内容へ

目次へ

エルサルバドル

エルサルバドル

エルサルバドル

時は1945年2月24日,所はメキシコシティー空港です。滑走路を走っている小型のプロペラ機の機内で,ひとりの宣教者は心配そうに座席の両ひじ掛けを持ち上げるようにしっかりつかんでいました。通路の向こう側に座っていたのは,ものみの塔協会のネイサン・H・ノア会長とフレデリック・W・フランズ副会長です。ノア会長はその宣教者に,もう少し強く持ち上げれば飛行機は間もなく地面から離れるだろうと言いました。飛行機が離陸すると,君が努力したおかげだ,もう引っ張らなくてもいいよ,と言いました。

その宣教者とはロスコー・A・ストーンです。ストーンは妻のヒルダを伴い,外国の任命地である中央アメリカの小さな長方形の国エルサルバドルに向かっていました。二人は王国の良いたよりを,太陽の輝く面積2万700平方㌔の熱帯の地に当時住んでいた約150万人の人々に組織的に宣明する活動を始めることになっていました。

ストーン夫妻はノア兄弟とフランズ兄弟にグアテマラまで同行し,四日後,エルサルバドルまでの残りの行程を飛ぶ飛行機に乗りました。彼らがそこで見たものは,宝石のような火山湖,死火山や活火山,コーヒー園,太平洋に面して幾キロも続く汚染されていない浜辺のある国,マンゴー,パパイヤ,マミー,西洋カリンなど,二人にとっては異国情緒豊かな果物を売る青空市場の開かれる国でした。

次第に落ち着く

ものみの塔協会のメキシコ支部の監督は首都サンサルバドルに住む,関心を示していた二人の人にストーン兄弟姉妹を空港で出迎えることを頼み,エホバの証人であることが分かるように「ものみの塔」誌のスペイン語版をかざしてほしいと伝えました。ところが,ストーン兄弟姉妹は到着予定の日付より三日早く着いたので,空港には当然出迎えがいませんでした。やがて,エルサルバドルが包囲状態にあり,出版が規制されていることが分かりました。オスミン・アギレ大統領は無理やりその地位に就けられ,政府の多くの省でストライキが起こっていました。

サンサルバドル空港は首都からおよそ10㌔離れた所にあったので,ストーン兄弟姉妹はタクシーに乗りました。タクシーの運転手が市のはずれで検問を受けるために止まったちょうどその時,大きな破裂音が起こりました。幾人かの警官がストーン兄弟姉妹の頭にライフル銃のねらいを定め,自動車のところに走って来ました。運転手は,タイヤのパンクに違いないからびっくりしないでほしいと警官に興奮した調子で言いました。

その危機を通過したあと,自動車は牛車や子供たちや街頭の屋台小屋の間をぬって町の中心へと進みました。宮殿付近の通りという通りには機関銃が配置されていました。ストーン兄弟姉妹が出入国管理局の役人に証明書を見せると,プロテスタントの宣教師どもがカトリックのこの国に来た,と言うその役人の不平の声が聞こえました。それでも6か月間の滞在許可が下りました。

ストーン兄弟姉妹は周囲に囲いの付いたパティオのある二部屋の小さな家を借りました。台所の設備としては炭の小さなコンロしかありませんでした。水道と電気は配給制になっていたので,決められた時間にしか利用できませんでした。町にはコンドルのような鳥がたくさんいて,ごみの処理にひと役買っていました。その鳥はパティオの周りのへいに留まり,兄弟たちを見ていました。少なくとも,そのような鳥がいるのはあまり気持ちのよいものではありませんでした。

宗教史

ストーン夫妻はエルサルバドルに着いた時,新任地の宗教史をあまり知りませんでした。当時ほとんどすべての住民は名目上カトリック教徒でした。しかしエルサルバドルのカトリック教徒は北アメリカのカトリック教徒とは異なる崇拝形式に従っていました。それというのも,エルサルバドル人はその先祖であるインディオの儀式を,ローマ・カトリック教会の宗教的な慣行と組み合わせて行なっていたからです。ある歴史家は,中米の宗教事情について次のように書きました。

「特にインディオの町にある教会の礼拝は昔の異教の偶像崇拝の形式と密接な関係があるようだ。ローマ・カトリック教は,植民地[スペイン領]内の多くの町において弱体化し,幾多の非キリスト教的な慣行をカトリック教の上につぎ足すことにより,ヨーロッパ的なところをおおかた失ってしまったと言っても間違いではない」― ウィルグスとデカ著,「ラテン・アメリカ史概説」。

