスの兄弟たちはさらに試練を受ける

1925年7月,中央ヨーロッパ支部の責任者は,健康上の理由でビンケレ兄弟からツァオク兄弟に交替しました。翌年,ビンケレは協会に敵対し,「自由な聖書研究者」と称する自分自身の宗派を作りました。次いで1926年に,ラザフォード兄弟によってブルックリンから派遣されたマーチン・ハーベック兄弟がツァオク兄弟に替わって中央ヨーロッパ支部の責任者になりました。ツァオク兄弟は全時間の業をやめ,やがて真理を離れました。

こうして,2年のうちにフランスの業の監督は劇的な状況下で2度解任されました。そのニュースはフランスの兄弟たちに伝わりましたが,それは一つも問題解決の助けにはなりませんでした。このようにして,戦時中の試練と,戦後フランスの兄弟たちがふるい分けられた長い時期が終わりました。

ポーランド人の間に真理が広がる

政治上の理由や経済上の理由から,第一次大戦後にフランス政府は大勢のポーランド人がフランスの炭田に働きに来る道を開きました。間もなく,ポーランド語しか通じない炭鉱村があちこちにできるようになりました。坑夫のあとを追いかけるようにしてポーランド人のパン屋・肉屋・食料雑貨商・カトリックの司祭などがやって来ました。1923年までにフランス北部には10万人ほどのポーランド人がおり,その数は日ごとに増加していました。

フランス北部のフランス語の会衆はそれらポーランド人の坑夫とその家族に伝道し,多くの人々が真理に関心を持つようになりました。1923年に最初のポーランド語の会衆が設けられ,翌年,ラザフォード兄弟はポーランド人に「写真-劇」を見せるため,ポーランド語を話せるアメリカ人の訪問旅行者数人をブルックリンから派遣しました。その訪問は兄弟たちを大いに鼓舞し,兄弟たちと本部とのきずなを強めました。

王国の業はポーランド人の間ですばらしく発展しました。1926年におけるフランスの記念式の出席者1,138人中,518人はポーランド人でした。また,その年フランスには34の会衆がありましたが,そのうちわけはアルザス-ロレーヌにあったドイツ語の会衆が12,ポーランド語の会衆が12,フランス語の会衆が10でした。それらポーランド語の会衆はブルックリンから派遣されたポーランド語を話せる,訪問旅行をするアメリカ人の兄弟たち,例えばクレット兄弟,ルドウィッグ・クズマ兄弟,ライコンベル兄弟などの訪問を受けました。1926年にサンルノーブルで大会が開かれたとき,フランス語の集まりの出席者は300人ほどでしたが,ポーランド語の集まりには1,000人も出席しました。1928年から1936年にかけて,ポーランド語を話す人々の諸会衆を訪問して回る奉仕をしたアルバート・コスマルスキー兄弟は次のように語っています。

「ラザフォード兄弟は,[1924年に]ブリュエアンナルトワを訪問したとき,ポーランド人がフランスで真理を学べるようにエホバが彼らをポーランドから連れ出されたのだとポーランドの兄弟たちに話しました。また,ポーランドの兄弟たちとその子供たちはフランスの人々も真理を知るようになるよう助けるべきであると語りました。さらに,大規模な伝道の業をまだ行なわなければならず,エホバがその業を行なう伝道者を起こされるとも述べました」。

ラザフォード兄弟の言葉は真実となりました。「1929 年鑑」はこう報告しています。

「ポーランド人は熱心です。自分の家の近くで働くことに満足せず,遠い区域に宣べ伝える責任を引き受けている会は少なくありません。フランスにいる同国人を探しながら自転車で100㌔も旅行する人は少なくありません。王国の音信を伝えるために炭田にいるポーランド人だけでなく,いなかの農場にいるポーランド人も見つけます。ポーランド人の数人の兄弟たちはフランス人に証言するようにさえなっており,フランス語の『自由』の小冊子を用いて著しい成功を収めています。ポーランドの兄弟たちは,主の業の一致とか,主の方式と組織に従って業を行なうことの必要性を理解し始めています。一年間に332人のポーランド人の兄弟たちが献身の象徴としてバプテスマを受けました」。

忠実な人々は一路まい進する

様々な試練にもめげず,フランス北部のフランス人の兄弟たちは宣べ伝える業を推し進めました。1927年に,書籍と小冊子を用いる日曜日の戸別伝道がフランスで始められました。ウェーバー兄弟は会衆や孤立した群れの訪問を引き続き行なっていました。新しい人々も増加していました。リヨンという大都市の一家族はドイツにいる親族から真理を聞きました。そのロックという家族の娘たちはやがて3人とも真理にはいり,それぞれ結婚して,フヌイュ,ボワトゥ,ブランという姓に変わりました。その3家族はのちのリヨン会衆の中核となりました。1927年当時,フランスにおける業の世話をしていた唯一の事務所として,スイスのベルン支部の指示を受けていたストラスブールの事務所がありました。

そのころ,フランスにいたイタリア人に王国の音信が伝えられ始めました。「1929 年鑑」はこう述べています。「イタリア人にも『写真-劇』が上映されました。……ムッソリーニは善良なイタリア人を領土から追い出しています。そして,どうでしょう,主はフランスでそれらのイタリア人に真理を与えておられます」。1928年にフランスの伝道者は最高数の447人でした。そのうちには,当時聖書文書頒布者と呼ばれた開拓者が7人含まれていました。会衆は45ありました。

パリに事務所が開設される

1929年,ストラスブールの事務所は,協会がパリの18番ポワソンニェ通り105号に借りた建物に移されました。アルザス出身のグスターブ・ゾプファー兄弟が,パリのその新しい事務所の責任者に任命されました。言うまでもなく,パリの事務所はまだ,ハーベック兄弟を総監督とするベルンのスイス支部の管轄下にありました。

1929年にパリおよびその近郊には40人ほどの伝道者がいました。秋にフランス北部のランスで大会が開かれ,約1,200人が出席しました。600名ほどの人が野外奉仕に参加し,書籍と小冊子を5,000冊余り配布しました。参加者の大半は,言うまでもなくポーランドの兄弟たちでした。

外国人の聖書文書頒布者

1929年には二人の英国人の聖書文書頒布者(現在開拓者と呼ばれている)がイギリス海峡を渡って来て,ダンケルク地域で奉仕しました。その後,間もなく,さらに大勢の人がやって来ました。ベルン支部の監督者だったハーベック兄弟は次のように書きました。

「わたしたちは主が聖書文書頒布者をフランスに送ってくださるように祈りましたが,その祈りは聞き届けられました。聖書文書頒布者の大半は英国その他の国々から来た人々です。その人たちは,言葉が分からないので,[証言]カードを使い,すばらしい成果を収めています。1930年にフランスでは1928年より8倍も多い文書が会によって配布されました」。

1930年に聖書文書頒布者の数は一気に27人になりました。それら全時間の伝道者の仕事は,主として,区域の中の広い地区を網らし,文書を配布することにありました。こうして,それまでに宣べ伝えられたことのない地域に王国の音信が伝えられるようになりました。業が前進していたことのもう一つの証拠として,1930年にものみの塔協会のフランス支部が設けられました。その時までに,パリの事務所の職員は,ベルンのハーベック兄弟の指示のもとに働いていた地元の責任者であるゾプファー兄弟を含めて5人に増えていました。

パリの国際大会

パリにおける初の大規模な大会が1931年5月23日から26日にかけてプレイール会館で開かれました。それはフランスのエホバの証人の歴史上一つの転換点となりました。「ものみの塔」誌の1931年8月1日号はそのことについて次のように伝えています。

「大会出席者の一番多かったときの数字は次の通りでした。ドイツ人1,450人,英国人778人,ポーランド人551人,フランス人200人,その他多くの国の人々が少数。詳しく調べてみたところ,23の異なる国籍の人々が出席していましたが,そのほとんどの人は英語・ポーランド語・フランス語・ドイツ語のどれかを知っていることが分かりました。大会の話はその4か国語でなされ,一度に3人もの通訳がステージに上がることもありました。……協会の会長は幾つかの話をし,それはフランス語とドイツ語とポーランド語に通訳されました。……

「大会には終始熱気がみなぎっていました。大会が終わったとき,人々が口ぐちに,『こんどの大会ほどすばらしい大会はなかった』と言う声が聞かれました。その大会が,パリでそれまでに開かれた大会の中でも最も良い大会であったことは言うまでもありませんが,このことは恐らく他のどこでも同じだったでしょう。今や確かに,フランスにおける業を拡大する時が来たように思われます。……

「現在の所よりも広くて明るい,事務所のための新しい場所が見つかっています。それに加えて,主は,事務所の職員が一つの家族として無理なく快適に生活でき,また,これからパリ市内にいつもいるようになる数人の聖書文書頒布者の住まいともなる家を備えてくださいました。

大会の際立った特色は野外奉仕でした。それは周到に計画されていて,各伝道者は指示と援助を受けました。1931年7月25日付のメサジェ紙が次のように報道しているように,その野外奉仕は驚異的な成果を収めました。

「奉仕者に指示を与える司会者を助ける通訳が各グループに二,三人いた。あるグループは,会場の外に待機していた専用の貸切り大型観光バスで区域に出かけた。近くの区域に割り当てられた人々は,電車やタクシーや徒歩で行った。その時大会に出席していた人々のほとんど100%が奉仕に参加した。その午前中の奉仕だけで,奉仕者たちは書籍を1,329冊,小冊子を1万4,557冊配布した。これで,大会の全期間にパリで配布された書籍と小冊子の総計は,1万6,776冊となった」。

聖書文書頒布者が求められる

パリの大会ではさらに大勢の聖書文書頒布者を求める声が聞かれました。神の霊が明らかに示されたこともあり,多くの人がその呼びかけに心を動かされて全時間奉仕にはいりました。当時はまだ十代でしたが,のちにスペインで宣教者として奉仕し,現在南アフリカで奉仕しているジョン・クックは次のように書いています。

「全くすばらしい大会でした。私はその大会のことを決して忘れないでしょう。小さな会衆しか知らない若い兄弟が何百人という大勢の兄弟たちとロンドンからパリへ旅行するのですから,胸の躍る思いでした。そして,それよりももっと多いドイツの代表団や他の数か国から来た兄弟たちに会ったときは,さらに大きな感動を覚えました。大陸の兄弟たちは,わたしたち静かな英国人からすると,非常に活気があって熱意にあふれているように見えました。……すべての事柄がたいへん組織立っており,非常に活動的に思えましたし,どの人もとても幸福そうでした。

「私が人生を変える重大な決定をしたのはその時でした。私はそれまでにも開拓者になることをずいぶん考えていましたし,開拓者になりたいという強い願いも持っていました。しかし,父が反対していたので,ちゅうちょしていたのです。ところが,最初のプログラムの時に,会話を交わしていたある姉妹が,『あなたのような若い兄弟は聖書文書頒布者になるべきですよ。あなたはどうしてなられないんですか』と言いました。いろいろな人から数度にわたって同じようなことを言われました。ラザフォード兄弟は独特の力強い調子で,『あなた方若い人々が聖書文書頒布者の業にはいるのを妨げるものは,日の下に一つもないはずです』と言いました」。

もう一人の英国人の兄弟,エリック・ウィルキンソンは,『どこの国のどんな人もフランスへ来て業に参加するように招待されました』と述べています。エリックは,英国のランカスターで交わっていた会衆にいた友人とそれに答え応じて,間もなくフランスで全時間良いたよりを宣べ伝えていました。こうして,1930年に27人いたフランスの開拓者は,1931年に104人になりました。

フランスにおける聖書文書頒布の業

ウィルキンソン兄弟はフランスにおける聖書文書頒布の業について話してくれました。

「わたしたちはパリのスラム街で奉仕するように割り当てられました。ビルの管理人[コンシェルジュ]たちは,わたしたちがビルで奉仕しようと決意していたのと同じほどの固い決意を持って,わたしたちに奉仕させまいとしました。警官が呼ばれて,わたしたちが警察署長のところへ連行されるということがたびたびありました。警察署長は大抵同情的で,わたしたちを帰らせてくれました。とうとう,わたしたちは,ポケットが五つ付いた,ひもで肩からつるして背中に掛けるエプロンのようなものを作りました。それを上着の下に着けるのです。それには,一つの建物で用いるのに十分間に合うだけの文書がはいりました。それを着ければ,残りの文書は自転車に積んだかばんの中に置いておき,(ガラス張りの部屋にいる)管理人の前を通ることができました。言うまでもなく,わたしたちは証言カードを使って奉仕していましたが,私の友人(フランス語が話せた)は,予想に反して私のほうが彼より多くの文書を配布したのでとても驚いていました。彼は話し過ぎたので,証言が終わるころには人々の好奇心がさめてしまったのです。

「パリで奉仕することは,いなかで育った者には特にたいへん骨の折れることでした。さらに悪いことに,わたしたちが奉仕していた地域では,アパートの中の手洗いが4軒か6軒に一つしかないということがよくありました。その手洗いは階段のすみにあって,水の防臭弁のないまっすぐな管が付いているだけのものでした。夏の暑いときのにおいはご想像いただけると思います。わたしたちは緑の野原を恋しく思いました。郡部のほうが開拓者の必要が大きかったので,わたしたちはそちらへ行くことを申し出ました」。

そのころパリ地方に住んでいたフランス人のサミュエル・ノンガイヤール兄弟は,フランス語がまだよく分からなかった二人の伝道者の愉快な経験をこう話しています。

「パリでコンシェルジュ[管理人]の目を逃れるのは実に難しいことでした。彼らは厳しく監視していたからです。二人の英国人の姉妹がパリのあるアパートで奉仕していたところ,管理人が階段を上って来て,二人が何をしているのか,まただれに会いに来たのか聞きました。その管理人はたいへんなけんまくだったので,姉妹たちはすぐに答えなければなりませんでした。片方の姉妹は,あるドアにほうろうの板が付いているのを見て,それを表札だと考え,にっこり笑って『トゥルネ・ル・ブトン[ドアの取っ手を回してお入りください]奥さんのところに伺いました』と答えました」。

模範となる熱意と忍耐

それら初期の開拓者たちは模範となる熱意と忍耐を示しました。その人々は身体的な慰安を捨てましたが,多くの豊かな霊的祝福をそそがれたことを実感しました。英国人のモナ・ブルゾスカ姉妹は,1931年から何年かの間フランスで開拓奉仕をした経験をこのようにつづりました。

「私たちの宿舎は大抵とても原始的なものでした。それで大きな問題の一つは冬期の暖房でした。朝,水差しに入った洗顔用の水が凍っているような寒い部屋で身づくろいをしなければならないことがよくありました。小さな石油コンロで簡素な食事を準備しました。今日手にはいるようなキャンプ用の備品は当時はなかったので,わたしたちの家財道具はかなり原始的で,生活の仕方はスパルタ式の非常に質素なものでした。

「わたしたちは他の聖書研究者を一度も見掛けず,全く孤立していました。いつも兄弟たちとの接触があった自分たちの国と比べて,それはとても大きな変化でした。ですから,協会の出版物を二人で定期的に学ぶことによって,その孤独と闘わねばなりませんでした。そのころは,再訪問や聖書研究をしなかったので,夜は,経験を知らせたり互いに励まし合うために家族や特に他の開拓者たちに手紙を書く時間がありました。数年の間,記念式もわたしたち二人だけで行なわなければなりませんでした。

「一日長時間働き,毎日自転車で50㌔から60㌔離れた所まで行きました。日中の時間を活用するために,特に冬は朝早く出掛けなければなりませんでした」。

初期の開拓者の大半は英国人でしたが,ドイツ人,スイス人,ポーランド人,フランス人を含む他の国の開拓者もいました。それらの開拓者は多くの場合粗末な食物で生活しました。あるフランス人の兄弟は,リヨンで奉仕していた外国人の開拓者たちを訪問したときに,その開拓者たちから次のような献立を聞いたと述べました。

「夜,あきびんに小麦を適量入れ,湯をそそぎ入れてふたをします。次の朝それをびんからあけ,砂糖で甘味をつけます。できあがったものは食べられるもので,確かに栄養のあるものでしたが,あまり食欲をそそりませんでした」。少なくともフランス人の口に合うものではありませんでした。

宣教者は追放されたが,彼らの働きは実を結んだ

1934年,内務省は,ものみの塔協会の指示を受けて働いている外国人の宣教者全員を国外に追放することを警察に命じました。その法令を執行したのはピエール・ラバルというフランスの政治家で,彼はその後第二次世界大戦中に国賊となり,裁判に掛けられて銃殺されました。このようなわけで,1934年と1935年に,外国人の聖書文書頒布者の大半はやむをえずフランスを去りました。

しかし,その人たちが成し遂げた業は良い結果を得ました。1935年に,パリ支部の責任者ゾプファー兄弟はこう書きました。「1930年から1934年にかけて,その人々が成し遂げた種をまく業は実を結びました。エホバの証人の訪問を受けて,真理の一部を学べたことをうれしく思うという手紙がフランス全国から絶えず寄せられています」。

エホバの側に立った人で,戦争前のその当時に外国人の聖書文書頒布者から初めて文書を受け取ったという人は,確かに少なくありません。例えば,ダニエル・オヴィエ兄弟は数年前に協会あての手紙の中で,「ここナルボンヌの地域で現在関心を示している人々の中には,戦争前に英国人の開拓者から出版物を求めた人たちがいます」と述べています。さらに,ある姉妹はこう語りました。「そのころに協会の文書を初めて求めたと言う年配の兄弟や姉妹たちに時々お会いします。私は今,1930年代に『創造』の本を求めた婦人と研究しています」。

ですから,戦前にフランスで奉仕したすべての熱心な開拓者は,自分たちが成し遂げた業を今日のフランスの兄弟たちが高く評価していることを確信できます。彼らは真の開拓者でした。今日の諸会衆の若い人々にとってすばらしい模範です。

ラジオ放送

1930年2月15日に協会はVITUSというパリの放送局と契約を結ぶことができました。1931年の夏までにその放送局からフランス語で140,英語で35,ポーランド語で九つの聖書の講演が放送されました。1931年のパリ大会で行なわれたラザフォード兄弟の公開講演はその放送局を通じて伝えられました。パリの一市民から寄せられた次のような手紙から,放送が効果的であったことをうかがい知ることができます。

「私は昨日VITUS放送局から放送された講演を注意深く聴きました。お名前を忘れましたが,講演者の方にお礼を申し上げたいと思います。世の中が進歩したにもかかわらず,宗教と科学が不一致をきわめている時代に,VITUS放送局が非常にすばらしい目的のために用いられたことを誇りとする日がいつか来るでしょう。VITUS万歳!」

1932年の「年鑑」はこう報告しています。「パリとその周辺の大勢の人々が音信を聞いています。多くの人々は,現在中心部にある,パリの協会の事務所を訪れて文書を求めました」。

ラジオを通して真理を知るようになった人々の中にケロア家の人々がいました。その家族はパリのちょうど北の郊外にあるサントゥアンに住んでいました。一家の成員のうち数人はやがて全時間伝道の業に携わるようになりました。息子のジャン・ケロアはのちにギレアデに行き,今でもパリ地方で忠実に全時間奉仕をしています。

ところで,放送にはもう一つの益がありました。外人宣教者の一人,モナ・ブルゾスカ姉妹はその点について,「そうした放送が行なわれていると言うだけで,人々は私たちの言葉に耳を傾けてくれました。どんな放送が行なわれているか知らないと言いたくなかったのです」と語りました。

VITUSのほかにも幾つかのフランスの放送局が数年にわたって聖書の講演を放送しました。そのうえ,アメリカの放送がフランスで直接聴取されました。1935年1月13日の日曜日に,アメリカのシュネクタデーとピッツバーグの放送局から実験的な放送が行なわれました。「宇宙戦争は近い」と題するラザフォード兄弟の講演が短波で放送され,フランスで聴取されたのです。その実験が成功したので,ラザフォード兄弟がワシントン大会で行なった「政府」と題する講演が1935年6月2日に放送されました。その放送はラジオ・フィラデルフィアを中継局として,パリのプレイール・ホールで開かれていた大会会場で聴取されました。

住所の変更

1931年4月,パリ支部は,パリ18番ポワソンニェ通り105号の薄暗くて狭苦しい場所から,パリ9番フォブール・ポワソンニェール通り129号に借りた,もっと住みやすくて地理的にも便利な所に移りました。同じ年に協会はパリの北側の,アンジャン・レ・バンという郊外に一戸建ての住宅を購入しました。それは本格的なベテル・ホームとしてはフランスで最初のものでした。兄弟たちはそこに住み,毎日電車でパリの支部事務所へ通いました。責任者はグスターブ・ゾプファー兄弟で,妻のゾプファー姉妹はアンジャンにいてベテル・ホームの世話をしました。

現在ウィースバーデンのベテルで奉仕しているアリス・バーナーは1930年代の初めにしばらくの間フランスのベテルに住んでいました。バーナー姉妹はこう語っています。

「そこは大きな庭のあるすてきな所でした。ということは,もちろん,私たちに仕事があったということでもあります。それで,事務所で働いていた私たち姉妹は,週末の時間を庭の掃除に,またアイロン掛けの手伝いにも使いました。

「朝,日々の聖句と食事がすむと,パリ北駅へ行く電車に間に合うようによく走ったものでした。その電車はとても乗り心地がよく,乗客は朝刊を読んでいました。証言をする機会も時折りありました。

「フォブール・ポワソンニェール通り129号の建物はいろいろな目的に用いられました。そこは私たちの事務所でした。また大きなテーブルがあって,その上には書籍や雑誌を求めに来る人々に渡す文書が置いてありました。一角は倉庫になっていて,やや隠れた所には小さな台所がありました。私たちはベテル・ホームに帰らず事務所で昼食を取ったからです。当時支部の職員は7人ほどでしたが,時々,急いで発送しなければならないときに兄弟姉妹たちが手伝いに来てくださいました。それで,10人か12人の人がいっしょに楽しく昼の食卓を囲むこともありました」。

1931年 ― 新しい名称

1931年には,「エホバの証人」という新しい名称が採用されました。真理に古いフランスの兄弟たちは,それによって私たちは大いに奮い立った,と述べています。フランス語の「会報」(「王国奉仕」)の1931年10月号は,「新しい名称」という題のもとにこう述べました。「『あなたはどういう人ですか。つまり,ご自分を何と呼んでおられるのですか』と言われたとき,『わたしはエホバの証人です』と答えることができるので,確かに満足を味わえます」。

宣べ伝える業のための器

1932年1月,「王国は世界の希望」という新しい小冊子のフランス語版が,フランス共和国の大統領,内閣,上院議員,衆院議員,長官,武官そして枢機卿から教区司祭に至る僧職者に送られました。その小冊子はまた戸別に広く配布されました。

同じ年の10月に「黄金時代」誌のフランス語版が再び登場しました。それはフランス人向きに翻案され,ラジオで放送されるラザフォード兄弟の講演の内容をいつも掲載していました。雑誌の編集はパリで行なわれ,グスターブ・ゾプファー兄弟,アベル・デゲルドル兄弟,エミール・ドゥラノワ兄弟が編集委員として奉仕しました。印刷はパリのある印刷会社によって行なわれました。それまで月刊誌だったフランス語の「ものみの塔」誌は,1933年から月2回発行される16ページの雑誌になりました。

全国を網羅する

1932年には,85人の開拓者を含めて796人の伝道者がフランスにいました。その伝道者たちは,王国の音信をあまねく伝える手段としてモーターバイク100台,自動車4台,大型のバス2台を使いました。報告によれば,1932年に初めて,フランス全国が王国の宣明者によって網羅され,書籍と小冊子が96万5,808冊配布されました。

国外追放が始まる

早くもその年に,フランスは外国人の伝道者を国外に追放し始めました。追放された伝道者の中には,大勢のポーランド人の兄弟と,スイスから来ていたアルフレッド・リュティマン兄弟姉妹がいました。リュティマン兄弟はフランス語の翻訳をしていたので,スイスへもどってからも引き続きその仕事を行ないました。同兄弟は長年忠実に奉仕した後,1959年にベルン・ベテルで亡くなりました。フランス支部にあてた,1971年1月21日付の手紙の中で,リュティマン姉妹は次のように述べています。「アルフレッドはフランス語を話す兄弟たちに対する深い愛を持って働きました。フランス語への翻訳のお手伝いにあたって努力を少しも惜しみませんでした。夫の中には燃えるような熱意があるようでした。今日見られるすばらしい増加に,私たちの努力が多少ともお役に立っているようにと祈っております」。

協会の書籍が金メダルを獲得する

1933年9月,フランスの兄弟たちは,パリの展覧会に協会の出版物を出品してはという誘いを受けました。2週間後に,兄弟たちは展覧会委員会から宗教書の部で金メダルを受け取りました。兄弟たちはそれに励みを得て,二,三か月後に開かれたもう一つの展覧会に出品しました。このたびはパリ市から金メダルと十字の賞を与えられました。展覧会委員会から来た手紙には次のように書かれていました。

「1933年の9月と12月に開かれた展覧会であなたがたに授与された賞は,あなたがたの業の高い道徳的な価値とあなたがたの出版物の非の打ち所のない正直さを認めたものです。……ものみの塔の出版物は正直さと忠節と勇気の象徴です」。

ヒトラーに電報を打つ

その時までには,国境の向こうのドイツでのエホバの証人の迫害は厳しくなっていました。そこで,1934年10月7日にフランスのすべての会衆は世界中の兄弟たちに加わって,エホバの証人の迫害に抗議する電報をヒトラーとその政府に打ちました。フランスの郵便局の中にはその電報を取り扱うのを拒否した局もありましたが,兄弟たちが頼み込むと,ほとんどの郵便局は取り扱ってくれました。

僧職者の反対と大規模な国外追放

エホバの証人の業がフランスで発展するにつれ,僧職者たちは“自分たちの”羊が大きな“脅威”にさらされていることを悟るようになりました。パリでポーランド人の僧職者が会議を開き,エホバの証人がポーランド人の間で活動しないようにあらゆる手段を講じることを申し合わせました。そして,教会の入口の前で公然とものみの塔協会の文書を焼き,他の場所では教会と学校の校舎の入口に,協会の文書に対する警告のポスターをはりました。

次いで,1934年2月に,協会の出版物が“破壊的”であると述べ,外国人の宣教者全員を国外に追放することを警察に命令する手紙が,フランスの国務大臣から出されました。その法令は,フランスで真理を学んだポーランド人の兄弟たちにも影響を及ぼし,それら献身的なクリスチャンで成る町や村全体が48時間以内にフランスから立ち退くことを要求された土地もありました。ですから,フランスの北部だけでなく,中部の炭鉱の町や村にあるポーランド人の兄弟ばかりで成る会衆が幾つか一晩のうちに消えてなくなりました。「1935 エホバの証人の年鑑」はそのことについて次のように述べています。

「この人たち[ポーランド人の兄弟たち]の多くは仕事も生活手段も国へ帰る資金もないままに放置され,非常な苦しみに遭っています。フランス政府は,同国で開拓奉仕をしていたドイツ人と英国人も追放しました。そのため,業を希望通りに首尾よく行なうのは難しくなりました」。

280人ほどのポーランド人の兄弟は1935年にポーランドへ帰りました。フランスにとどまった兄弟の中には苦しい目に遭って落胆し,信仰を捨てた人がいました。したがって,フランスの伝道者の合計は1934年の1,054人から1935年の889人に減り,開拓者の数は62人から41人になりました。

蓄音機の使用

1934年と1935年に,王国の音信を伝える新しい手段として,関心のある人々の家庭で聖書の講演のレコードを聞かせることが行なわれました。1935年中にフランスで約100台の携帯用蓄音機が使用されました。報告によれば,フランスで1936年中に1万2,709人が協会のレコードを聴きました。炭田で働く兄弟たちの中には,職場の同僚に王国の音信を宣明するために自分の蓄音機を使った人もいました。ある炭田では,録音再生機が数日間すえ付けられ,坑夫たちのために全部のレコードが流されました。

1937年に,僧職者たちは放送局の所有者を脅して,まず検閲を受けたものでなければエホバの音信を放送しないという態度を取らせることに成功したので,兄弟たちはラジオを使用できなくなりました。勢いレコードが盛んに活用されるようになり,兄弟たちは戸別の奉仕で蓄音機を使い始めました。また,サウンドカーも広範囲に用いられるようになりました。サミュエル・ノンガイヤール兄弟の話によれば次の通りです。

「村とか町に着くと,普通行進曲でしたが,音楽のレコードをかけてまず人々の注意を引き付けました。それから,『死者はどこにいるか』といったレコードをかけ,そのあと,エホバの証人が人々の家庭を訪問することを知らせました」。

サンルノーブル会衆のジュール・アナシュ兄弟は,次のような愉快な経験を語っています。

「ソム県のピカルディという村で,私たちは風変わりな音響効果を考え出しました。村を見下ろす丘の頂上の林の陰に拡声機の付いた自動車を止め,音量を一杯にして音を流しました。村人はまず音楽を聞き,それから講演を聞きました。それで,天からの音信を聞いているのではないかと考えました。私たちはその村で文書をたくさん配布しました」。

開拓者を援助するため,パリ支部に変更が加えられた

外国人の兄弟多数がフランスを去ったので,1936年に伝道者数はやや減少し,889人から822人になりました。といっても,フランスにはまだ40人の開拓者がいて,その大半は外国人でした。しばらくの間,開拓者たちは問題を解決する助けをパリ支部から全くと言ってよいほど与えられませんでした。

9月にスイスのルセルンで開かれた大会で開拓者たちがラザフォード兄弟に話して,問題が頂点に達しました。「1937 エホバの証人の年鑑」はその問題についてこう報告しました。「非常に残念なことをお話ししなければなりませんが,協会のフランスの代表者は,開拓者と協力すべきであるのに,昨奉仕年度中そうしませんでした。しかし,この問題は正され,このことに関する限り事態は改善されるものと考えられます」。

ついでながら,上に引用した「年鑑」は,フランス語で出版された最初の「年鑑」です。フランス語の「年鑑」は1938年と1939年にも出版されましたが,その後戦争のために,1971年まで出版されませんでした。

1936年にパリ支部の責任者はゾプファー兄弟から,長年全時間奉仕に携わっていたフレッド・ガブラーという英国の兄弟に替わりました。その補佐としてエミール・ドゥラノワが任命されました。グスターブ・ゾプファーはのちに真理を捨て,戦争中ナチに協力することさえしました。

パリにおける2度目の国際大会

1937年には8月21日から23日にかけて,パリにおける2度目のエホバの証人の国際大会がメゾン・ド・ラ・ミュテュアリテで開かれました。そこには,大会の会場としてそれ以上広くて便利なホールは見つからないと思えるようなホールが幾つかありました。話し手は大講堂の聴衆に英語で話し,他のホールは大講堂と電話線でつながれていました。各ホールには通訳がいて,聴衆が理解できる言語に話を通訳しました。こうして,大会の出席者全員はそれぞれの言語で同時に同一の話を聴きました。出席者はおよそ3,500人でしたが,主要な講演の時にはさらに1,000人増えて各ホールは満員になりました。

当時パリの集会に出席する人は100人ほどにすぎなかったので,世界中から代表者を迎えてパリの兄弟たちはたいへん喜びました。英国から2本の列車が,スイスからは1本の列車が来ました。1931年にパリで初めて開かれた国際大会も大成功を収めましたが,その1937年の大会は,確かにとてもよく組織された大会で,今日のエホバの証人の大会に幾分似たところがありました。

大会後,ガブラー兄弟はベルギーの業を監督するためにブリュッセルに任命され,しばらくの間ベルギーの業を監督していたアルザス州出身のシャルル・ネクト兄弟がパリ支部の責任者に任命されました。王国の業はネクト兄弟の指導の下に順調に進みました。そのころ,アンジャンのベテルとパリ市街の事務所で働いていた人は10人でした。レコードによる業は急速に広がっていました。236台の蓄音機が使用されていましたし,協会のレコードを聴いた人の数は,1937年の2万8,412人から1938年の10万3,801人に増加しました。

だれが表象物にあずかるか

この言葉はフランス語の「ものみの塔」誌の1938年4月1日号に載った副主題です。当時よく「ヨナダブ級」と言われていた「ほかの羊」は,その雑誌を通して,記念式に出席するように直接招待されました。それまで,そのような招待が差し伸べられたことはありませんでした。多くの兄弟たちの胸には,だれが表象物にあずかるべきかという疑問があり,当惑していました。しかし,スイスにあった中央ヨーロッパ支部の責任者,ハーベック兄弟が行なった話によってその問題は解決しました。サンルノーブルで行なわれたハーベック兄弟の話について,ルイ・ピエコタ兄弟は次のように語っています。

「話を始める前に,兄弟は聴衆に向かって,天への召しを受けていると思っている人がだれかいらっしゃいますか,と尋ねました。その場にいた人々の大半は手を挙げました。すると,ハーベック兄弟は主題を発展させ,楽園が再建された時に人類が享受できる数々の祝福を述べました。その話の終わりに,兄弟は聴衆に向かって,『みなさんの中でその楽園に住みたい人がいらっしゃいますか』と質問しました。多くの手が挙がりました。兄弟はさらにこう言いました。『その楽園の地で生活することを中心とした希望しか持っていない人は,天への召しを受けてはいません』」。

この話から,記念式の出席者は増加しましたが,表象物にあずかる人の数は減少するという,示唆に富んだ結果が出ました。フランスで1939年に記念式に出席した人は1,510人いましたが,表象物にあずかったのは631人だけでした。

戦争が近づくにつれ,業の速度は速くなる

ヨーロッパでは戦争ぼっ発の雲行きが次第に濃くなってきており,ネクト兄弟は,ドイツの兄弟たちの身に起きたことがフランスを含むヨーロッパ各地のエホバの証人にも起きることは十分にあり得ると考えました。そこで,地帯の大会やフランスの諸会衆を訪問して,前途の困難な事態に対して備えを始めるように兄弟たちに警告しました。

1938年にベルン・ベテルのフランツ・チュルヒャー兄弟は,「クリスチャン撲滅運動」と題する本を出版してナチス・ドイツにおけるエホバの証人に対する迫害を詳しく報告しました。翌年その本はフランス語で出版されました。また,チュルヒャー兄弟はアルザスのミュルーズという町へ来て,株式取引所の建物に集まった600人の聴衆を前にその本の題名と同じ主題で講演を行ないました。

1939年まで,エホバの証人の活動は主として聖書文書を配布することでした。ところが今やそれが変化し,1939年に,関心を持つ人々に対する再訪問の数が8,739も報告されました。業を遂行するうえでのそうした調整は時宜を得たものでした。というのは,それによって兄弟たちは,文書の供給が非常に制限された戦争中盛んに行なわれることになる活動方法を経験できたからです。

フランスでは国家の祭日となっていた1939年7月14日に,パリの最初の王国会館がネクト兄弟によって献堂されました。その建物は鉄工所だったのですが,兄弟たちは数週間熱心に働いて,375人を収容できる立派な集会場にしました。ところが,1939年9月3日にフランスがドイツに対して宣戦を布告したため,残念なことに,パリの兄弟たちがその会館で集会を開いたのは約2か月間にすぎませんでした。その後間もなく,業は地下にもぐらざるを得なくなりました。

戦争直前にフランスには84の会衆がありました。そのうち,13はアルザス-ロレーヌのドイツ語の会衆で,32は主としてフランス北部にあったポーランド語の会衆,39はフランス語の会衆でした。伝道者は合計1,004人で,それは前年の19%増加に当たりました。

興味深いことに,戦争前の12年間に50万3,801冊の書籍,145万1,523冊の雑誌,579万8,603冊の小冊子がフランスの人々に配布され,その文書の合計は775万3,927冊に上っていました。その時,仮に業がやんだとしても,フランスの人々は,預言者が「自分たちの中に」いなかったとは言えなかったでしょう。(エゼキエル 2:5,新)しかし,前途に困難な時期を控えてはいましたが,フランスにおける業は終わるどころではありませんでした。

組織が禁止される

戦争が始まって6週間後の1939年10月半ば,エホバの証人の組織はフランスで禁止されました。しかし,ネクト兄弟はそういうことが起こり得ることを予見して,兄弟たちに警告していました。ですから,ほとんどの会衆は比較的安全な様々な場所へ文書の在庫を分散する時間がありました。それからすぐに協会のパリの事務所は没収されました。アンジャン・レ・バンのベテル・ホームも調べられましたが,ネクト兄弟は他の重要なファイルはもちろんのこと,「ものみの塔」誌と「慰め」誌の予約購読者全員のあて名のステンシルをすでに運び出していました。

その時までに,ネクト兄弟は重い肺炎にかかっていました。1939年10月24日付の次の手紙は同兄弟がフランスにおける業の監督者としてフランスの全会衆に送った最後の手紙です。

「親愛なる兄弟たち,

「内務大臣の命令により,『ラ・トゥール・ド・ガルド』協会およびフランスのエホバの証人の協会はその活動を行なう権限をもはや持たないこと,したがって,パリのフォブール・ポワソンニェール通り129番にあるものみの塔の事務所は閉鎖され,明け渡されるということを,ここにお知らせいたします。

「わたしたちは,わたしたちの目的と業を弁護すること,および,特に現在わたしたちが共産主義者とみなされる傾向があるので,エホバの証人の活動の正しさを証明することに全力を尽くすつもりです。

「したがって,これら二つの協会はもはや存在していません。これからはエホバの証人各人が神と人々に対する自らの責任を遂行しなければなりません。この迫害が,マタイ 24章9節の主の言葉通りに来たことに,みなさんは励まされ慰められるに違いありません。その言葉は,聖書の預言の中であらかじめ告げられている出来事がことごとく起こる前に成就されなければならないのです。

「兄弟たち,大いに勇気を出してください。

イザヤ書 43章12節と歴代志略下 20章15節およびマタイ 10章28節を添え,あたたかい愛をお送りしつつ。

[署名] シャルル・ネクト」

数日後の1939年11月2日にネクト兄弟は41歳で亡くなりました。同兄弟は全時間奉仕者として長年忠実にエホバに仕えました。それ以前にフランスにおける業の責任者となった人々(ランツ,フライターク,ビンケレ,ツァオク,ゾプファー)が事実全員不忠実になっていただけに,ネクト兄弟はフランスの兄弟たちにたいへん愛されました。フランスにおける業の歴史から一般的な教訓をくみ取るとすれば,それは,エホバの業はいかなる人にせよ一人の人間に依存しているのではないということです。