興味深いことに,サンティアゴ・バルバレナという歴史家は,自著「古代エルサルバドル征服史」の中で,スペイン人がアメリカに来た時,インディオはすでにパパウアキンと呼ばれる司祭長もしくは教皇を有していた,と述べています。征服者たちは,インディオの宗教の中に自分たちの宗教との類似点がこのほか数多くある理由が分かりませんでした。後代の年代記作者たちは,インディオの教皇とローマの教皇とが混同されないように,この教皇という名称を使うのを避けています。

間もなく分かったことですが,人々は一般に聖書の知識を全くと言っていいほど持っていませんでした。事実,大半の人は聖書を一度も見たことがなく,ましてや読んだことなどありませんでした。教えられていなかったので,クリスチャンに対する神のご要求について知っている人はほとんどいませんでした。ですから,公式の報告によると,エルサルバドルで生まれた子供の50%余りは私生児でした。

カトリックの司祭自らが不道徳の手本を示しています。エルサルバドルの支配者の一人だったルベン・ロサレスはのちにこう語りました。「以前に住んでいた,コフテペケの一司祭に愛人がいたことを私は知っています。それは周知の事実でした。その司祭には愛人に産ませた息子もいました。『司祭がしているのにどうして我々がしていけないのか』というのが自分の行動に対する言い訳でした」。確かに,この国には王国の音信を伝える必要がありました。

王国の伝道を開始する

ロスコーとヒルダは,エルサルバドルに来て三日後,すなわち自分たちが到着することになっていた日に空港に行きました。そこで,並んで立っている男の人と女の人を見付けました。男の人はアドベンティスト派の雑誌である「エルセンティネラ」を高く掲げ,女の人は「ものみの塔」誌を掲げていました。ストーン夫妻はその後二人と聖書研究を始めました。男の人は全く進歩しませんでしたが,女の人は二,三週間してヒルダに伴い野外奉仕に出はじめました。しかし,二日後,その女性はストーン姉妹に報酬を求めました。エホバがご自分に仕える人々に対しどのような報いをお与えになるかを知ると,その女性は聖書の研究も野外奉仕もやめ,二度と再び姿を見せませんでした。

それまでに四,五人の人が協会の文書の配布を多少行なったことがありましたが,エルサルバドルに定住したエホバの証人はストーン兄弟姉妹が最初でした。エルサルバドルに来てちょうど1か月後の3月28日にストーン兄弟姉妹は二人の人と集まって主の記念式を祝いました。次いで,1945年4月9日,ノア兄弟とフランズ兄弟が南米からの帰途エルサルバドルを通った時に,10人ほどのエルサルバドル人が空港に行ってその二人に会いました。その年の末までに,さらに6名の宣教者が到着しました。その6名とは,マリオン・バージャーと妻のコーデリア,グラディス・ウィルソン,マーガリート・ストーバー,ルース・プライスおよびドロシー・トムソンです。

初めのころにバプテスマを受けた人々

ギレアデの卒業生たちがエホバの音信を熱心に人々に宣べ伝えたので,多くの人が集会に出席しはじめました。初期のギレアデ卒業生の幾人かは,年配の男の人がバプテスマを受けている写真を持っています。その男の人の名前はアントニオ・モリナ・チョトです。ストーン兄弟は,当時69歳だったアントニオと研究しました。その年すなわち1945年に,アントニオはエルサルバドルで献身の象徴としてバプテスマを受けた最初の人になりました。

エルミニオ・ラミレスとその妻も,初期のころエホバの証人になったエルサルバドル人です。ストーン兄弟姉妹はその夫婦と二日おきに研究しました。およそ15日後に,ストーン兄弟はエルミニオに野外奉仕の手ほどきをしました。ストーン兄弟とエルミニオは,サンサルバドルの端から端までいつも一緒に奉仕して,聖書文書を配布し,関心がある人々を訪問しました。現在長老となっているラミレス兄弟にとって,35年ほど前のそのころのことは今でも大変懐かしい思い出となっています。

マーガリート・ストーバーは,少年院でくつ作りを教えていたホアキン・サルミエントを見いだしました。ホアキンは早速集会に出席しはじめました。初めて出席した集会で,次の日曜日に野外奉仕の取決めがあることを聞き,一緒に行く用意をしてやって来ました。その後,ホアキンとストーン兄弟は何度も一緒に野外奉仕をしました。