フランスにおける協会の権益を守るためにスイスからシャルル・ツッター兄弟が派遣されました。また,戦争の直前にベルギーを去っていたフレッド・ガブラーが英国からパリへ急派されました。

「見せかけの戦争」の期間

戦争が始まってからしばらくの間,すなわち1939年9月から1940年5月まで,フランスとドイツは戦闘らしい戦闘を交えませんでした。その期間は「見せかけの戦争<ホウニー・ワー>」と呼ばれていますが,兄弟たちにとって真の試練の時が始まったのはその時からでした。大勢の兄弟たち,特にフランス北部とアルザスの兄弟たちが投獄されました。

戦後巡回および地域の監督として奉仕した,ルイ・ピエコタは他の5人の兄弟とともに逮捕され,24日間拘置されました。それはネクト兄弟が病気で倒れる少し前のことだったので,同兄弟はディエップ刑務所にいたそれらの兄弟たちを訪問しました。「ネクト兄弟は,パウロのように忍耐するようにわたしたちに説き勧めました。そして,別れるとき目に涙を浮かべていました。わたしたちの目にも涙が浮かんでいました」とピエコタ兄弟は書いています。

戦争が始まって間もないころ,エホバの保護が差し伸べられた例はたくさんありました。フランスとベルギーの国境にあるワトレロスという町の会衆の僕だったジョルジュ・デレンム兄弟はこう語っています。

「ある日,私は税関の役人に呼び止められ,持ち物を徹底的に調べられました。役人はポケットに入っていた『ものみの塔』誌を見つけて,『それから,これだ。これはなんだ』と言いました。

「私は,『ものみの塔』誌ですと答えました。役人が身体検査を続けている間,私は手に雑誌を持って腕を挙げていました。私のくつを調べるために彼がかがみ込んだとき,私は『ものみの塔』をポケットにしまいました。

「役人は立ち上がると,『よし,行ってもいい』と言いました。なんということでしょう。意識的にか,無意識にか,役人は禁止されていた雑誌のことを忘れたのです」。

ツッター兄弟とガブラー兄弟の任務は,パリにあった協会の資産を守るためにできる限りのことをすることでした。高価な設備のあったレコードを作る作業場とフォブール・ポワソンニェール通りのパリ事務所およびアンジャン・レ・バンのベテル・ホームがありました。パリ事務所の建物は借りていたものでしたから,実際に問題はありませんでした。またアンジャンのベテル・ホームは賢明にもすでに,アメリカ市民であるユゴー・リェメーという人の名義にされていたので,保護され,戦争中もずっと兄弟たちに使用されました。

結局,当局に没収された資産は小型の自動車と数点の家具だけでした。こうして,任務を果たしたツッター兄弟とガブラー兄弟は,1940年5月にドイツが侵入する直前にフランスを去ってスイスと英国のそれぞれの家に帰りました。その少し前に,スイスのベルンにあった協会の事務所の責任者ハーベック兄弟は,アンリ・ガイガー兄弟がパリへ行って協会の事務のかたづけを助け,地下の業を組織するように要請しました。覚えておられると思いますが,ガイガー兄弟はストラスブールとアルザス全域における業で長い間主な役を務めていました。補佐としてエミール・ドゥラノワ兄弟が任命されました。

ちょうど良い時にフランスを去る

1940年の春,突然に,戦況はフランスにとって非常に不利になりました。ヒトラーの機甲師団はポーランド制圧に成功したあと急に向きを変え,西ヨーロッパに対する電撃作戦を展開していました。その速さは驚くべきものでした。平然とフランスにとどまっていたジョン・クックはフランスに残ったただ一人の英国人の開拓者でした。クック兄弟はボルドー周辺で援助してきた,関心を持つ人々の新しい群れを置き去りにすることに気が進みませんでした。しかし,英国領事はすべての英国民に即刻立ち退くように警告しました。ジョンはこう説明しています。

「私は,とどまっていれば恐らく,何をすることもできない強制収容所へ入れられるということに気付きました。次に領事館のそばを通ったとき,そこは空き家になっていて,残った人はさらに南にある港町バイヨンヌへ行けば船に乗れるという知らせが扉にはられていました。最新のニュースによれば,ナチスの前進部隊はわずか50㌔の地点まで近づいているということでした。それは1940年6月のことで,ダンケルクの撤退が行なわれていました。それで,私は立ち退くほうがよいと判断しました。

「仕事の片付けをしたり,スイス人のジョーゼフという兄弟に研究と集会の司会をしてもらうように取り決めたりして最後の日を過ごしました。バイヨンヌ行きの切符を買いに駅へ行くと,そこはまるで野営地のようで,汽車を待って座ったり寝たりしている人が至る所にいました。そこで,私は自転車を使うことに決め,全く着の身着のままで出発しました。

「ドイツの機甲師団は次の日に市内に入ったということを後日聞きました。バイヨンヌまでの175㌔の自転車の旅は平穏無事でした。避難民の主要な波はすでに通り過ぎたあとでした。時々道路わきのみぞに自動車が落ちてそのまま捨てられていましたから,混乱状態だったことは明らかです。バイヨンヌに着いて,泊まる所も食べ物も見付からなかったので,わたしは夕食を食べずに作りかけの建物の中で眠りました。翌日,英国行きの船が停泊していた入江に人々が群がりました。しかし,私は決して乗りませんでした。しばらくしてから,『女性と子供だけ乗るように』という命令が出されました。船は人々を満たして出帆しました。その船は英国に着かないうちにドイツの潜水艦によって撃沈されたと言うことです。

「残された私たちは,スペインとの国境に近いサン・ジャン・ド・リュズという漁村へ汽車で連れて行かれました。そこから真夜中に,空襲を恐れた厳しい灯火管制下で,漁船に乗せられ,沖に停泊していた船まで連れて行かれました。そこにはフランス南部から逃れて来た人々が続々と集まっていました。人々はナチスから逃れるために家も仕事も,一切のものを捨てていました。二,三日停泊したのち,護衛艦付きの避難民輸送船はZ字形に進んで英国のプリマスに着きました。私はまっすぐロンドンのベテルへ行き,そこで温かく迎えられました。また,着の身着のままの状態になっていたので,衣類を支給されました」。

フランスが二分される

ドイツの機甲師団はフランスの北部から進んでいたので,南部へ通じる道路には,侵入してくる軍隊の前を逃げ走る人々が列をなしていました。兄弟たちの中には,住んでいた所にとどまっていた人もいましたし,南へ逃げた人もいました。ガイガー兄弟はパリを立ち退いて,中央フランスの南西部にあるドルドーニュ県の妻子のもとに帰りました。1940年6月22日,カトリック教徒のペタン元帥はナチス・ドイツとの休戦条約に調印しました。

フランスは二つに分割されました。すなわち,北半分と西海岸沿いの細い地域はドイツ軍に占領されてその支配を受け,一方残りの部分は,占領されていませんでしたが,ペタン元帥を国家元首,ピエール・ラバルを政府の長とするドイツびいきのビシー政府に支配されました。

スイスのベルンの中央ヨーロッパ支部からブルックリンに送られた報告はそうした状況について次のように述べていました。

「フランスがドイツに制圧された時以来,パリおよび占領地域の大半の兄弟たちからは全く消息がありません。一通の手紙も,一通の葉書きも来ませんし,他のなんらかの連絡もありません。

「フランスの占領されていない地域について言えば,かつてアルザスで協会の代表者として奉仕していた兄弟[アンリ・ガイガー]といくらか定期的に手紙をやり取りしています。同兄弟によれば,以前パリで奉仕してアンジャンの家に住んでいた兄弟たちは消息を絶っているということです。

「またスイスの兄弟がフランスの占領地域へ行くビザも非占領地域へ行くビザも得ることは全くできません」。

休戦後に業を組織する

6月に休戦条約の調印が行なわれると,ヒトラーの軍隊の前を逃げていた多くのフランス人はそれぞれの家へ帰りました。ガイガー兄弟もパリにもどり,妻子とともにアパートに住みました。そして日中はアルザス人の工学関係の会社に勤め,夜や週末には証言の業を組織したり兄弟たちを訪問したりしました。1940年9月にフランス北部で地下活動を組織したことについて,ガイガー兄弟はこう書いています。

「手紙は全部ゲシュタポによって開封されました。したがって,各群れと孤立している兄弟たちを直接訪問する必要がありました。兄弟たちは小さなグループになって集まり,『ものみの塔』研究や奉仕会を行ないました。また,聖書だけを使って戸別に良いたよりを伝道し続けました。関心のある人を見つけると,出版物を持って再び訪問し,研究を司会しました」。

パリでは,在庫文書は禁令が敷かれた時に運び出されて,様々な場所に隠されました。ドゥラノワ兄弟は兄弟たちに文書を配給する取決めを設け,また,様々な群れを訪問して励ましを与えました。ルヌ・ジャンドゥロ姉妹とヒルダ・ネクト姉妹はベテル・ホームに住んでいましたが,ネクト姉妹は夫の死後1年ほどして亡くなりました。ドイツ人のすぐ目の前のベテルで,ジャンドゥロ姉妹は,謄写版で印刷する「ものみの塔」誌の記事を原紙にタイプしたばかりか,「ものみの塔」誌のフランス語の翻訳原稿のタイプをしました。

ところで,兄弟たちはフランス語とドイツ語とポーランド語に翻訳する「ものみの塔」誌をどのように手に入れたのでしょうか。また,いったん翻訳されタイプされたあと,謄写版で印刷されたものを一つの地域から別の地域へどのように運んだのでしょうか。当時フランスは占領地域とそうでない地域に分かれていただけでなく,それぞれの地域がさらに分けられていて,地区間の文通は制限されていました。

霊的な食物を勇敢に分配する

アンジャン・レ・バンのベテル家族の一員だったマールテ・エベネー姉妹は中央フランスのクレルモン・フェランという町へ移って実の兄弟と暮らしていました。同姉妹は英語の「ものみの塔」誌の予約購読者でした。ドイツのフランス侵入後,クレルモン・フェランはビシー政府下の非占領地域内にありました。幸いにも,エベネー姉妹は,ドイツがフランス全土を占領した1942年11月までずっとブルックリンから英語の「ものみの塔」誌を受け取りました。しかし,その英語の雑誌はどのようにしてパリにいるガイガー兄弟とドゥラノワ兄弟の手に渡ったのでしょうか。

そのための器としてエホバに用いられたのは,謙遜で控え目なアンリ・ゲルムティーという兄弟でした。ゲルムティー兄弟は次のように語っています。

「ムレンという町は占領地域と非占領地域の境界線上にありました。ドイツの番兵はその境界線を見張っていて,許可なくそこを渡ろうとする人に発砲しました。ところが,その境界線はムレンの町の真ん中を通っていて,そこにはドイツ語が話せるポーランド人の姉妹が住んでいました。私はその姉妹の家を訪ね,姉妹は私よりも先に家を出ました。そして番兵の注意をそらしている間に,私は境界線を越えました。

「それから,私は汽車に乗りました。しかし,パリに着く前に,乗客全員が,男性は男性によって,女性は女性によって身体検査をされました。でも,私はその検査がどのあたりで始まるか知っていたので,その地点にさしかかる前に,汽車が速度をゆるめる所で飛び降りました。私は夜行列車に乗るようにしていました。そして汽車から飛び降りたあと夜明けまで隠れていて,パリまで歩いて行きました」。

「ものみの塔」誌がパリに届くと,翻訳され,ジャンドゥロ姉妹がそれを謄写版で印刷できるように原紙にタイプしました。次いで,印刷されたものが各地の兄弟たちのもとに運ばれました。サミュエル・ノンガイヤール兄弟によれば雑誌は次のようにしてフランスの北部へこっそりと運ばれました。

「可能なときにはいつも,パリから一人の兄弟が,ドイツ軍の二つの地域の境界線が走っているペロンという町まで汽車に乗って行きました。もう一人の兄弟は北部からその町にやって来て,ペロン駅のプラットホームで一人の兄弟からもう一方の兄弟に雑誌が手渡されました」。

言うまでもないことですが,紙の供給は限られていましたし,通信手段は非常に危険だったので,謄写版で印刷した「ものみの塔」誌を各伝道者に1冊ずつ送ることは不可能でした。命がけで運び役を務めた兄弟たちが隠し持つことができるのは1部か2部でした。したがって,「ものみの塔」誌の記事の写しの一部がある地域に届くと,その写しが何枚も作られ,大切な霊的食物を載せた写しが伝道者の小さなグループに少なくとも一部ずつ渡りました。当時リヨン地区に住んでいたディナ・フヌイュ姉妹は次のように説明しています。

「私は『ものみの塔』を10部タイプする割当てをいただきました。一度に5部タイプできましたから,一つの『ものみの塔』を2回タイプしたわけです。各号は,一文字分の行間を取ってタイプされ,約14ページから成っていましたから,一つの号につき28ページタイプしなければなりませんでした。一つの号をタイプし終えるか終えないうちに次の号が届きました。私は戦争中ずっとその仕事をしました。群れには,『ものみの塔』の記事の写しが一部ずつ渡りました」。

パリの北の郊外にあるサン・ドゥニのポーランド語を話す兄弟たちの群れを監督していたスタニス・シコラ兄弟の経験は,兄弟たちに写しを届けるときしばしば直面した危険の典型的なものです。シコラ兄弟によれば,次の通りです。

「ある朝のこと,『ものみの塔』の手書きの写しを別の群れに届けに行く途中,前方に一群のドイツ兵がすべての人を止めて取調べをしているのが見えました。私は自転車を止めませんでした。そして,ゆっくりこぎ続けることにしました。兵士たちの最初の一群の真横に来ましたが,止まるように言われませんでした。私はゆっくりと進んで行きました。柵のところにいた兵士たちからも止められませんでした。別の通りへ曲がれるまで同じゆっくりとした速度で自転車をこぎ,それから猛烈にスピードを上げました。エホバはご自分の業に保護をお与えになるのです」。

他の分配経路

1942年11月にドイツがフランスの残りの部分を占領すると,英語の「ものみの塔」誌はフランスにもスイスにも届かなくなりました。しかし,スイス支部はスウェーデン語の「ものみの塔」を入手することに成功しました。アリス・ベルネ姉妹は短期間でスウェーデン語を学んで,「ものみの塔」の記事をドイツ語に翻訳できるまでになりました。そして,そのドイツ語の翻訳がフランスへ持ち込まれてフランス語に翻訳されました。

戦時中ベルギーにおける業の責任をゆだねられていたのはフレデリック・ハルツスタンク兄弟でした。同兄弟はベルギーとフランスに霊的食物を配給する組織を作りました。国境は閉鎖されていましたが,鉄道に勤務していて両国間を行き来しなければならなかった兄弟たちがその貴重な出版物を配達しました。このようにして戦時中ずっと霊的な食物は行き渡りました。

アルザス-ロレーヌに入ることとそこから出ること

ペタンが1940年6月にドイツとの休戦条約に調印してから,アルザス-ロレーヌはドイツに併合され,「占領地区」というよりもドイツ国家の一部とみなされました。したがって,アルザス-ロレーヌとフランスの残りの部分との間に本格的な境つまり国境が設けられました。ですからアルザス-ロレーヌの兄弟たちはパリで働いていた地下活動の事務所と完全に切り離されてしまいました。では戦時中霊的な食物はどのように備えられたでしょうか。

ナチスがアルザスを占領したとき,アルザスの兄弟たちは,アルザス-ロレーヌとフランスを隔てていたボージュ山地で「ものみの塔」誌を入手しました。山の中でどのように雑誌を手に入れたのでしょうか。優れた登山家だったジングレ兄弟は,ミュルーズからドイツ占領下のフランスのサン・モーリスへ移り住みました。そしてフランス語の「ものみの塔」誌を受け取り,それを毎月第1日曜日に峠まで持って行きました。兄弟は,国境の警備員に会わないように,非常に険しい岩場の道をとりました。アルザス側では,ハイキングのいで立ちをした兄弟たちが雑誌を受け取りに山地を登って行きました。それから雑誌は地元の兄弟たちによりフランス語からドイツ語に翻訳されました。その作業は見つからないように最大の注意を払ってなされました。翻訳されたものはマルセル・グラッフ兄弟によりアルザスの兄弟たちのために謄写版で印刷されました。そのうち数部はやがてドイツの強制収容所にまで達しました。

山道のその配達ルートは「ものみの塔」誌をフランスからアルザスへ持ち込むためのものでしたが,のちになって,やはり戦時中に,フランスの兄弟たちが持っていない出版物をドイツからフランスへ入れるのにも使われました。しかし,事は必ずしも期待通りに運ぶとは限りませんでした。マルセル・グラッフ兄弟は次のように語っています。

「ある日の夜明け,わたしたちは妻を伴って出発し,山に登って行きました。すばらしく晴れた日でした。ところが,国境が目と鼻の先の,頂上に着いたとき,突然『ヒトラー万歳』という声がしました。そう言ったのはドイツの国境警備員で,『お前たちはどこへ行くところだ』とわたしたちに聞きました。

「『私たちはただ山歩きをしているだけなんです』とわたしは答えました。

「警備員はわたしたちをうたぐるように見て,『ここは国境のすぐ近くだということが分からんのか』と言いました。

「『えっ,ほんとうですか』とわたしたちは悪気のない様子で答えました。

「警備員はすかさず,『フランス側へ越えるつもりなら,いいか,われわれの銃には本物の弾が入っているということを忘れるな』と言いました。

「わたしたちは落ち合う場所の方へ歩いて行きました。国境警備員の目が届かない所へ来たとき,わたしたちを待つジングレ兄弟と姉妹を見つけました。わたしたちは喜びながら互いにあいさつをし,ふたことみこと言葉を交わして,持って来た出版物を交換しました。それから祈りをささげて,別れました」。

シモーヌ・アーノルド姉妹は13歳のときに,貴重な写しの運搬に用いられました。姉妹はそれをコルセットの内側に隠して運んだのです。アーノルド姉妹がアドルフ・コール兄弟に同行していたある時,一行はあやうく難をのがれるという経験をしました。シモーヌはその時のことを次のように語りました。

「税関の警備員がわたしたちの行く手をさえぎって,自分のあとについて最寄りの農場まで来るようにと命令しました。わたしは恐ろしさのあまり本当の腹痛に襲われました。そのおかげで,農場で温かい飲み物を与えられ,干し草のところへ行って横になっていることが許されました。『ものみの塔』誌は隠し持ったままでした。コール兄弟と母は調べられましたが何も持っていませんでした。それで,わたしたちは最寄りの駅へ警備員に伴われて行きました」。

運び役として奉仕した兄弟姉妹は確かに大きな勇気とエホバへの愛を表わしました。しかし,兄弟たちへ配るために文書を謄写版で印刷する仕事に関係した人々も同様の勇気とエホバへの愛を表わしたのです。その仕事はどのような状況のもとで行なわれたのでしょうか。

配る文書を作る

アドルフ・コール兄弟はアルザスのミュルーズの目抜き通りの,中央駅近くに理髪店を開いていました。その店は5階建てのアパートの1階にあり,コール兄弟とグラッフ兄弟はその店の上のアパートをそれぞれ借りていました。1階で兵士や警官がコール兄弟に散髪をしてもらっているときでさえ,上では謄写版の印刷が行なわれていたのです。グラッフ兄弟の次の話のように,あぶないところで難を逃れたことが幾度かありました。

「ナチスが自分たちに“協力”しない人々全員からラジオを没収したことがありました。私は家に来る牛乳屋に古い冷蔵庫を売り,牛乳屋は翌日それを取りに来ると言いました。次の日の朝,妻は台所で忙しく立ち働き,私は数枚の原紙の校正をしていました。突然,ドアをノックする音が聞こえました。私たちは牛乳屋が来るのを待っていたので,妻は戸を開けました。男たちの一人が『警察だ。お前たちの持っているラジオを没収する』と言いました」。

「妻は驚きから我に返ると,大声で『あなた,急いで』と言いました。それから3人の警官に,主人は病気なんです。できるだけ速く服を着させますから,と言いました。そのすきに,私は原紙を集めてベッドの下に隠すことができました。それをし終えるかし終えないうちに,警官は妻を押しのけて,『ヒトラー万歳』と言いながら部屋へ入って来ました。そして彼らがラジオを持って帰ったあと,私たちは躍り上がらんばかりに喜び,ふたたび保護してくださったことをエホバ神に感謝しました」。

コール兄弟の理髪店にいつも来る友好的なゲシュタポの客が,ある日突然,「コールさん,あなたはまだ聖書を勉強していますか」と尋ねました。そして,コール兄弟が答える前に,監視されているから気をつけなさい,禁書を持っているなら急いで処分したほうがいいですよ,と忠告してくれました。

コール兄弟はその警告に従って,店の寄木細工の床をはぎ,床の下に「ものみの塔」誌を隠しました。散髪に来たナチスの党員は,そんなこととはつゆ知らず,禁止された「ものみの塔」誌のわずか数センチ上を歩いていました。しかし,やがて,床の下にもすきまがなくなってしまいました。それからどうしたでしょうか。

コール兄弟は名案を思いつきました。店のウインドーが格好の隠し場所になると考えたのです。それで,ウインドーの両脇の壁の裏側に原紙を隠し,ウインドーに出してあった厚紙の広告の内側に「ものみの塔」誌を隠しました。こうして,戦争中ほとんどずっと,ナチスはそのウインドーをのぞきましたが,禁止されている「ものみの塔」誌が張抜の広告の中に入っていることに気付きませんでした。

命を失った運び役の兄弟たち

グラッフ兄弟とコール兄弟はゲシュタポからうまく逃れましたが,他の兄弟たちはそれほど幸運ではありませんでした。1943年,ミュルーズの兄弟たちはドイツから定期的に「ものみの塔」誌を受け取っていました。それを配達していたのは,フライブルク・イン・ブライスガウの二人の兄弟でした。ところが,その方面からの雑誌が急に届かなくなりました。マルセル・グラッフ兄弟はドイツのその町へ行きました。そして,その二人のドイツ人の運び役の兄弟がゲシュタポに捕まり,おので首を切られたことを知りました。それ以後,フランスからも「ものみの塔」誌を入手していたミュルーズの兄弟たちは,ドイツ語の「ものみの塔」誌を余分に作ってドイツへ持ち込みました。このように,戦争の全期間を通じて,霊的な食物の一つの経路が断たれると,別の経路ができるという具合いでした。

アルザス-ロレーヌでひそかに開かれていた集会

少人数の集会が定期的に開かれていました。監督たちは「ものみの塔」誌を伝道者に手渡したり,伝道者を慰めたりしました。集会に来るだけの勇気のない人々は信頼できない人とみなされ,1冊の文書も与えられませんでした。ジャック・ダンネル兄弟はこう語っています。

「集会は毎週,違った曜日の違った時刻に,異なる場所で開かれました。季節によって森や牧草地あるいは家で集まりました。コーヒーの用意のしてあるテーブルの周りによく集まりました。姉妹たちは口実を作るため手もとに編み物の仕度をしていました。ゲシュタポがこうした集会の最中にわたしたちの不意を襲ったことは1度もありませんでした。兄弟たちは責任をよく果たし,集会の出席は良いものでした。私の家で集会が開かれる時には,わたしたちは一番下の娘を庭にいさせるようにしました。警官が来ると,娘は大きな声で『おかあさん』と呼び,そして,集会に来ていた人たちは裏庭から出て行くことにしていました」。

強制収容所へ入れられる

1941年9月,ミュルーズ市内とその周辺の兄弟たち数人がゲシュタポに逮捕されました。その中には,1938年以来ミュルーズ会衆の監督だったフランツ・フーバー兄弟や,アドルフ・アーノルド兄弟,フェルナン・サレル兄弟,ウジェーヌ・レンツ兄弟,ポール・ドスマン兄弟がいました。1941年末までに,その5人はドイツのミュンヘンに近いダハウ強制収容所に送られていました。

その兄弟たちはそこの懲罰ブロックに入れられ,そこでドイツ人,チェコスロバキア人,ユーゴスラビア人,ベルギー人のエホバの証人といっしょになりました。1942年の4月までに,フランツ・フーバー兄弟は非人間的な扱いを受けて弱っていました。アーノルドは次のように書いています。

「フランツ・フーバー兄弟は64歳で,体力を失っていっていました。しかし,自分を支えている希望を言い表わし損なうということは決してありませんでした。そのことはすばらしい証言になっていました。亡くなるほぼ1週間前のある日,フーバー兄弟は私の両腕をつかみ,顔をまっすぐに見て,『いろいろなことがありましたが,わたしたちは勝利を得ました』と言いました。そのとき兄弟の目は輝いていました」。

アーノルド兄弟は収容所の司令官の事務所に連れていかれました。そして,信仰を捨てるなら,アーノルド兄弟の孔版捺染法の技術が収容所内で大いに用いられ,妻子も世話を受けられると言われました。そして,信仰を捨てることを拒否するなら,妻を逮捕し,娘は感化院へ送ると脅されました。むろん,アーノルド兄弟は拒否しました。それで,収容所の医師に引き渡され,マラリア菌と腸チフス菌の人体実験の材料にされました。アーノルド兄弟は生き延びましたが,それは,妻が特別に心を配って準備し送ってくれた食物の入った小包のおかげであると語って,こう説明しています。

「ある日,小包に入っていたものを食べていると,何か硬い物が歯に当たりました。それは紙を小さく巻いてセロファンに包んだ物でした。その紙には,『ものみの塔』の記事を要約したものが非常に小さな文字で書かれていました。言うまでもなく,妻は命を危険にさらしてそれをしてくれていたのです。妻が逮捕され強制移送されてからは,義理の姉妹であるウォルター姉妹が,ミュルーズのコール兄弟に助けられながらその危険な通信を続けました。こうして,食物の小包には霊的なビタミンが入っていたのです」。

試練に遭った子供たち

迫害を受けた苦しい年月の間,子供たちはどうなったでしょうか。ナチスから受ける厳しい迫害のもとで子供たちが忠実を保つことは期待できたでしょうか。

学校では各授業の初めにドイツの国歌が歌われ,総統のために祈りがささげられました。そして子供たちは右手を上方にまっすぐかざして“ヒトラー万歳”と言わなければなりませんでした。しかし,証人の子供たちはそうすることを拒否しました。8歳のルート・ダンネルもその一人でした。ルートは校長ほかすべての教師の前に連れ出されて質問されましたが,両親を裏切ろうとはしませんでした。ジャック・ダンネル兄弟は次のように語りました。「毎日,娘が登校する前に,わたしたちはいっしょに祈りをささげ,質問をされるときにはすぐエホバに霊と援助を求めるようにと娘に言いきかせました」。のちに,ルートは両親とともに強制移送され,ドイツの六つの異なる収容所に抑留されました。戦後,ルートは開拓者になり,アメリカにあるギレアデ宣教者学校の第21期のクラスを卒業しました。

アーノルド兄弟の娘のシモーヌも,“ヒトラー万歳”と言わなかったために高等学校から放校されました。それで別の学校へ行きましたが,そこでもじきに問題が起きました。軍需品の製造に使う鉄くず類を毎週学校へ持って来るようにと言われたからです。ついにシモーヌは少年裁判所で裁判にかけられ,ドイツのコンスタンスの感化院に送られて,1年10か月間ナチスの教育を受けました。しかし,シモーヌは忠誠を保ったのです。のちに,シモーヌも開拓者になり,ギレアデ学校を卒業してアフリカで宣教者として奉仕しました。そして,当時ブルックリン・ベテルの家族の一員だったマックス・リーブスターと結婚しました。

中立の立場を守って死ぬ

1942年8月,アルザス-ロレーヌの若者たちはヒトラーの軍隊に徴集されました。フレヤームート兄弟,ホーフェル兄弟,スッター兄弟など数人のエホバの証人は中立の立場を守って死にました。ドイツのトルガウ刑務所で打ち首になる二,三時間前に,23歳のマルセル・スーテールは次のような手紙を書きました。

「私の愛するお父さんとお母さん,そして姉妹たちへ

「この手紙があなたがたのもとに届くころには,私はもはや生きていないでしょう。私は二,三時間後に死ぬことになっています。私は行くべき道を走り通し,信仰を保ちました。エホバ神が最後まで私を助けてくださいますように。主イエス・キリストの王国はすぐそこまで来ています。わたしたちは間もなく,平和と義のより良い世界で再び相見ることができるでしょう。その日の来ることを考えると私は大きな喜びを感じます。なぜなら,その時にはもはや嘆きはないからです。それはなんとすばらしいことでしょう。私は平和を切望しています。この最後の数時間,私はあなたがたのことを考えます。お別れのせっぷんができないのが少し残念です。でも,わたしたちは忍ばなければなりません。エホバがそのみ名を立証され,ご自分が唯一の真の神であることを全被造物に証明される時は近づいています。私は最後のひと時エホバについて思い巡らしたいと思いますので,この手紙をここで閉じます。再びお会いする日までさようなら。わたしたちの神エホバがたたえられますように。温かい愛とあいさつを添えて。

あなたがたの愛する息子そして兄弟である

マルセルより」

姉妹たちも収容所に入れられた

1943年,アルザス-ロレーヌの姉妹たちも逮捕されるようになり,多くの姉妹たちがアルザスのシャーメク・ヴォルブルック強制収容所へ送られました。アーノルド姉妹は首尾よく聖書を持ち込みました。そのことを次のように語っています。

「私は逮捕されることが分かっていたので,空気でふくらませるポケットの付いた,下がった子宮を支えるための特別なコルセットを作りました。そして,そのポケットの中に小さな聖書を入れました。刑務所へ連行されると,裸になるように言われましたが,女性の調査官は私の複雑なコルセットを見て,『やれやれ。それを全部取りはずす時間はないよ』と言いました。このように,エホバのおかげで,その後の数か月間の唯一の霊的な食物をシャーメク強制収容所に持ち込むことができました。私はその小さな聖書を収容所にいる姉妹たちの数に分割しました」。

大勢の姉妹たちが,恐れられていたラベンスブリュックの強制収容所を含む,ドイツの強制収容所へ移されました。このように,老若を問わず大勢の兄弟姉妹が厳しい試練の下で忠誠を証明し,その中には命に代えて忠実さを証明した人々もいます。アルザス-ロレーヌのエホバの証人の現代の歴史は,確かに,エホバのみ名を高める記録であると言えます。

厳しい試練に耐えた他の人々

フランスのそのほかの地方の兄弟たちも忠誠を保ちました。戦争の初期,フランス当局は数人のポーランド人の兄弟を捕らえて,南フランスのルヴェルネの抑留キャンプへ送りました。そこで彼らは,国旗に敬礼することを拒んだために殴打され,そのうちの一人,フランソワ・バラン兄弟は亡くなりました。それら恐れを知らないポーランド人の兄弟の多くはナチスの強制収容所で死にました。その一人で,刑務所や収容所を転々としたルイ・ピエコタ兄弟は次のように語っています。

「わたしたちは1944年の春にヴグゥート収容所からザクセンハウゼンの収容所へ移されました。そこでドイツの兄弟たちに会うという大きな喜びを得ました。その兄弟たちの中には1933年以来捕らわれていた人々もいました。ドイツの兄弟たちは霊的にも物質的にも貴重な援助の手を差し伸べてくださいました。護送隊が収容所に着くとすぐに,ドイツの兄弟たちは,エホバの証人がいないかどうか到着したばかりの囚人に尋ねたものです。そして,証人がいれば,すぐに援助の手を差し伸べました。時にそれは温かな下着であったり,セーターであったりしました。また,台所で働いていた兄弟たちがいたので,看守の食事の残飯を持ってきてくれることもありました。ある日,ひとりの兄弟が私に聖書をくれました。どういうことでしょうか。ドイツの強制収容所の中でフランス語の聖書を手にしたのです。兄弟がそれをどのようにして入手したのかついに分かりませんでした。聖書が手に入ったので,私はとても幸福でした。兄弟たちは『ものみの塔』誌を定期的に受け取りました。霊的に養われていたので,兄弟たちは霊的な強さを持っていました。

「のちになって,私は収容所のパン焼き場で働くように割り当てられました。ドイツ人の兄弟たちは,許可なくパンを持ち出さないようにと私を励まし,エホバの組織に非難をもたらすよりは飢え死にしたほうがよいと言いました。その助言に私は深い感銘を受けました」。

1938年に開拓者になり,パリのベテルの発送部門で奉仕していたジャン・ケロア兄弟も様々な刑務所やドイツの強制収容所を転々としました。同兄弟も監禁されたそれぞれの場所で霊的な強さを保つことができました。そのことを次のように語っています。

「どこの収容所にいても,証言をするように最善を尽くしました。例えば,プロシア東部のある収容所には,囚人に指示を与えるために使用されていた掲示板があったので,聖書の話題に関する証言を1枚の紙に書いてそれを掲示板のすみに毎日ピンで留めました。関心を持った囚人たちは私のところへやって来ました。それで,毎晩,6人か8人,あるいは10人もの囚人とささやかな集会を開いたものです。

「私は,霊的な食物のないままにはされませんでした。私の姉妹が非常に薄い紙に『ものみの塔』誌の記事をタイプして,それを丸め,マカロニの内側に入れて隠しました。マカロニの包みは看守に調べられましたが,そのことに全く気付きませんでした。わたしはそのような方法で『子供たち』の本さえ受け取りました」。

このように,ドイツとアルザス-ロレーヌの兄弟たちほどではなかったとは言え,フランスの兄弟たちも彼らなりに迫害を受けました。

占領下での援助

禁令を課され,占領下に置かれたにもかかわらず,兄弟たちは,一つの通りに沿った家数軒を訪問すると別の通りへ移って数軒の家を訪問するという仕方で聖書だけを使って伝道を続けました。そして本当に関心を示す人があると,文書を持って再びその家へ行きました。しかし,アルベール・コスマルスキー兄弟の次の経験が示しているように,注意を払わねばなりませんでした。また,エホバのみ使いの援助がありました。

「ハインリッヒという人が『神の救い』と『創造』の2冊の本のドイツ語版を注文しました。私が約束通りその家を尋ねると,ハインリッヒさんは,来客中なので1時間後に来てほしいと言いました。それで,私は,もう一人の関心のある人を訪問するために,下の階へ行きました。その人は,上の階へ行きましたか,ハインリッヒという人がどういう人物か知っていますかと私に聞きました。ハインリッヒさんはアルザスの人で,真理に関心があります,と私は言いました。

「『違いますよ。あの人はゲシュタポの一員で,今日あなたを逮捕するつもりなんです。管理人に,あなたをこの建物から出さないようにと言っていましたよ』とその人は言いました。

「そして,私をそっと階下に連れて行って,裏口から逃がしてくれました。私は,そのような状況から救い出してくださったことをエホバに感謝しました。戦争の末期にハインリッヒはフランスの地下抵抗組織の成員たちにより路上で射殺されました」。

実際,フランスの当局者はナチスに占領されていた間,エホバの証人に対して非常に寛大で,時には助けてくれさえしました。ドナンのオーギュスト・ブラスはそのことについて次のように語りました。

「だれかが,私の家に文書の在庫があることをドイツ人の司令官に告げました。そのために捜査命令が出され,地元のフランス人の警察部長と通訳の案内でドイツ当局によって捜査が行なわれることになりました。警察部長は文書が私の家にあることを知っていました。それで,ドイツ人たちを私の家に案内するかわりに,会衆の僕だったマリウス・ノンガイヤールの家に連れて行きました。ドイツの当局者はそこで何も見つけることができませんでした。その親切なフランス人の警察部長は,強制収容所へ送られるところだった私をこうして助けてくれました」。

よく似ていますが次のような例もあります。ドイツ軍は,サンルノーブルに着いたとき,王国会館を使用したいと要請しました。ところが,演壇の下の浸礼用の水そうには「キリスト教改革運動」と題するドイツ語の本を含む文書が詰まっていました。そのため,兄弟たちはサンルノーブルの市長に会いに行き,事情を説明して,ドイツ軍がその文書を見つけたら,ドイツ軍と地元の当局者との関係は悪くなると話しました。それで市長は,王国会館が学校の教室としてどうしても必要であることをドイツ軍に話しました。こうして,王国会館は教室となりました。そして,驚いたことに,その担任に任命されたのは,学校の教師をしていたエホバの証人でした。

地元のフランス人の役人たちはしばしばこのようにして兄弟たちに援助の手を差し伸べてくれました。もう一つの例を紹介しましょう。フランス北部の一兄弟は,自転車で「ファシズムか自由か」と題する小冊子の入ったカートンを運んでいたところ,フランス人の警部に呼び止められ,何を運んでいるのかと尋ねられました。

「箱を開けて,ご覧になってください」と兄弟は答えました。

警部は,中味を見てから,「これをどうするつもりかね」と兄弟に尋ねました。

兄弟は彼に立派に証言をしました。それを聞いた警部は兄弟に,行ってもよいがほかの人に呼び止められないようにしなさい,と言いました。

地下に潜って印刷する

戦争中フランスの兄弟が行なった目ざましい偉業の一つは,「子供たち」の本を秘密裏に印刷したことでした。サミュエル・ノンガイヤール兄弟は商人だったので,戦時中配給になっていた紙を手に入れることができました。パリの東方数キロにある,シェンヌヴィエールスュールマルヌという小さな町の印刷所で印刷する取決めが設けられました。

サミュエルはこう報告しています。「『子供たち』の本を取りに行った日,帰りの道で警官に呼び止められました。それは1943年5月のことでした。警官がトラックに何を積んでいるのか聞いたので,私は本を運んでいるのだと答えました。警官は本を調べ,何の本かと尋ねました。それは,たまたま,カトリック教徒の親が子供たちを最初の聖ざん式に連れていく時季でした。それで,私は『子供たちにイエスのことを話して聞かせるための本です』と答えました。警官はその説明に満足したらしく,私を行かせてくれました」。

野外奉仕報告

戦時中に,フランスの兄弟たちは野外奉仕報告を出すように努力しました。ところが,ある年配の姉妹は,指示に反して,葉書に通常の省略形で報告を書いて送りました。それはドイツの諜報部の一人の興味を引きました。ロベェル・ジャン兄弟の話を聞きましょう。