支部の設立

1946年4月30日,レイモンド・メイプルズと妻のデラおよびウィノナ・ファースとエブリン・ヒルは外国で奉仕を始めるためエルサルバドルに着きました。したがって,ストーン兄弟姉妹が到着してから1年余りのちには,エルサルバドルで働くギレアデ卒業生は10人になりました。バージャー兄弟姉妹は健康上の理由でエルサルバドルを離れたからです。1946年5月にエルサルバドルに支部が設立され,ロスコー・ストーン兄弟が最初の支部の僕として奉仕しました。その間にもそれら宣教者たちはノア兄弟とフランズ兄弟の訪問を心待ちにしていました。

二人の訪問の最高潮となったのは,「諸国民よ喜べ」と題するノア兄弟の講演でした。宣教者の家のパティオで開かれたその講演会には66名が出席しました。バプテスマを受けたのは4名でした。それで1946年の5月には24名の人がエホバへの賛美を歌いました。つまり「会」の伝道者が14名,宣教者が10名です。

サンタアナにおける宣教活動

1946年6月,リオ・マーンと妻のエステルがミルドレド・オールソンおよびエブリン・トレバートと共に到着しました。4人はエルサルバドルで2番目に大きな都市サンタアナに任命されました。サンタアナはエルサルバドル西部のコーヒー地帯の真ん中に位置しています。この都市は,サンサルバドル以外で宣教活動が発展した最初の土地となりました。最初の日に,宣教者の家としてふさわしい家が見付かりました。

文字の読める人があまりいなかったので,宣教者たちは片言のスペイン語で,「証言カード」に印刷された証言の言葉を読まねばならないことが度々ありました。その証言を聞いて,家の人が当惑した表情をすることは少なくありませんでした。文書は簡単に配布できましたが,スペイン語がよく分からないので聖書研究を司会することは困難でした。新しい宣教者に言葉を教えるためにウィルソン姉妹とストーバー姉妹がサンタアナに派遣され,その問題はやや緩和されました。伝道活動をねばり強く行なっていくうちに,宣教者たちは聖書の真理を渇望する人々を見いだしはじめました。

そうした人の一人にレオノル・エスコバルがいました。レオノルとの聖書研究が始まり,およそ4か月後にレオノルは野外奉仕に参加しはじめました。数年前,91歳だったこの婦人は毎週4件の聖書研究を司会し,伝道活動に毎月30時間を費やしていました。現在レオノルは100歳に近付いていますが,依然としてエホバを忠実に崇拝しています。レオノルは,野外奉仕に活発に携わったおかげで比較的健康に恵まれ,真理を学ぶ以前よりも丈夫になったと感じています。

バプテスト派だったロサ・アスセンシオという婦人は,宣教者たちがサンタアナで聖書関係の本を販売していると聞いて関心を示し,1冊求めたいと言いました。それから間もなく,友人の一人がロサの家へ「真理はあなたを自由にする」という本を持ったミルドレド・オールソンを連れて来ました。次の週にミルドレドはロサと研究を始めました。わずか4回の研究の後に,ロサはミルドレドに伴って野外奉仕をするよう招待されました。ロサは急速に進歩し,1947年6月6日にバプテスマを受けました。そして翌年にはサンタアナの最初の正規開拓者になりました。

サンタアナで伝道を開始してから2か月目には,新しい人々が宣教者と共に集会に出席しはじめていました。間もなく会衆が設立されました。1947年1月,エブリン・ヒルとパートナーのウィノナ・ファースがサンタアナの活動を助けるためサンサルバドルから派遣されました。同じ時に,ギレアデの第6期のクラスを卒業した3人,すなわちウォルター・ウィスマンと妻のアイオンおよびメアリー・テチャクが二人に代わってサンサルバドルに任命されました。

新しい宣教者の家

1947年初頭,サンサルバドル北12番通りの,百年記念公園の角にある家屋が支部事務所とサンサルバドルの宣教者の家のために新しく購入されました。その家には寝室が五つあり,それがパティオの三方を囲んでいました。もう一方は3㍍の壁になっていました。パティオにはマンゴー,レモン,ダイダイ,イチジクのほか,やしが二,三本生えていました。自分で木の実をもげるのはたいへん珍しい,楽しいことでした。

会衆の集会は寝室の外の廊下で開かれました。寝室の窓のカーテンを開けるために集会の日早く来た人が,化粧や身仕度をする宣教者と楽しくおしゃべりをするということは珍しくありませんでした。このようにプライバシーがないことに慣れるのは容易ではありませんでしたが,宣教者たちは少しずつ順応していきました。