「ある日,私の実の兄弟で霊的な兄弟でもあるオーギュスト・シャルレと私が夕食を取っていると,玄関のベルが鳴りました。それはフランスの秘密警察の署員でした。明らかに,警官は私たちをレジスタンス運動のメンバーと間違えていました。ともかく警官は,その件に関して,ドイツの秘密警察を納得させ私たちに難を免れさせるような報告を送るのを手伝ってほしいと言いました。そして,明日もう1度来るから,その間に説明を考えるようにと言いました。

「その通りに,警官は翌日の朝早くやって来て,私たちが準備した説明を読みました。私たちは,それが手紙で行なっている聖書のゲームであり,略語と数字は答えの出ている聖書の本と節を表わしていると言いました。警官はその説明にたいへん満足した様子で,仕事を手伝ってくれてありがとうと言って帰って行きました。その件についてそれから何の音さたもありませんでした」。

野外奉仕報告は最終的にはすべて,パリとその近くの三つの場所,すなわちガイガー兄弟かドゥラノワ兄弟,あるいはベテル・ホームに住んでいたルネ・ジャンドロ姉妹のもとに送られました。しかし,兄弟たちや協会の文書を持っている人々はときどき,1939年10月に警察によって閉鎖されていたパリの事務所あてに手紙を出しました。したがってジャンドロ姉妹は事務所のあったビルの管理人のところへ立ち寄りました。管理人をしていた婦人は協会あてに届いた手紙を姉妹に手渡しました。ゲシュタポからエホバの証人について尋ねられたとき,その管理人は,自分が知っているのは責任者だった人(ネクト兄弟)だけで,その人は死にましたと答えたものです。こうして,その善良な婦人は戦争中ずっと,命の危険を冒して協会と兄弟たちをかばいました。

戦時中の大会

1942年を初めとして,それからドイツの占領中ずっと地区ごとの小規模な大会が開かれ,ガイガー兄弟やドゥラノワ兄弟がその世話をしました。オーギュスト・シャルレ兄弟とロベェル・ジャン兄弟もフランス南部の孤立した会衆と伝道者を訪問しました。そうした大会や特別の訪問のときに,バプテスマの話が行なわれました。

1943年にリヨンの郊外のヴニッスィユで秘密のうちに大会が開かれました。出席者は100人ほどでした。当然ながら,そのような機会は兄弟たちに慰めと力を与えるものとなりました。それらの活動に大きな危険が伴ったことは言うまでもありません。

一人のアメリカ兵が弟子を作る

1944年にフランスの解放が始まりました。それはフランスの兄弟たちにとって良いたよりでした。もっとも,戦闘がフランスを横切って行なわれたために新たな困難が生じました。それにもかかわらず,伝道の業は続けられました。しかも,不思議なことに,解放軍の少なくとも一人の人もその業を行ないました。

フランス北東部のヴィテルに住むスザンヌ・ペランが1944年9月のある晩窓辺に座っていると,一人のアメリカ兵が立ち止まり,へたなフランス語で「神を愛していますか」と聞きました。スザンヌは,「神を愛してはいますが,宗教はきらいです」と答えました。兵士は,ご主人に会いたいのでまた訪ねてきてもいいですかと聞きました。言った通りに兵士はやって来ました。

ペラン姉妹はこう語ります。「こうして,リチャード・ベケル(動員される6か月前に真理を学んでいた)はわたしたちに真理を伝えてくれました。リチャードは軍服を着て伝道しました。でも,国旗に敬礼することは拒否しました。それで,絶えず罰せられました。リチャードは『創造』・『神の救い』・『光』・『敵』・『エホバ』といった本を配布しながらヴィテルの町中で熱心に伝道しました。また,わたしたちをナンシーの会衆の僕だったエミール・エールマン兄弟に紹介してくれました。エールマン兄弟はのちになって奥さんといっしょにわたしたちを訪ねてくださいました」。

ニュースがブルックリンに届く

フランスにおける神権的な活動に関するニュースは,それまで数年間全く聞かれませんでしたが,1944年になってブルックリンに届いたようです。ノア兄弟は「1945 エホバの証人の年鑑」の中で次のように書きました。

「『パリの家族は全員元気で,み父の業を忙しく行なっている』という知らせが入りました。……兄弟たちは,本部との連絡が完全に取れるようになって,真理の音信がフランス全土に自由に伝わる日を待ち望んでいます」。

戦後の再編成

1945年にナチ政権が崩壊し,戦争が終わりました。フランスの生活事情は困難を極めました。生活の必需品は乏しくて,公定価格で入手することは難しく,やみ市では法外に高い値段がつけられていました。敵はフランスの富を奪い,道路と鉄道を破壊し,通信施設を壊しました。身体的には弱っていたものの霊的には強かった兄弟姉妹たちが強制収容所から帰り始めたのは,そのような状況のさなかでした。

それらの困難に加えて,フランスにおけるエホバの証人の業は依然禁令下にありました。もっとも,ゲシュタポがいなくなったので,旅行をしたり郵便で通信したりすることは容易になりました。したがって,各会衆と,ガイガー兄弟によって運営されていた地下のパリ支部とが比較的良く連絡を取り合えるようになりました。ガイガー兄弟とドゥラノワ兄弟は長距離の旅行をしてフランス各地へ行き,諸会衆を訪問しました。

1945年当時,ベテルの家族は,ガイガー兄弟と3人の姉妹ともう一人の兄弟の5人から成っていました。加えて,エミール・ドゥラノワがパリの真南にあるアルクイュの自宅にいました。在庫の文書はパリ郊外の別の場所に隠され,そこが発送部門になっていました。

「ものみの塔」誌は「エテュードゥ・ビブリック」の名で発行され,外部の会社で印刷されていました。フランス語で2,300部,ポーランド語で1,200部,ドイツ語で500部印刷されていました。そのおかげで,兄弟たちは記事を書き写す手間が省けて貴重な時間を節約することができました。

1945年に,ポーランド人の坑夫だったフランソワ・ウィスニエウスキーは際立った経験をしました。ある日職場で食事の時間に,一人の青年が頭を保護する皮のヘルメットを脱いで食前の祈りをしたので,ウィスニエウスキー兄弟はびっくりして,その青年に証言しました。レオポルド・ジョンテスという名前のその青年はすぐに真理を受け入れました。ジョンテスは後日フランスの支部の僕になりました。

ノア兄弟とヘンシェル兄弟の訪問

1942年1月,フランスの占領下の地域でもそうでない地域でも,新聞は至急報でラザフォード兄弟が死亡したことを伝えました。ラザフォード兄弟の死去とネイサン・H・ノア兄弟が次の会長になったというニュースは1943年までにダハウの強制収容所にまで達しました。ところで,ノア兄弟とはどんな人物でしょうか。

1945年11月17日にノア兄弟と秘書のミルトン・ヘンシェル兄弟がパリに立ち寄ったとき,フランスの兄弟たちは初めてノア兄弟に直接会うことができました。それはわずか数時間の訪問に過ぎませんでしたが,業を再組織し合法化することを話し合う機会となりました。その晩,ノア兄弟とヘンシェル兄弟はベルン行きの汽車に乗らなければなりませんでしたが,パリにもどって来ることを約束しました。

11日後の11月28日の朝,ノア兄弟とヘンシェル兄弟そして通訳のアルフレッド・リュティマン兄弟はパリの東駅に着き,アンリ・ガイガー兄弟とその息子の出迎えを受けました。兄弟たちはアメリカ大使館,パリにあるアメリカ商業会議所,そして最後に弁護士を訪問しました。覚えておられると思いますが,フランスにおける業は1939年10月に内務大臣の命令によって禁止されました。ですから,業の認可を得るための適当な経路を通してその件を扱わねばなりませんでした。

その晩,ノア兄弟は通訳を通して1時間45分にわたりパリの21人の兄弟姉妹に話をしました。その兄弟姉妹たちはみなたいへん熱心で,奉仕の特権から得られる喜びを言い表わしました。兄弟姉妹たちが古くてすり切れた衣服を着ていて物質的な援助を大いに必要としていることを察知したノア兄弟は,衣類を送ることを約束しました。ついにその衣類が届いた時のことを,ガイガー兄弟は次のように書きました。

「約束の物,すなわち8㌧の男女子供の衣類は75箱に入って送られて来ました。そして兄弟たちに配られました。贈物を手にして大勢の人が目をうるませ,そのような真のクリスチャンの贈物をくださったアメリカの兄弟たちに心から感謝しました。こうして,多くの兄弟たちはやって来る冬の間福音伝道の業を行なうのによい備えができていました」。

戦時中に減少?

戦争が始まった1939年当時,フランスの王国伝道者は1,004人の最高数に達していたことを覚えておられると思います。でも困難の多かった戦時中にはその数は減少したに違いないと思えるでしょう。ところがそうではなかったのです。伝道者数は1945年の10月に2倍の2,003名に増えていました。お分かりのように,それらの新しい伝道者は自由を,また命をさえ危険にさらして伝道を始めたのです。

主の記念式の出席者数も1939年の1,510人から1945年の3,644人に増加しました。ですから,1939年に伝道者の合計が1,004人になるのに40年かかったのに対し,それが2倍になるにはわずか6年を要したに過ぎませんでした。しかもそれは第二次世界大戦の困難な期間だったのです。これは,フランスにおけるエホバの証人の現代の歴史の上で際立った点であり,エホバがご自分の民を保護し祝福されることを証明するものでした。

禁令にどう対処したか

1946年にはまだ禁令が敷かれていましたが,宣べ伝える業は引き続き行なわれていました。最初,兄弟たちは聖書だけを持って戸別に伝道しました。兄弟たちを助けるため,1946年には巡回の業も組織されました。当時巡回区は二つだけで,ポール・ドスマン兄弟とジャン・ケロア兄弟が巡回の奉仕をしました。二人はどちらもドイツの収容所に入れられた経験の持ち主でした。当時「兄弟たちのしもべ」と呼ばれたその二人の巡回監督の訪問は兄弟たちから大いに感謝されました。しかし,禁令を解除してもらうためにはどうすればよいでしょうか。

ノア兄弟は1945年11月の訪問中にメエトル・ピエール・ジードというフランスの有力な弁護士と会っていました。しかし,その弁護士の努力は実りませんでした。そこで,フランスの兄弟たちは自分たちでどんなことができるかやってみることにしました。1946年の秋,ぐずぐずして業の認可を遅らせていた,様々な政府の機関の責任者に会う努力が何度も払われました。しかし,1947年にはまだこの問題はフランス政府の様々な機関で泥沼にはまったような状態で一向に進展する様子がありませんでした。

そうこうしているうちに,パリの兄弟たちは,レオン・ブルムというフランスの有名な政治家が大戦中にドイツの強制収容所でエホバの証人数人といっしょに過ごし,証人をほめたことがあるということを知りました。ブルム氏はフランスの現代の社会党の生みの親であり「ル・ポピュレール」という新聞を創刊した人でもあります。政界からすでに引退していましたが,レオン・ブルム氏はフランスの政界で尊敬を集めていた元老の一人でした。ですから兄弟たちはブルム氏の協力を得ようと努めました。

ところが,ブルム氏が病気で面会謝絶の状態にあり,手紙が来ないように住所を秘密にしているということが分かりました。しかし,兄弟たちは,レオン・ブルム氏の自動車の運転手が同氏あての郵便物を取りに「ル・ポピュレール」の事務所に毎日来ることを知ったので,協会の問題を説明するブルム氏あての手紙を書いてその運転手に直接手渡しました。二,三日して,パリの兄弟たちはブルム氏から手紙を受け取りました。それには,同氏が喜んで援助したいこと,証人の業に対する禁令の解除を勧める手紙をすでに政府に書き送ったことが述べられていました。その結果,1947年の9月1日にエホバの証人の業はフランスで再び合法的なものとなりました。

新しいベテル・ホームと事務所

ノア兄弟は,業の組織化を促進するために,アンジャン・レ・バンの家を売り,ベテル家族を収容し事務所も設置できる広さの屋敷をパリに購入するためにそのお金を使うように指示しました。ガイガー兄弟はパリの閑静な住宅地に適当な家を見つけました。こうして,フランスの協会の正式の住所は,1947年10月1日にパリ16区リュ・ド・ラ・トゥール83番ヴィラギベール3号に変更されました。最初,ガイガー兄弟姉妹を含む合計8名の人がその新しいベテルで奉仕しました。

ブルックリンから訪問者を迎えての大会

禁令が敷かれてから8年の間,公の大会を定期的に開くことはできませんでした。ですから,兄弟たちの80%は公の大会というものに1度も出席したことがありませんでした。その大部分の兄弟は戦時中か戦後に真理を受け入れたからです。したがって,1947年にリヨン,ストラスブール,パリ,ドエーの各都市で開かれた大会に合計6,500名の人が自由に集えたのは実にすばらしいことでした。また,ノア兄弟とヘンシェル兄弟のほかにフレデリック・フランズ兄弟,グラント・スーター兄弟,ハイデン・カビントン兄弟を話し手としてブルックリン本部から迎えたことも特に大きな喜びでした。

二人の忠実な僕の死

フランスで再び「ものみの塔」誌を定期的に受け取るための取決めが設けられたとき,それまでずっと会衆を訪問していたドスマン兄弟とケロア兄弟は発送部門を組織するのを手伝うためにベテルへ招かれました。そのため,エミール・ドゥラノワが諸会衆を訪問する奉仕に派遣されました。ドゥラノワはそれまで何年もの間にたびたびその奉仕を行なっていましたが,このたびが最後の旅行となりました。1948年8月5日に病気で倒れて死亡したからです。ドゥラノワ兄弟は妻のマリーとともに40年ほどの間フランスで忠実にエホバに仕えました。

そのちょうど1年前に,アドルフ・ウェーバーがエホバへの忠実を保って地上の生涯を終えました。覚えておられると思いますが,ウェーバー兄弟は50年ほど前にフランスで業を開始したスイスの兄弟です。そして,フランス語地域をゆさぶったあらしのような試練をフランスの兄弟たちが切り抜けるのを何度か助けました。ウェーバー兄弟を知っているフランスの兄弟たちはみな親愛の情を込めて同兄弟のことを語り,同兄弟がフランスにおける業の発展に重要な役割を果たしたことを認めます。

地下の集会が再び公に開かれるようになる

1939年以来兄弟たちは比較的少人数の家族的なグループになって集まっていましたが,1947年から諸会衆は集会場を借りるようになりました。その時までにパリには三つの会衆がありました。王国会館で再び集会が開かれるようになって,思いがけないことが幾つかありました。マルセル・マロレプスジー姉妹はフランス東部のブザンソンであったことを次のように語っています。

「業を行なうことは再び自由になりました。わたしたちは本当に幸福でした。みんなは最初の集会の時に王国会館で人々に会って,その人たちがエホバの証人だということを初めて知りました。例えば,食料品店をしていたある人はいつも店に来る数人の客が自分の兄弟だったことを知りました。また,警官の娘だった人はかつて日曜学校で自分の教師だった人に王国会館で会いました。初めて集まり合った時わたしたちがどれほどうれしかったかは,とても言葉には言い表わせません。その最初の集会に80人ほどの人が出席しました」。

開拓者の業が再び始まる

1947年に2,380人の伝道者がおり,104の会衆がありましたが,開拓者は一人もいませんでした。先にも触れた通り,業が法的認可を受けたのは1947年9月でしたから,1947年12月のフランス語の「通知」(現在の「王国奉仕」)に開拓者を求める記事が載りました。すると次の年にすばらしい反応がありました。

1948年1月,シモーヌ・アーノルド姉妹を含む8人の熱心な証人が開拓奉仕を始めました。8月までに開拓者の合計は96人になり,そのうち20人が休暇開拓者でした。老若男女,また独身者と既婚者から成るそれらの開拓者は全員でエホバの証人の幸福かつ勇敢な実戦部隊となり,多くの問題を克服して証言を行ないました。当時フランスには90の県がありましたが,そのうちエホバの証人が一人もいない県は60を数えました。ですから,多くの土地で業を開始するには開拓奉仕者がどうしても必要でした。

1948年に開拓者たちは,エホバの証人のいない町を含め49の異なる町で奉仕しました。多くの開拓者は孤立した伝道者の群れのある土地へ派遣されました。このように主として開拓者の勤勉な努力とエホバの祝福とにより,会衆の数は1947年の104から1950年の150に増えました。

巡回の業が始まる

1948年の初めには,フランスでは“巡回の僕”が会衆を訪問するということは行なわれていませんでした。しかし,それは明らかに必要なことでしたから,5人の熱心な20代の開拓者,すなわちレオポール・ジョンテス,アントワーヌ・スカレッキー,フランソワ・バクジンスキー,レーモン・トマゼウスキー,タッデ・ムリナルスキーがベテルに呼ばれて巡回奉仕の責任について教えられました。そして,1948年10月1日から諸会衆を巡回し始めました。

それらの若い兄弟は大きな巡回区を受け持ちました。そのころフランスのエホバの証人の大半は貧しくて小さな家に住んでいたので,巡回の僕たちは“原始的な生活をする”ことを覚悟しなければなりませんでした。ベッドで寝られることは滅多にありませんでしたし,5人とも自動車はおろかオートバイさえ持つ余裕がなかったのです。

主の記念式と大会

1948年の主の記念式は1939年以来初めて公に開かれた記念式でした。パリ地区の兄弟たち全員は,クレムラン・ビセトルの南の郊外に借りた大きな会場に集まりました。当時大パリ区にあった十の会衆に交わっていた伝道者は300人に満ちませんでしたが,その記念式には500名ほどの人が出席しました。フランス全国では5,912人が出席し,407人が表象物にあずかりました。

その年,10か所で地域大会が組織され,公開集会に合計9,235人が出席しました。「神を真とすべし」と題する本のフランス語版が出されましたが,その本はフランスのカトリック教徒を偽りの宗教の束縛から解放するうえで驚くほど役立ちました。長年の間,その聖書の手引書を研究して真理の側に立場を取った人が,真理を受け入れた人々の大半を占めていました。

また,1948年には「ものみの塔」誌のフランス語版が再び入手できるようになりました。戦後初の「ものみの塔」運動が行なわれ,1年間に新しい予約購読が6,043件得られました。

戦後の組織化はさらに進む

フランス語の「目ざめよ!」誌は1948年1月号から,「王国伝道者の神権的な助け」という英語で書かれた教科書の各課を掲載し始めました。それは,しばらく前から「神権宣教課程」と題する小冊子を用いて行なわれていた神権学校に新たな熱意を吹き込みました。

1948年,9月の禁令解除後,会衆で1939年以来初めて公開講演が行なわれるようになりました。

次いで1949年に4人のギレアデ卒業生が援助のためにフランスに到着しました。そのうちの二人はノルマンディーにある,大西洋岸の海港ルアーブルへ宣教者として派遣されました。その一人は,フランス語がよく分からなかったために起きたことをこう伝えています。

「“Chien méchant”[文字通りには『悪い犬』という意味で,日本語で言うならば『猛犬に注意』]という標示をよく見かけました。ところが私は“méchant”を英語の“merchant”と混同したので,その標示には“犬のmerchant”つまり“犬の商人”と書かれていると思いました。そして,ルアーブルには犬の売買をしている人がなんて多いのかしら,とよく独り言を言いました。ですから,危ないことに少しも気付かずに門を押し開けて,足元に来た犬にほえられたものです。私が平気な顔で玄関の前に立ち,犬が私のそばにいるのを見て,家の人はよく驚いていました。犬が私をかんだことは1度もありませんでした。家の人は私が犬にどんなまじないをかけたのだろうかと思ったに違いありません。私がフランス語を知らなかったからだ,ということを家の人は知るよしもありませんでした」。

他の二人のギレアデ卒業生はパリ支部に派遣されました。それには,支部事務所の働きを助けるとともに,ガイガー兄弟がフランスで伝道の業を組織するのを援助するという特別の目的がありました。そのころベテルの家族は12人でした。自分たち以外の神の民が全世界で行なっているような,「忠実で思慮深い奴隷」の指示通りの仕方で物事が運ばれるよう,与えられる提案に協力したいと全員が強く願っていました。

こうして,初めて巡回大会が開かれました。それは,ブルックリンの事務所によって準備されたプログラムの型に忠実に従ったものでした。そのころフランス語で出版されたばかりの「王国奉仕の歌の本」が1949年の巡回大会で初めて使われました。

伝道者にとってもう一つ大きな助けになったのは,「エホバの証人の神権組織に関する助言」と題する小冊子のフランス語版が印刷されたことです。巡回の僕によって与えられるようになった援助と相まって,その小冊子は,フランス全土の会衆を組織したり伝道したりする方法を統一するうえで大きな働きをしました。

業は急激に前進する

フランスの業を神権的に組織するために1949年に払われたあらゆる努力は,1950年にすばらしい結果を生みました。1949年に3,236人だった王国伝道者が1950年には4,526人になり,一挙に40%も増加しました。そして伝道者の最高数は,2年前の平均伝道者数の2倍を上回る5,441人に達しました。

この目ざましい増加に伴って生じた必要を満たすために,巡回区は十に増やされました。その年,巡回監督たちは,ポーランド系かウクライナ系のアメリカ人でギレアデの卒業生だった二人の人,スティーブン・ベヒューニックとポール・ムハルクの援助を大いに受けました。二人はポーランドを追放され,アメリカに帰る前にフランスで数か月間過ごして,巡回監督たちに同行したのです。ふたりは特に,ポーランド人の兄弟が多くいた北部の町で奉仕しました。1950年には,また,特別開拓奉仕がフランスで始まりました。

1950年は次のようなさらに幾つかの理由からも記念すべき年でした。すなわち,その年に,初めてフランスから3人の兄弟がギレアデに行きました。その兄弟たちは同年の夏ニューヨークのヤンキー野球場で開かれた「拡大する神権政治」大会の時にギレアデを卒業しました。そのあと,さらに7人のフランスの兄弟が,9月から始まったギレアデの第16期のクラスに入りました。

ヤンキー野球場における記念すべき「拡大する神権政治」大会に,フランスからはギレアデに招待された兄弟たちを含めて20名の人が出席しました。そのすばらしい大会の余波は,その年の末の地域大会の時フランスの兄弟たちにも達しました。ヤンキー野球場での大会に出席した人々の中から数人の人がニューヨークで見聞きしたすばらしい事柄を地域大会で生き生きと報告したのです。その人たちはブルックリン本部を見学して特に深い感銘を受けました。

戦後初の国際大会

1951年の大きな出来事は,パリで開かれた「清い崇拝」大会で,これは1937年以来初めて開かれた国際大会でした。オーストラリア,ニュージーランド,フィリピン諸島,インド,南アフリカ,ベネズエラ,北アメリカなどの遠隔の地を含む28の国から代表者が集まりました。大会会場のパレ・デ・スポールは美しいセーヌ川からほんの1区画離れた所にあり,そこから二,三区画北には高くそびえるエッフェル塔がありました。計画された大会の規模は,フランスのエホバの証人がそれまでに開いたことがないほど大きなものでした。

「ものみの塔」誌は次のように述べました。「大会は大きな実験のようでした。温かな食事を提供する簡易食堂が初めて組織されました。初めて,雑誌の袋が作られ,配られ,使用されました。貸切り列車が初めて手配されました。しかし,大きな仕事が信仰を持ってなされました。山のような障害がありましたが,全能の神は祝福と援助を与えてくださいました。その結果はどうでしょう。大成功でした!……出席者数は6,188人の証人から,宣伝された公開講演に出席した1万456人にはね上がりました」。

その大会中,ノア兄弟は,ヘンリー・ガイガー兄弟の健康上およびその他の理由から,長年忠実に奉仕した同兄弟の代わりにレオポール・ジョンテス兄弟が支部の監督になったことを発表しました。フランスの兄弟たちは,交替するその二人に対する感謝を拍手をもって表わしました。

目ざましく発展した期間

戦後の目ざましい発展の時は1951年に終わろうとしていました。1947年以来,伝道者の数はどんどん増加しました。1947年には前年の10%の増加が見られました。フランス北部にいたポーランド人の兄弟たちがポーランド政府の要請で帰国したことが,それほど増えなかった唯一の理由となっていました。その後1948年には20%,1949年には23%,1950年には40%,そして1951年には34%というように増加が見られました。

1947年の2,380人から1951年の7,136人というように,伝道者数は4年間で3倍になりました。1951奉仕年度だけでも,大パリ会衆の伝道者は650人から1,085人になりました。そして同奉仕年度中にフランスの伝道者の7分の1に当たる1,065人がバプテスマを受けました。

このことは,フランスの伝道者の大半が霊的に幼い“子羊”で,より円熟するための援助を必要としていることを意味しました。したがって,フランスのエホバの証人の歴史における次の期間,すなわち1952年から1956年の間は,拡大がゆるやかになり,すでに会衆内にいる人々がクリスチャンとしての円熟性を増し加えたことが目立ちました。

「ものみの塔」誌は禁止されたが,宣べ伝える業は拡大する

フランス語の「目ざめよ!」誌は1952年1月8日号から月に2回発行されるようになりました。また,雑誌の袋を使っての街頭の証言活動も行なわれ,その年に「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌が合計28万5,837冊配布されました。それはフランスにおける証言の業の歴史上かつてないことでした。ところが,1952年12月末に突然,「ものみの塔」誌は禁止されたというニュースが新聞で報道されました。

内務大臣は公安局局長の勧告に基づき,フランス全国およびフランス領土内における「ものみの塔」誌の配布および販売を禁じたのです。「ものみの塔」誌は兵役を拒否するように若者を扇動する恐れがあるというのがその理由でした。しかし,幾つかのフランスの新聞が明らかにした見解によれば,それは単なる口実で,本当の理由は「ものみの塔」誌がローマ・カトリック教会の欺まんを知らせる記事を載せるからだということでした。

雑誌が禁止されたにもかかわらず,1952年は王国の業の面で良い年でした。というのは,特に兄弟たちが,エホバの証人のいない地域に真理を伝えることに一致協力して努力したからです。フランス語の「通知」(「わたしたちの王国奉仕」)の3月号で,夏の間に未割当ての区域で伝道することが励まされました。当時,伝道者の大半は北部の炭田地帯に住んでいました。そして,その地方では大きな会衆が数週間に1度の割合で区域を網羅していました。ところが近隣諸県の大都市では,伝道が全くなされていませんでした。リヴィエラからおよそ160㌔沖の地中海にあるフランス領のコルシカ島の場合もそうでした。それで1952年に二人の特別開拓者がコルシカで王国の業を始めました。

業の強化

1953年と1954年に業は引き続き着実に発展し,それぞれの年に伝道者は9%増加しました。また,その2年間に1,657人がバプテスマを受けました。1953年1月,巡回区は再編成されて11に増え,それと同時に一つの巡回区内の会衆の数は24から18ないしは20に減って,巡回の僕がもっとひんぱんに会衆を訪問できるようになりました。さらに,会衆の書籍研究の数も非常に増え,より多くの人が出席できるようになりました。また,司会者が,助けの必要な人により良い援助を差し伸べることができるようにもなりました。

同年7月にニューヨークのヤンキー野球場で開かれた「新世社会」大会は業を一層強化するものでした。フランスから72人の代表者がそのすばらしい大会に出席し,ブルックリン・ベテルと印刷工場を訪問する機会を得ました。その人たちは,『その半分も告げられていなかった』ことを知ったシバの女王のようでした。

この年には,フランスで初めて全時間の地域の僕が任命されました。それはスカレッキー兄弟でした。それまでは,ベテルの兄弟が通常の仕事のない週末に巡回大会の世話をしていました。翌年,スカレッキー兄弟は「躍進する新しい世の社会」と題する映画を全国各地で上映し始めました。その映画はブルックリン・ベテルの宿泊施設と工場をよく紹介しており,フランスの兄弟たちを本部の組織と結び付けるのに役立ちました。

さらに強化される

1955年も,急激な増加があったというより,それまでの伝道者を強めることに一層力が注がれた年でした。平均伝道者数は6%の増加を見たので,1954年よりも平均して456人増えたことになります。しかし,非常に大切なのは1,246人がバプテスマを受けたことでした。それは,伝道はしていても,献身し,その象徴として水の浸礼を受けてエホバの側に立っていることを公にしていなかった人が大勢いたことを意味します。したがって,1955年にバプテスマを受けた人の数がそのように多かったということは,フランスにおけるエホバの組織が強化されていたことの証拠でした。

その奉仕年度のもう一つの際立った点として,一般の人々の手に渡る雑誌の数が非常に増えたことが挙げられます。1954年における雑誌の配布数は28万8,902冊でしたが,1955年にはそれが一足飛びに51万3,236冊に増えました。この年は雑誌配布の面で転換点となり,配布数はその後何年にもわたって毎年数十万冊ずつ増加しました。「ものみの塔」誌は禁止されていましたから,むろんこの数字は「目ざめよ!」誌の配布数です。

再びパリで国際大会が開かれる

その年の大きな出来事は,8月3日から7日にかけてパリで「勝利の王国」大会が開かれたことでした。フランスの戦後初の国際大会が同じパレ・デ・スポールで1951年に開かれました。その時1万456人が公開集会に出席し,351人がバプテスマを受けました。1955年の大会ではどうだったでしょうか。

開会日には9,701人が詰めかけ,建物は満員になり,演壇の前の一階の競技場は人で埋まり,円形競技場の階段座席も使われました。一番上の通路にいる人さえいました。二日後にフランス人の話し手によって行なわれたバプテスマの話では,774人のバプテスマ希望者が尋ねられた質問に対してしっかり「はい」と答えました。英語からフランス語に通訳されたノア兄弟による日曜日の公開講演の時には,1万6,500人の人で会場があふれました。ジョンテス兄弟は次のように書いています。

「そのような大会が開けたことを,わたしたちはエホバに心から感謝しています。ニュースカメラマンが浸礼の模様や公開講演に集まった大勢の聴衆を撮影するのを見て,胸がわくわくしました。大会に続く週にフランス全国で大勢の人がそれらの写真を見ました。エホバの証人のことが報道されたのです」。

さらに大きな発展のための準備

1956年の平均伝道者数は前の年よりわずか355人多い8,867人で,4%増加したにすぎませんでした。しかし,951人がバプテスマを受け,1万2,801人が主の記念式に出席し,232人が表象物にあずかりました。また,雑誌の配布数は1955年には51万3,236冊だったのが,1956年には86万9,841冊に増えました。このようにすばらしい活動が行なわれたことから,将来のさらに大きな発展が見込まれました。

諸会衆は,できるだけ多くの人に王国の音信を伝えるために出かけて行きました。100を超える会衆が未割当ての区域での奉仕を申し込み,第二次世界大戦前からというもの証言を受けていない町や村,また全然証言を受けていない町や村を訪問しました。そのような町や村の人々に伝道するのを助けるために,その年,特別開拓者が前年の33人から64人に増やされました。それらの特別開拓者は,ブルターニュのような,それまでにほとんど手がつけられていなかった地域に入って行きました。1956年に,フランスには15人の活発なギレアデ卒業生がいました。194の会衆が12の巡回区に分けられ,また初めてのこととして二つの地域に分けられました。

ベテル・ホームおよび支部事務所にするため1947年に購入されたヴィラ・ギベールの家はすでに手狭になっており,一層の拡大が見られることも予想されましたから,もっと広い場所を手に入れることが緊急に必要でした。こうして,1956年7月18日,パリの西の郊外にあり,ルノーの大きな工場があることで世界的に有名な工業地区ブーローニュ・ビヤンクールに660平方㍍の土地が購入されました。家族の宿泊施設・事務所・小さな印刷工場を収容できる大きさの5階建ての建物の設計がなされました。フランスの業がさらに大きく発展する用意は整いつつありました。

比較的急速な増加の見られる時期が始まる

1957年に王国伝道者は初めて1万人台に達し,最高数は1万954人でした。それは前年の12%増加になりました。さらに,伝道に費やされた時間数と配布された雑誌の数はともに百万台を超えました。また,1,100名余りの人がバプテスマを受け,1万4,488人が主の記念式に出席しました。その年に,212の会衆に仕えた14人の巡回の僕と二人の地域の僕全員のために,強化教育課程が設けられました。

一方,新しいベテルの建設を開始する努力は行き詰まっていましたが,土地を購入してから10か月後の1957年5月20日,ついに必要な建築許可が下りました。掘削作業が6月12日に始まり,その年の10月2日までには基礎工事が終わっていました。しかし,建物の完成までにさらに1年6か月かかりました。

1958年を特色づけた二つの重要な出来事

その一つは,王国伝道の安定性に直接影響した政治上の出来事でした。アルジェリア戦争によって生じた危機のために,非常事態宣言が出され,すべての公開集会が禁止されました。軍部臨時政府が政権を執るのではないかとしばらくの間心配されましたが,6月1日にシャルル・ドゴール将軍が首相となり,ついで大統領になることを受け入れたという知らせが伝わりました。ドゴール将軍の政権復帰によって,フランス政府は数十年ぶりに安定期を迎えました。

フランスには,宗教家に対して兵役を免除する法律がないので,若いエホバの証人の中には10年近くも投獄されている人がいました。ドゴール将軍は5年以上刑に服していた証人が釈放されるように取り計らいました。のちになって,ドゴール政府は,兄弟たちの刑期を兵役につかねばならない期間の2倍の長さに減らしました。つまり,フランスの若者が1年半の兵役に召集されるとしたら,エホバの証人の若者は3年間刑に服するということです。20歳で投獄されて,いつ釈放されるか分からなかった以前の状態に比べれば,それははるかに軽い刑でした。

政情が安定したので,王国伝道者が,またもや,11%というすばらしい増加を示し,1万2,141人という最高数を記録しました。23の会衆が新たに設立されましたし,開拓者精神を持つ熱心な証人が必要の大きな所で奉仕するために引っ越したので,孤立した群れもたくさんできました。支部事務所は,100名近くの特別開拓者と同じく,そのような人々も,まず,エホバの証人のいない人口5万人以上の都市に割り当て,それらの都市で業が行なわれるようになると,しだいに人口の少ない町へ割り当てていきました。

こうして,ポアチエ,ジジョン,アンシー,リモージュ,およびブルターニュ地方のかつての主邑レンヌなどの小都市でも業が発展し始めました。その目ざましい例は,ノルマンディー地方のカーンという都市です。一握りの伝道者から成る,そこの小さな会衆は,二,三年の間に大きな会衆となり,ついには周辺の地域に多くの会衆を生み出しました。したがって,ある地域,特に北部の炭田地方に集中していた証言の業は,フランス全土に広がり始めました。

1958年のもう一つの大きな出来事は,7月から8月にかけて八日間にわたりニューヨークで開かれた「神の御心」国際大会でした。フランスからは641名が,551人は飛行機で,90人は船でニューヨークに向かいました。それは1953年のニューヨーク大会に出席した人数のほぼ9倍に当たります。したがって,驚くべきことに,伝道者20人につき一人ほどの人が出席したことになります。このことはフランスにおける業を強め統一するという優れた影響をもたらしました。出席者たちは,フランスの新しいベテルの建設が進んでいることや,訓練するための学校が設けられるというノア兄弟による発表を聞きました。

フランスに残っていた兄弟たちは,同じ年の9月にフランスの5か所で開かれた地域大会でそのすばらしい大会のプログラムを十分に楽しむことができました。その時バプテスマを受けた新しい兄弟たちは合計677人でした。ニューヨークで採択された力強い決議文はフランスの地域大会でも採択され,12月中に「キリスト教世界はどのように全人類を失望させてきたか」と題する小冊子167万部が全国で配布されました。それは実に強力な証言となりました。

フランスの新しいベテル

1959年の春の初めに新しいベテルが完成し,事務所と宿舎は4月17日の金曜日から4月19日の日曜日にかけてブーローニュ・ビヤンクールのポアン・ド・ジュール通り81番の新しい建物に移りました。翌日の月曜日から新しいベテルは仕事を開始しました。

5階建ての建物には,印刷設備を設置できるだけの広い地下室があります。王国会館と事務所は1階にあり,2階には台所と食堂があって,事務所を拡張できる広さが残っていました。3階から5階は個室になっており,全部で24室あります。ベテル家族は17人だけでしたから,ノア兄弟が1958年の国際大会で初めて述べた王国宣教学校の生徒を収容する部屋もありました。また,家族が増えても収容する余地は十分にありました。5月の末にノア兄弟はこの新しい建物を訪れ,6月1日にはプレイール・ホールにおいて,パリ地区から集まった2,026人の兄弟たちを前に話をしました。

重要な法律上の勝利

それから二日後の6月3日に,ジョンテス兄弟はパリの一弁護士から重要な知らせを受け取りました。話は1957年7月2日にさかのぼりますが,ジョンテス兄弟は下級判事のもとに出頭するように命じられました。兵役を拒否するよう若い人々を唆したという理由で訴えられたのです。それは,ジョンテス兄弟とものみの塔のフランス協会の理事会の成員が実刑に処される可能性のあることでした。また,エホバの証人のフランス協会が禁止されるという危険もありました。

1957年のその時から1958年の末まで,その件に関して法律上の調査が続けられました。そしてついに1959年2月16日,事件は裁判にかけられました。ジョンテス兄弟はよく証言することができました。1959年3月2日,無罪の判決が下されました。が,検察官が上訴したため,1959年5月20日に第11上訴裁判所で審理がなされました。6月3日に協会の弁護士はジョンテス兄弟に,再び無罪と判定されたことを電話で知らせてきました。それはすばらしい神権的な勝利で,フランスにおける王国の良いたよりの伝道がさらに拡大する機会を開きました。

1959年にエホバの証人の平均の人数は17%も増え,伝道者の最高数は1万3,935人でした。会衆の数も235から254に増え,コルシカ島のバスチアやブルターニュ地方のレンヌに新しく会衆が設立されました。2,106人というすばらしく大勢の人がバプテスマを受けました。そのうちの525人は六つの地域大会でバプテスマを受けた人々です。

1960年における拡大

「1960奉仕年度は,フランスの兄弟たちがこれまでに経験したことがないほどのすばらしい年でした」と,ものみの塔協会のネイサン・H・ノア会長は記しています。まず第一に,フランスの業にとって真の里程標となったのは,ライノタイプ・印刷機・折り機・中とじ機を持つ新しい印刷施設が動き始めたことでした。「王国奉仕(わたしたちの王国奉仕)」が1960年3月に初めてその印刷機で生産されました。それ以後,外部に印刷を頼むことはなくなり,ブルックリンかスイスあるいはドイツのウィースバーデンで印刷される雑誌・文書・小冊子以外の印刷物はフランス支部が印刷しています。