その家の便利品の一つに,側面が焼いた粘土で出来ている手製の大きなかまどがありました。兄弟たちは生木をたくさん買って貯蔵し,たきぎとして使えるまでそれを乾燥させました。まきにする木の中に大きなクモその他の熱帯のこん虫がいて,それらがこっそり寝室に入り込み,くつや衣類の中に逃げ込むことが時折あったので,退屈するどころではありませんでした。そういうことはよく起きましたが,被害を受けたり大問題になったりすることはありませんでした。

間に合わせのこのかまどで料理をし湯を沸かすには,ちょっとしたこつが要りました。料理当番に当たった宣教者は朝5時ごろ起きて火をおこし,7時までには朝食と湯を用意します。ふろは,大きなセメントの水そうに湯を入れて使い,ひょうたんのひしゃくで湯を汲んで体にかけました。

一方,心温まる経験をしない日は一日としてありませんでした。それで最初に来た宣教者たちの心は喜びにあふれ,不便なこともあまり気にならなくなりました。そのころまかれた真理の種の多くは良いたよりの伝道者の仲間を生みだしました。それらの人たちは長年たった今日でもなお忠実にエホバに奉仕しています。

サンタアナでの反対

サンタアナでは1947年3月21日から23日に最初の巡回大会が開かれることになっていたので,その町に任命されたエブリン・ヒルとウィノナ・ファースはその準備の仕事に参加することができました。「平和をつくりだす人たちは幸いである」という公開講演には475人もの大勢の聴衆が集まりました。カトリックの司祭たちがエホバの証人の存在とその業に気付くようになったのはこの時です。

3月30日の日曜日に司祭たちはエホバの証人に反対するデモを行ない,町中にビラをまきました。ビラの一つにはこう書かれていました。

「サンタアナのみなさん,このサンタアナで悪魔の化身である証人たちの油断のならないわなから守ってくださるよう聖ミカエルに祈りましょう。用意周到な『アタラヤ』[ものみの塔]がエルサルバドルに住んで改宗者を探そうとやって来ました。アメリカ人と悪魔が手を結んでいることは自明の理です」。

その日,宣教者の家では週ごとの「ものみの塔」研究の小さな集まりが開かれていました。突然数人の少年が走って来たかと思うと,開いたドアから大きな石を投げ込みました。石はもう少しで数人の兄弟たちに当たるところでした。それから司祭たちの率いる行列がやって来ました。大勢の人がたいまつを持ち,崇敬をささげている像を持っている人々もいました。兄弟たちは急いでドアを閉めました。それから2時間の間宣教者の家には石が乱れ飛びました。石の当たる,機関銃さながらの音よりも大きく,「聖母マリアばんざい」,「エホバは死ぬべし」と歌う声が聞こえました。午後11時ごろ,兄弟たちは無事家路に就くことができました。

この事件のために,伝道活動のことが報道され,人々はエホバの証人のことをもっと知りたいと思うようになりました。司祭は人々に,エホバの証人を見たら「アタラヤ」と叫ぶように指示していたので,伝道者が行く先々でその到着が知らされました。また,エホバの証人と交わっている人々の子供たちには,公立の学校に入っていても,教会に行くようにという圧力が掛けられました。

証人たちのねばり強さはサンタアナの人々に深い感銘を与えました。人々は証人たちが文書を売り尽くしたらほかの土地へ移って行くものと思っていたので,出版物の用い方を人々に教えるため,関心を示した人を再び訪問するのを見て非常に驚きました。真理を受け入れた人の中には,非常に活発な伝道者となった3人の盲人がいました。

4月6日の日曜日は記念式でした。その祝いに104名が集まりました。1947奉仕年度の末にサンタアナには48人の王国伝道者がいました。1946年6月に宣教者が到着してから1年少しの間にすばらしい増加がみられたわけです。

伝道活動は前進する

1947年8月,ロスコー・ストーンは,サンミゲルへ行ってそこで伝道活動を開始するようにとの要請を受けました。マーン兄弟は支部の僕になるべくサンタアナからサンサルバドルへ移るよう指示されました。その後間もなくストーン兄弟姉妹はアメリカへ帰りました。それで伝道活動をサンミゲルにまで拡大することは将来に待たなければなりませんでした。