他の分野でも引き続き拡大が見られました。証人の数の平均は10%増加し,1万5,439人という空前の最高数に達しました。記念式の出席者数は一挙に2万人台を超え,初めて2万3,073人という数字を記録しました。26の新しい会衆が設立されたので,会衆の合計は280になりました。その年の末までに,人口が2万人を超える都市でまだ証言の行なわれていない都市は三つだけになりました。

1961年のハイライト ―「一致した崇拝者」の大会

8月3日から6日にかけて開かれる「一致した崇拝者」の大会の会場として,パリの西の端にあるパルィ・デ・プランス・スタディヨムが契約されました。ところが,ちょうど3か月前になって,アルジェリアに軍部の反乱が起き,それがフランスにすさまじい内乱を引き起こす恐れがありました。右翼のテロリストによる全国的な爆破運動は,不安な情勢を引き起こしました。政府は大きな集まりを一切禁じました。そのため,大会開催予定日のわずか二,三週間前に,パルィ・デ・プランス・スタディヨムを借りる契約は解消されました。しかし,最終的には特別の許可が下り,パリのすぐ近くにあるコロンブ・スタディヨムで大会を開くことができました。

大会が開けるかどうか分からないような不安定な状況に立たされて,何度も大会を組織した経験のある兄弟たちも苦労したことでしょう。しかし,その大会はフランスで初めての,屋外での大会でした。簡易食堂の設備(テント・テーブル・ボイラー・蒸気がま・天火・皿洗い機その他)が兄弟たちによって設置されたのもその時が最初でした。関係者全員の協力と神の霊の援助のおかげで,ついに準備万端整い,大会の開会を待つばかりとなりました。

その結果,大会はすばらしいものとなりました。当時伝道の業が禁止されていたスペインから800人ほどの兄弟たちがやってきました。その兄弟たちはスペイン語による集まりを,自由に楽しむことができました。ポルトガルからも80名の人が来ました。講演はフランス語・ポーランド語・スペイン語・ポルトガル語で同時に行なわれました。

宣伝することが許されませんでしたし,会場がパリの郊外なので,1955年にパリで開かれた国際大会の出席者をしのぐ出席者があるだろうかと,兄弟たちは考えました。ところが,それを上回ったのです。「すべての国民が神の御国の下に一致する時」と題するノア兄弟による公開講演に2万3,004名の人が出席しました。驚くべきことに,出席者数の5%を超える1,203名の人がその大会でバプテスマを受けました。

1961年にも平均伝道者数は10%増加し,最高数は1万7,108人に達しました。フランスで王国宣教学校が開かれたのもその年です。最初の授業は3月13日から4月8日にかけてベテルで行なわれ,巡回および地域の僕が受講しました。その後数年にわたって,フランス,ベルギー,スイスの会衆の僕と特別開拓者の兄弟姉妹がその学校で学びました。

7年間で100%の増加

1955年に8,512人だった平均伝道者数は7年間で2倍余りも増え,1962年には1万7,299人になりました。「ほかの羊」を集める業は実にすばらしいものだったのです。そのころまでには,人口2万を超える都市にはみな伝道者がいました。また,監督たちと特別開拓者たち合わせて324人がすでに王国宣教学校を終えていました。

1920年にバプテスマを受けて活発に奉仕し始めたアンリ・ガイガー兄弟はこの時まだ健在で,1920年当時の二,三十人ほどの伝道者がこのようにすばらしく増加するのを見ました。1951年に彼に代わってジョンテス兄弟が支部の僕に任命されたあと,ガイガー兄弟はしばらくの間引き続きベテルで奉仕しました。その後,健康が思わしくなくなったので,息子と暮らすために妻と共にベテルを去りました。そして,1962年8月29日そこで地上の歩みを終えました。同兄弟の生涯の物語は1963年2月15日号の「ものみの塔」誌に載っています。

パリに任命された特別開拓者たち

不思議なことですが,業はフランス全土で急速に発展していたのにひきかえ,首都のパリでは立ち遅れが見られました。そこで,ベテルの近くの,ブーローニュ・ビヤンクール,セーヌ通り11番に宣教者の家を開設することが決まりました。協会はそこに一軒の家を購入し,開拓者の兄弟たちをベテルに招いて,その家の増築と整備をしてもらいました。その宣教者の家は1962年12月17日から機能を開始し,特別開拓者たちがそこに住んでパリの市内および周辺の区域で証言活動を行ないました。その大きな建物はベテルの別館ともなり,パリの別の場所の倉庫にあった協会の発送部門がそこに移されました。

1963年から1966年 ― エホバの祝福が引き続き注がれる

次の数年間,エホバがフランスにいるご自分の民を祝福しておられる証拠はたくさんありました。まず,世界を一周する「永遠の福音」大会が1963年に開かれました。フランスは開催地の一つではありませんでしたが,驚いたことに,伝道者の半数を上回る1万1,000人の兄弟たちが,イタリアのミラノの大会とドイツのミュンヘンの大会のどちらかに出席しました。出席者を運ぶ貸切列車が多数設けられました。「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のフランス語版が発表されたことをはじめ,出席した兄弟たちは本当にすばらしい霊的な祝福を得ました。

同じ年,フランスで初めてエホバの証人の数が2万人を超えました。次いで1964年に伝道者数は9%増加し,2,000人余りの人々がバプテスマを受けました。また,その年には「目ざめよ!」誌の配布数が初めて300万冊台を突破し,休暇(補助)開拓者を含む1,100人ほどの開拓者がその雑誌を一般の人々に配布することにあずかりました。

1965年,主の記念式に3万4,862人が出席し,伝道者は2万2,933人という新最高数に達しました。「目ざめよ!」誌の配布数は天井知らずの増加を続け,その年に350万冊余りが配布されました。今や380の会衆と92の孤立した群れがありましたが,人口が5,000人から1万2,000人の94の町にはまだ一人もエホバの証人がいませんでした。しかし,大きな都市では証言の業が順調に発展していました。パリには11の会衆がありましたし,リオンには七つ,ニースとミュルーズには四つの会衆がありました。そのほか幾つかの都市では会衆が三つありました。

1966年の特筆すべき事柄は62の会衆が新たに設立されたことです。それによって全国の会衆の合計は442になりました。それらの会衆は30の巡回区に分かれ,さらに三つの地域に分かれていました。また,その年,地域大会が5か所で開かれ,公開集会に合計2万2,153名の人が出席しました。ボルドーの大会では,フランスの兄弟たちがポルトガルの兄弟たちを迎える特権を得ました。ポルトガルの兄弟たちの大半はホテルに泊まる経済的ゆとりがありませんでしたし,兄弟たちの家に全員を収容する余裕がなかったので,フランスの兄弟たちは映画館を借りて,そこをシャワー・洗面器・その他の設備のある男性用と女性用の大きな宿舎に変えました。ポルトガルの兄弟たちはフランスの兄弟たちが示した愛に深く感謝しました。地帯監督のマリアン・スミーガー兄弟は,「別れの時多くの兄弟たちは目に涙を浮かべていました」と語っています。

『その時においてそれを速める』

1963年から1966年にかけて,「ほかの羊」を集める業は着実に発展しましたが,今や確かにエホバは「その時においてそれを速め」始められたと言うことができました。(イザヤ 60:22,新)1967年には伝道者の数が10%増加しただけでなく,主の記念式の出席者が一挙に4万1,274人というすばらしい数に上ったのです。象徴物にあずかった人は143人でした。将来さらに増加が見込まれることは,前年に毎月平均1万5,964件司会されていた家庭聖書研究が1万9,327件に増加したことからも明らかでした。「目ざめよ!」誌の配布数は一足飛びに400万冊余りに増え,5万5,446の新しい予約購読が得られました。

その年の夏,フランスの九つの土地で「人々を弟子とする」地域大会が開かれ,出席者の合計は2万7,009人でした。その地域大会で特に感謝されたのは聖書劇でした。急速な増加が見られたことの証拠に,1967年中2,269人の新しい弟子がバプテスマを受けました。そのうち地域大会でバプテスマを受けたのは960人でした。

フランスの政治的および社会的危機

1968年の春,フランスは非常に重大な政治的および社会的危機にゆさぶられました。騒動は,まずパリの有名なソルボンヌ大学およびパリ地区の他の大学の学生デモに端を発し,それが全国の大学と高等学校に広がりました。しばらくの間,パリのカルチェ・ラタンがよく闘争の場となりました。学生たちは,治安維持に努める警官と闘い,道路の敷石をはぎ取って警官に投げつけました。また,パリの有名な街路樹の一部を切り倒してバリケードを作り,自動車を焼き,商店のウインドーを壊しました。学生と警官双方に大勢の負傷者が出ました。

その後,労働組合も,独自のデモ行進をしたり労働者にゼネストを命じたりしてその運動に加わりました。したがって,1968年の5月と6月の間,フランスは事実上麻痺状態にありました。郵便も電車もなく,工場の機械は止まり,飛行機さえ飛ばなくなりました。少しの間,ドゴール体制は転覆するかと思われました。しかし,共産主義の労働組合と共産主義でない労働組合は分裂していましたし,労働者と学生の間には団結がありませんでした。ですから,政府と雇用者がはなばなしい協定を結ぶと,暴動もストライキもなくなりました。6月末に選挙が行なわれ,ドゴール派が圧倒的多数を占めました。

約1か月間,支部は諸会衆と通信することができませんでした。しかし,兄弟たちは,忠実に活動を続け,さらに良いことには,仕事が完全にストップしたためにできた時間を活用して,さらに多くの時間を野外奉仕に費やしました。その結果,伝道者一人当りの平均時間は初めて12時間になりました。

霊的に強めるための備え

学生のデモが一番ひどかった1968年5月7日から12日にかけて,ミルトン・ヘンシェル兄弟はフランス支部を訪問しました。その訪問は非常に励ましとなりました。ヘンシェル兄弟はベテル家族全体と多くの時間をかけて交わり,一人一人に励ましの言葉を与えて兄弟たちの心を温めました。ヘンシェル兄弟はちょうどよい時にパリを去りました。というのは,二,三日後にはゼネストのため飛行機が飛ばなくなったからです。ノア兄弟は6月に訪問する予定でしたが,そのような状況のために入国できませんでした。

そこで,ジョンテス兄弟とジャン・マリー・ボッカエル兄弟はベルギーでノア兄弟と会い,霊的な食物がフランスの兄弟たちにもっと多く流れるようにすることについて話し合いました。先にお話ししたとおり,「ものみの塔」誌は禁止されましたが,月刊の64ページの小冊子に励ましの多い記事が載せられていました。しかし,月に2回48ページの小冊子を発行することが決定され,1969年1月1日以降,それが実施されました。したがって,兄弟たちは毎月64ページではなくて96ページの翻訳された資料を受け取るようになりました。ノア兄弟はフランス支部がその余分の仕事をこなすために4台目の印刷機を購入することを許可しました。

「真理」の本のフランス語版が出るまでのいきさつ

1968年の5月と6月の政治的事件は,フランスにおける王国の関心事にほかにも予期しない結果をもたらしました。「とこしえの命に導く真理」と題する本が発行されたのが1968年だったことを覚えておられる方も多いと思います。「真理」の本は西洋で聖書に次いで広く配布されている本であり,112の言語で9,500万部余りも配布されています。さて,「真理」の本をそれぞれの母国語に翻訳できるよう,幾つかの支部に本の試し刷りが送られるという取決めが設けられました。そのようにして,世界で比較的広く用いられている言語で「真理」の本を同時に発行することができるのです。

フランス支部では,翻訳者がその本を一か月で翻訳し,すべてが順調にいっていました。翻訳原稿の一部がブルックリンへ送られ,無事にもどって来ました。原稿の別の部分が送られたとき,突然郵便局のストライキが始まり,原稿は配達されなくなってしまいました。

原稿の写しが再び作られて,ベルギーのブリュッセルに運ばれました。それから,自動車を持っている兄弟たちによるパリとブリュッセルの間の定期往復便の取決めが作られました。フランス支部からの通信物はベルギーに運ばれてから郵送され,フランス支部あての通信物はベルギー支部を経由してフランス支部に届きました。このようにして本ができ上がったので,フランスの兄弟たちは初めて,英語を話す兄弟たちと同時に書籍を受け取りました。夏の大会に間に合ったのはわずかな部数でしたが,間もなく,全員に行き渡るだけの,そして野外で配布できるだけの十分な数の本が手に入るようになりました。

「地に平和」大会

1969年の特筆すべき出来事は,パリ近郊のコロンブ・スタディヨムで国際大会の一環として開かれた「地に平和」大会でした。その最初のものはアメリカで7月初旬に開かれました。フランスから合計334人の人が大西洋を飛びその七日間の大会に出席しました。もっとも,8月の5日から10日にかけてその大会はフランスにもやって来ました。

フランスから出席するポーランド語を話す兄弟たちのための集まりばかりか,ポルトガル語の大会も競技場内で,開く手はずが整えられました。全部で78か国から出席者が集まりました。ポルトガル語の集会に2,731人,ポーランド語の集まりに600人が出席したほか,ベルギーから約5,000人,スイスから1,000人,アメリカから1,300人以上,カナダから200人,英国から170人,アフリカから120人の人々が出席しました。特別な英語のプログラムもあり,800人余りがその集まりに出席しました。

ポルトガルの兄弟たちにとって,その国際大会はそれまでで一番すばらしい大会でした。ポルトガルにおける証言の業のそれまでの歴史上,大会出席者数が最も多かったのはフランスのツールーズで1968年に開かれた大会の時で,825人でした。ポルトガルの兄弟のうちかなりの人がパリ大会に出席できるものと予測されていました。確かに大勢の兄弟たちが楽しい時を過ごしました。90人の伝道者からなるリスボン会衆からだけでも65名の人が出席したのです。一人の姉妹は往復の旅費を得るために2年間お金を蓄えました。アンゴラ,アゾレス諸島,ベルデ岬諸島,マデイラ諸島,モザンビークからも出席者がありました。

大会は初日から晴天に恵まれ,毎日気持ちのよい日が続きました。ポルトガル,ポーランド,そしてフランスの半数の兄弟たちの席には屋根がなくて雨を避けることができませんでしたから,晴天が続いたことは幸いでした。では大会全体の最高出席者数は何人になるでしょうか。

「近づく一千年の平和」と題する公開講演が行なわれた日曜日に,4万7,480人が出席しました。それは1961年にコロンブ・スタディヨムで開かれた大会の時の出席者の2倍を超える数です。しかし,さらにすばらしかったことがあります。それは,大会中の平均出席者数のほぼ10%に当たる3,619名の人がバプテスマを受けたことです。エホバの証人のこのような増加は僧職者にとって重大なことでした。そのことは,パリの夕刊大衆紙フランス・ソワールの1969年8月6日付に載った次のような論評にも示されています。

「他の宗派の僧職者が憂慮しているのは,エホバの証人が雑誌を目ざましく配布しているその方法ではなく,むしろ,証人が改宗者を作ることである。エホバの証人は各自,組織の指示に従って働き,戸別訪問をして聖書を使いながら自分の信仰を証言する,つまり宣明する義務がある。……エホバの証人の教理は聖書に基づいている。……証人たちは一人の神(エホバ)を信じていて,三位一体・霊魂不滅・地獄や煉獄の存在を認めない」。

新聞やラジオやテレビはかつてなかったほどの注意を大会に向けました。フランスの微妙な情勢を考えて,報道関係者を大会に引き付けるために何らかの努力を払うということは全くなされませんでした。しかし,報道陣は自分たちのほうからやって来たのです。開会日の朝,10人ほどの新聞記者が来ていました。そして翌日,幾つかの広く読まれているフランスの朝刊の第一面に写真入りの記事が掲載されました。また,8月7日の木曜日には大会に関してすぐれたテレビ放送もあり,フランスで最も視聴率の高い,午後8時の全国ニュースという番組でも,大会のことが3分近く取り上げられました。放映された内容すべては好意的なものでした。

同じ日,有力な新聞ル・モンド紙はその宗教欄で,欄の長さにして36インチ(90㌢)の紙面を割いてエホバの証人関係のニュースを扱い,カトリック教会については欄の長さにして9インチ(23㌢)の紙面を割いたにすぎませんでした。フランスの一流新聞のすべてに,しかも,エホバの証人を対象として競技場の周辺で売られる特別版にではなく,フランス全国とフランス語地域で販売される全国版に好意的な報告が載せられました。フランスの新聞は欄の長さにして873インチ(22㍍余り)の記事と写真を掲載しました。

また,ベテル家族も大会の報告を2種類,写真入りで印刷して大会中に出しました。最初の報告は16ページのもの,二つ目の報告は32ページのものでした。フランスにおいて大会の報告が母国語で発行されたのはそれが初めてでした。それらは,大会後にもエホバの組織の規模と目的を人々に示すのに大変役立ちました。

「心に音楽をかなで……歌いつつ」と題する新しい歌の本が発行されたのも1969年でした。兄弟たちはその歌の本をコロンブ大会の少し前に受け取ったので,大会中にうたわれる予定の歌を覚えることができました。

「真理」の本は業の速度を速める

1969年の平均伝道者数は2万9,754人で,12%の増加でした。前年に発行された「真理」の本はそのすばらしい増加と大いに関係があります。毎週平均2万5,949件の家庭聖書研究が司会されましたし,主の記念式の出席者は,前の年には4万9,086人でしたが,1969年には6万457人でした。また,4,583人がバプテスマを受けました。それは,1年間にバプテスマを受けた人数のそれまでの最高数を2倍も上回る数です。

急速な拡大は続きました。伝道者数は1970年に15%増加し,翌年の1971年には14%増加しました。したがって,伝道者数は1968年に2万6,614人だったのが,1971年の3万9,026人という平均伝道者数に一挙に増加したわけです。それは,わずか3年間に1万2,000人余りも増えたことを意味します。また,1971年の記念式には8万293人が出席しましたが,それは3年前の出席者数よりも3万人余り上回っていました。さらに,新しい会衆が一週間に一つ以上の割で設立されていました。1971年には53の会衆が誕生したので,会衆の合計は636になりました。確かに「真理」の本は,主の羊を集めるのを助ける上で主要な役割を果たしていました。

ツールーズ大会の準備

ツールーズで開かれる「神のお名前」地域大会は,1971年の最高潮をなす行事となるはずでした。フランス語のプログラムに約5,000人,ポルトガル語のプログラムに5,000人,スペイン語のプログラムに1万5,000人,合わせて2万5,000人の出席者が見込まれていました。3か国語で行なわれるその大会のために,ホテルのすべての空き部屋とツールーズ市内および周辺のキャンプ場が予約されました。しかし,その後予期しないことが起こったのです。

スペインにコレラが発生し,予防に関する話がありました。しかし,当局は大会を禁止するのを大いに渋っていました。そうすることはフランスの商人に評判がよくなかったからです。また,すでに契約が結ばれ,膨大な準備がなされていたので,損害賠償で協会から訴えられることを恐れていたのです。ところが,しばらくして,準備が引き続き着々と進められていたとき,とうとう大会を正式に禁止するという通達が来ました。大会監督だったジャン・クロード・レゼー兄弟は次のように語っています。

「禁止の発表があったとき,兄弟たちは実際最後まで立派に振る舞いました。……もちろん,目に涙を浮かべてはいましたが,どの兄弟も献身的な精神をもって,建ててもむだになってしまったすべての物を取り壊す作業にもどらなければならないことを認めました。様々な部門の責任者の兄弟たちはその仕事を立派にやってのけました。スペインとポルトガルから来ていた兄弟たちは,わたしたちの解体作業を支援しながら,どこかほかの場所で自分たちの大会を開く準備もしました」。

禁止されたが祝福を受けた

フランス語を話す兄弟たちのほとんどすべてはフランスの他の場所で開かれた大会のどれかに出席することができました。また,ポルトガルから900人近い兄弟たちが12台のバス,チャーター機一機,多数の自家用車などでロンドンへ行き,“緊急特設”プログラムに出席しました。フランスの「神のお名前」大会の出席者の合計は4万8,533人で,2,084人もの大勢の人がバプテスマを受けました。

このように1971年はフランスにおいて神権的に驚くべき拡大の見られた年でした。また,第二次世界大戦以来発行されていなかった,「エホバの証人の年鑑」のフランス語版というすばらしい備えが与えられた点でも際立った年でした。

ベテルの別館が必要になる

パリの西の郊外,ブーローニュ・ビヤンクールにあったフランスのベテルは1972年までに手狭になったので,別館が必要となりました。特に発送部門のための場所が必要でした。ブーローニュのベテルが完成した1959年には年間8万5,000冊の書籍が発送されましたが,1972年までにその数は109万4,231冊に増えたのです。小冊子・用紙類・その他の印刷物については言うまでもありません。

アメリカからの文書が着く,フランス西部のルアーブルとパリの間のどこかに別館を建てるのは賢明と思われました。パリとルアーブルのどちらからも105㌔ほどの地点にあるルビエという,ノルマンディー地方の小さな町に,縦73㍍横33㍍の土地が1970年の11月に見つかりました。法律上の問題を克服するのに18か月ばかりかかったため,不動産権利証書に署名がなされたのは1972年4月28日でした。建築は実際には翌月に始まり,その年の12月に完了しました。

その建物は大変美しい2階建てのプレハブで,外装は化粧レンガと緑のほうろう引きの羽目板とから成っていました。1階には,台所・冷蔵室・快適な食堂のほかに広い印刷所と発送部門がありました。2階は洗たく室・図書室・22の寝室になっていました。建物全体の床面積は約2,044平方㍍です。

印刷設備は1973年5月29日にルビエに移されました。雨のブーローニュで,印刷機や他の機械類を巻き上げて,ベテルの外の通りの超大型トラックに積む様子は珍しい光景でした。そのために待たされていた自動車やトラックの運転者たちは,普通なら交通が渋滞すると法律を無視して警笛を鳴らすところですが,好奇心にかられてそうするのを忘れるほどでした。やがて,4台の印刷機・ライノタイプ・断裁機・折り機が無事ルビエに到着し,二日後には動き出しました。

献堂式は1973年6月9日,土曜日に予定され,157人がその催しに出席しました。数人の兄弟たちはフランスにおける業のそれまでの歩みを語りました。1972年に初めて1年間だけで5,000人を超す人々がバプテスマを受けたことは考えるだけでも大きな感激を覚えるすばらしい増加でした。また,印刷工場の責任者の兄弟は,1960年に29万1,530冊の雑誌が印刷されたのに対し,1972年には177万1,300冊印刷されるまでになったことを簡単に説明しました。印刷物の総数は,1960年の416万1,994部から1972年の3,204万3,610部に増加しました。

「神の勝利」国際大会

コロンブ・オリンピック競技場が再び国際大会の会場に予定されました。大会が始まる7か月前の1973年1月1日に大会委員会が設置されました。競技場を巨大な王国会館に変える作業を監督するのは実に膨大な仕事でした。が,それは首尾よく成し遂げられました。

競技場の中央のステージの周りにはたくさんの鉢植えの植物が飾られました。それらの鉢植えは,園芸家のエホバの証人が何か月も前から育てたものでした。2羽の本物のフラミンゴのいる人工の池も気持ちのよい飾りでした。競技場の持ち主である「フランス競馬クラブ」は,その装飾を同クラブ発行の月刊スポーツ雑誌の表紙に載せました。

8月1日,水曜日の開会日までに準備万端整いました。文字通り人間の大軍が競技場に押し寄せました。エホバの証人に対して非常にしんらつで皮肉なことの多いフランスの新聞が,熱心に耳を傾ける聴衆をほめちぎりました。カトリックの新聞ラ・クロワは次のように評しました。

「エホバの証人は,戸別訪問による活発な改宗活動をしていることで広く伝えられているが,フランスではこれまでのところ中程度の成果しか収めていない。しかしながら,コロンブで開かれたエホバの証人の大会は,彼らの責任感と共に非の打ちどころのない組織や聖書劇からして,確かに印象的な催しだった」。

新聞や雑誌はその国際大会を夏の注目すべき事件として熱烈に支持しました。ル・モンド紙はこう述べました。「どんな政党でもうらやむに違いないほど熱心でよく勉強する群衆で,競技場はあふれんばかりに一杯になった」。

新聞売りの人々でさえ,大会出席者のマナーの良さに無関心ではありませんでした。パリジャン・リベレ紙の新聞売りは歩道に新聞を山と積んで,代金を入れるかんを置き,番人を一人つけただけでした。大会の出席者たちは,かんに代金を入れるだけで新聞が求められることに驚き,つり銭をごまかされる心配はないかとその新聞売りに尋ねました。その人は,「いいえ,心配なんか全くいりません。1969年の時にもこうやったんです」と答えました。

8月3日,金曜日に行なわれたバプテスマの話には合計2,703名のバプテスマ希望者が集まり,提出された質問に「はい」と答えました。その人々が,500㍍離れた所にある水泳プールへ秩序正しく向かった時のことは忘れられません。ジュルナル・ド・ディマンシュ紙はその顕著な出来事を次のように評しました。

「ある日突然“真理”を発見してエホバの証人になることはだれにもできない。忍耐と時間と勇気,そして極めて深いクリスチャンの信仰とが必要とされる。しかし,聖書の律法中に説かれている教えを受け入れることも必要である」。

フランスの野外における発展に関する限りでは,コロンブで開かれる大会は画期的なものとなりました。1961年の時には2万3,004人が出席し,1969年には4万7,480人が出席しました。では,1973年はどうなるでしょうか。「神の勝利 ― 苦悩する人類にそれが意味するもの」と題する日曜日の公開講演になった時,6万241人という驚くべき数の人々が大競技場にあふれました。

「新世界訳」のフランス語版

1963年に「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」がフランス語で出版されました。そして,ついに11年後に,「新世界訳聖書」全巻が兄弟たちに非常な熱意をもって迎えられました。フランスにおいて,この新しい出版物は特別の重要性を持っていました。その理由を理解していただくには,歴史を少しお話しする必要があります。

法王はフランスを「カトリックの長女」と呼びました。今日でも人口の85%はカトリック教徒と称しています。1789年のフランス革命前には,住民110人につき一人の割合で司祭がおり,比較的近年の1970年でさえ,住民297人に対して一人は司祭か修道士か修道女であったことを考えると,カトリック教会がフランスの人々に聖書を教える点で非常に有利な場を占めてきたことは明らかです。

ところが,司祭たちは長年の間,1229年のツールーズ会議で定められた,「平信徒は旧約および新約聖書を所有してはならない」という規則を実施しました。もっとも,「エルサレム聖書」などのように,1950年代以降カトリック聖書が幾つか発行されていますが,値段が比較的高いので,それを求めて置いている家庭はめったにありません。ですから,「新世界訳」のフランス語版が発行されたことによって,非常に貧しい家庭でも全巻そろった聖書を手に入れることができるのです。1974年以来,この優れた翻訳聖書約80万冊が野外での配布用として諸会衆に発送されました。

動機付けとなる希望を差し伸べる

フランス人の生活は物質面では全般的に向上しましたが,生活が真に安定していないので,多くの人は失望と困惑を感じています。その人たちは,自分たちの宗教から霊的な強さや真の確信を与えられていないので,問題を抱えたときに絶望感を味わいます。そのような人々が,王国の音信を聞いて真に有益な変化を遂げたという例は少なくありません。その例を一つだけ挙げてみましょう。

ある女性は,多くの問題に直面して神経衰弱にかかり,3人の子供と無理心中をしようと決心しました。しかし,その恐ろしい計画を実行に移す前に,祈りの中で苦しみを神に話しました。それからアパートの部屋をきれいに掃除し,夫と母親に遺書を書き,あとに残す物をみなきちんとしておきたかったので,ごみの容器を階下に持って行きました。

ところが,降りて行く途中で二人のエホバの証人に会い,二人から話し掛けられて,再び訪問してもらう約束をしました。そして,部屋へもどったときにその約束のことを考え,自殺を1週間延ばすことにしました。1週間後,エホバの証人は時間通りにやって来ました。短い紹介の言葉のあと,「真理」の本を使って聖書研究が始まりました。二,三週間して,その女性は体の具合いが非常に悪くなり,病院へ入院しなければなりませんでした。5週間の入院中,エホバの証人はその人を定期的に見舞いました。

彼女は退院すると,聖書の勉強を続け,王国会館から遠く離れた所に住んでいたにもかかわらず,できる限りのことをして子供と一緒に集会に出席しました。神の言葉によって大いに励まされ勇気付けられたその人は,会う人すべてに証言をし,すばらしい結果を得ました。自分自身がバプテスマを受けただけでなく,その女性の母親と夫も聖書を学び,やがて伝道の業に参加するようになったのです。

うれしいことに,あらゆる年齢の,また,あらゆる背景の人々が聖書の真理を学んでおり,その人たちは,永遠の命を神から与えられるという確かな見込みをはっきりと理解するにつれて,生き方を変えています。ゆえに,1974年には8,689名の新しい人々が神の善良さに答え応じてバプテスマを受けました。ですから,平均すると,昼夜の別なく1時間に一人がバプテスマを受けたクリスチャンになっていたのです。また,同じ年に毎月5万3,000人余りのエホバの証人が伝道し弟子を作る業に活発に携わり,3万6,000件を超す聖書研究を司会しました。さらに,主の記念式の出席者は11万330人でした。

「ものみの塔」誌に対する禁令が解除される

1975年には,フランスのエホバの証人の歴史の里程標となる出来事がありました。「ものみの塔」誌に対する22年間にわたる禁令が解除されたのです。1月からフランスの兄弟たちは研究用として雑誌を受け取ることができるようになりました。二,三週間後には戸別訪問による証言活動で用いるための雑誌も入手できるようになったので,兄弟たちは大いに喜びました。

すべての人に霊的な必要物を備える

1952年に二人の開拓者が,フランス領であるコルシカ島で伝道の業を開始したことを覚えている方もあるでしょう。さて,それから15年後の1967年にそこには二つの会衆がありました。1969年には三つ目の会衆が設立され,1970年に初めてコルシカ島で巡回大会が開かれました。その時以来,数人の特別開拓者がコルシカ島に派遣されました。それで,1978年には伝道者が431人いて,九つの会衆がありました。

地中海沿岸にあるモナコという小さな公国はフランス支部の管轄下に置かれています。ご存じかもしれませんが,モナコは賭博で名高いモンテカルロのある国です。人口2万7,000人のモナコで戸別に証言することは禁じられていますが,フランスのボソレイユ会衆の伝道者が行って定期的に伝道しています。1978年までに,モナコには7人の活発なエホバの証人が生まれていました。

また,外国語を話す人々の霊的な必要も顧みられており,1975年までには,一つのギリシャ語の会衆と二つのドイツ語の会衆は言うまでもなく,17のポルトガル語の会衆と16のスペイン語の会衆がありました。加えて,24のポルトガル語の群れと12のスペイン語の群れがフランス語の会衆と交わっていました。世界の様々な土地から来たそれらの人々が母国語で真理を学べるということを知るのは,本当に励まされることでした。

王国宣教学校は引き続き開かれる

先に述べたとおり,フランスでは1961年の3月に王国宣教学校が開かれました。その目的は,長老たちが聖書的な責任を果たすのを助けることです。1971年12月までに,全部で93のクラスがその課程の益を受けました。29番目のクラスの時からは1か月の課程から2週間の課程になりました。

学校は3年余り中断されましたが,1975年2月から新しい教科書を用いて再び開かれるようになりました。同年に2,043人の長老がその新しい課程から益を得ました。ついには,1978年の6週間にフランスで5,300人を上回る長老が,改正された二日間の課程に出席しました。長老たちはそれから益を得たでしょうか。一人の長老はこう述べて,その質問に十分答えました。「エホバの思いやりのある組織が,会衆の兄弟たちを築き上げるための一層明るい啓発をいつも私たちに与えてくださることを,感謝しています」。

二つ目の別館が付け加えられる

1973年にルビエの別館が献堂されたときは,「大患難」までフランスの必要をまかなうのにその建物で間に合うと考えられていました。1974年に王国会館を建てるためアンカルヴィル(ルビエのすぐ近くの村)に土地が購入されたときでさえ,支部の別館を建てるという考えは全くありませんでした。ところが,王国の業の急速な発展に伴い,間もなくわたしたちの考えは変わりました。ついに,1976年4月2日に,床面積が2,483平方㍍の2階建ての建物を造る許可が下りました。

フランスの各会衆に,建築の経験のある自発奉仕者を募る手紙が送られました。兄弟たちはルビエのプレハブの建物にあまり満足できなかったので,新しい建物は自分たちで建てることにしたのです。建築の経験のある一人の兄弟は,支部委員と統治体の監督下に置かれた建設委員の一人として建築作業の調整役を務めることを申し出ました。

工事は計画通り進みましたが,その年の12月8日になって,統治体から3階を造ってはどうかとの提案がありました。そうすれば十の余分の居室ができます。それで,設計を担当していた兄弟は新しい図面を描き,それの検査を受けました。こうして,390平方㍍が加わったので,建物の床面積の合計は2,873平方㍍になりました。

新たな別館はついに完成し,1978年5月13日,土曜日,統治体のレイモンド・フランズ兄弟がフランス語で献堂式の話をしました。アンカルヴィルの別館は現在,発送部門と,ルビエで働くベテルの兄弟たちの宿舎になっています。2階と3階にある34の居室のほとんどはすでに使用されています。現在フランスのベテル家族は全部で136人ですが,そのうちの46人はブーローニュに,90人はルビエ-アンカルヴィルにいます。

多くの新しい出版物

近年,膨大な量の翻訳の仕事が行なわれてきました。英語の出版物は事実上すべてフランス語に翻訳されています。1976年からは,年に一度出版される「ものみの塔出版物索引」のフランス語版さえ発行されるようになりました。フランス語の「索引」は英語以外の言語で発行された「索引」の最初のものでした。また,フランス語による聖書の朗読を吹き込んだカセットテープも作製され,ヨハネの書のテープ1万2,000セット余りが28の国々に配られました。

「勝利の信仰」大会

1973年の大会の時にコロンブ競技場はすでに満員になったので,1978年の大会には,支部委員は全国で六つの「勝利の信仰」大会を組織しました。それは良いことでした。なぜなら,出席者の合計は1973年の時よりも2万3,178人多い8万3,419人に達したからです。

金曜日の朝,出席者たちは大会開催地の住民に証言することによって勝利の信仰を伝えました。パリのある若い女性はエホバの証人を歓迎してこう言いました。「あなたがたが訪ねてくださったのは神のお導きです。私はだれかと話をする必要を切実に感じました。神経衰弱になったことが3回ありますし,自殺したいと思ったことさえあるんです」。それから,その女性は神にもっと近づかなければいけないと思っていることを証人に打ち明けました。その人が友だちと公開講演に出席することが取り決まりました。

さらに発展する見込みがある

人々は依然として王国の音信に答え応じています。そのことは,1979年の主の記念式に13万3,584名の人が出席したことに表われています。それはちょうど2年前の記念式の出席者数より9,810人多い数です。その主の記念式の出席者がフランスの6万7,000人に上る王国伝道者数のほぼ2倍に当たるということから,王国の業が引き続き発展するすばらしい見込みがあることが分かります。

1978年末までにフランスにはすでに会衆が1,188,巡回区が60,地域が六つありました。パリ市内に28が,パリ周辺の地域に116,合計144の会衆があります。マルセーユには17,リヨンには11,ニースには10,ナントには八つ,ツールーズにも八つ,グルノーブルには七つ,ミュルーズには七つ,カーンには五つの会衆があり,そのほか,二つか三つの会衆がある町はたくさんあります。

証言の業が,今世紀初頭の勇敢で決然とした一握りほどのクリスチャンから発展してきたことを考えると,エホバがご自分の民を祝福してこられたことが確かに分かります。使徒パウロは,「わたしたちは真理に逆らっては何も行なえず,ただ真理のためにしか行なえない」と述べました。わたしたちは,この記録を読まれた方々が,ここに述べられている出来事すべては,使徒パウロのその言葉の真実さを証明するのに役だつということを思いに留めつつ,エホバへの奉仕にぜひ邁進されるようにと願ってやみません。―コリント第二 13:8

[37ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

フランス

英国海峡

ベルギー

ドイツ

ルクセンブルク

ヴォージュ

ロレーヌ

アルザス

スイス

イタリア

アルプス

モナコ

地中海

コルシカ

ピレネー山脈

スペイン

パリ

ロアール川

ブルターニュ

ノルマンディー

ザール

ルベ

ブルュエ

サンルノーブル

ランス

ドエー

ドナン

ルアーブル

カーン

ルビエ

ストラスブール

ナンシー

レンヌ

アンジェ

ナント

ポアチエ

ムーラン

リモージュ

ボルドー

バイヨンヌ

ツールーズ

マルセーユ

バスチア

ニース

バランス

ボヴェーヌ

クレルモンフェラン

グルノーブル

リヨン

アンシー

ジジョン

ブザンソン

ミュルーズ

[41ページの図版]

1900年

フランスで宣べ伝える業を開始したスイス人のきこりアドルフ・ウェーバー

[73ページの図版]

1931年

(背景)1931年から1940年にかけて用いられたパリ支部

(前にいる人々)ラザフォード兄弟とフランス支部およびスイス支部の職員

[76ページの図版]

1932年

王国の音信を伝えるためにフランスで100台ほどのモーターバイクが使われた

[81ページの図版]

1933年

パリの展覧会の会場に設けられたものみの塔協会のスタンド。1930年代に協会の数種類の書籍が金メダルを獲得した

[84ページの図版]

1937年

サンルノーブル会衆 伝道者たちと彼らが使っていたサウンドカー

[104ページの図版]

1945年

第二次世界大戦中数年間離ればなれになっていたエマ,アドルフ,シモーヌ・アーノルドの再会

[121ページの図版]

1948年

公開講演を宣伝するため自転車を使って行なったプラカードによる証言

[125ページの図版]

1951年

パリで戦後初めて開かれた国際大会。28か国から1万456人が出席

[136ページの図版]

1959年

ブーローニュ・ビヤンクールに完成した新しいベテル

[152ページの図版]

1972年

ルビエに建てられたベテルの別館

[160ページの図版]

1978年

ノルマンディー地方のアンカルヴィルに建てられた2番目のベテルの別館