しかし伝道活動は前進し続けました。例えば,ホアキン・サルミエントは,まだバプテスマを受けていなかったにもかかわらず,公開講演を行なう点で率先していました。初めて講演する前の晩,ホアキンは子供の産まれるのを待ちながら病院で過ごしました。午前6時に息子のホアキン2世が産まれると父親のホアキンは家に帰って朝食を取り,それから野外奉仕に出掛け,再訪問をして,午後の自分の話に人々を招待しました。こうして午後4時には,「世界平和 ― だれがもたらすか」という主題の講演に40人の聴衆が集まりました。1947年に生まれたその子供は今では長老となっており,サンサルバドルの一つの会衆で立派な講演者として奉仕しています。

帰る宣教者と来る宣教者

健康を損ない,エルサルバドルを去らなければならなくなった宣教者は少なくありません。1948年の終わりごろまでに,宣教者の数は前年奉仕していた17名から5名に減りました。欠員を補う一助として,ギレアデの卒業生でグアテマラで奉仕していたチャールズ・ビードルが支部の僕としてエルサルバドルに派遣されました。

ビードル兄弟のスケジュールはぎっしり詰まっていました。木曜日にサンサルバドルで奉仕会を司会し,金曜日には,サンタアナへ行ってそこの奉仕会を司会しました。このスケジュールはしばらくの間毎週続きました。こうして,ビードル兄弟は,支部の僕を務める傍ら,サンサルバドルとサンタアナ会衆の僕として働き,サンサルバドルの宣教者の家の僕としても奉仕しました。

1948年11月,シャーロット・ボーウィンとジュリア・クログストンが到着し,サンサルバドルのサンハシント地区に任命されました。この二人は,テキサスとメキシコシティーのスペイン語を話す区域で奉仕したことがあったので,大いに感謝されました。二人が来て間もなく,12月の革命が起こりました。少し前まで店は開き,普通どおり営業されていたのに,一瞬のうちに営業が完全に停止してしまいました。人々はすべてどこかへ急いでゆくように見えました。カスタニェダ・カストロ大統領の政権はクーデターによって倒されました。

ラジオ放送を利用する

1949年1月に,ラジオを使って王国を伝道することが始められました。民間の技師がYSLLという自分の無線局を日曜日の夕方1時間だけエホバの証人に自由に使わせてくれたのです。ビードル兄弟は「柔和な者は地を受け継ぐ」という話をして“ものみの塔アワー”を始め,それから聴取者に“ロペス家族”を紹介しました。

その後数週間にわたって,一般の人々はロペスという架空の家族の放送にダイヤルを合わせ,その家族の家庭聖書研究で行なわれる王国の音信に関する討議を聴くことができました。聖書に関するその討議では,「真理はあなたを自由にする」,「神を真とすべし」,「これは永遠の生命を意味する」といった出版物や「ものみの塔」誌の記事が取り上げられました。その番組はロペス家の人々が最寄りの王国会館の集会に出席しはじめ,ついには真理を受け入れてバプテスマを受け,王国伝道に加わるようになるところまで行なわれました。聴取者から,ロペス家の生活について多くの感想が寄せられました。

支部の移転

1949年3月,宣教者の家と支部の施設を兼ねた新しい建物が手に入りました。カンポス通りとキューバ共和国街の角にある,五つの寝室のあるその近代的な鉄筋コンクリートの家に,トムソン,ウィルソン,テチャク,ストーバー,プライス,ボーウィン,クログストン姉妹たちがビードル兄弟と共に引っ越しました。集会は家の真ん中にあった屋根付きのパティオで開かれました。新しい宣教者の家の近所にマリア・ルイサ・レイアスという人が住んでいました。その人は宣教者の一人と聖書研究をするようになり,後に真理を受け入れました。

その同じ3月に,サンサルバドルで巡回大会が開かれました。最初の二日間のプログラムは百年記念公園のそばの古い宣教者の家のパティオで行なわれましたが,日曜日には,市立の学校の美しい建物が使用され,サンタアナからやって来た42名を含む210名の人々が公開講演を聴きました。4月にサンサルバドルで開かれた主の記念式には157名が集まりました。

サンタアナにおける発展

その年の7月に,サンタアナの兄弟たちはまたもやカトリックの僧職者たちの攻撃の的になりました。カトリック教会はエホバの証人の活動を直接攻撃する非常に辛らつな記事を発表しました。それには真っ赤なうそが書かれていました。1か月後,サンタアナの人々がそのことを知るまたとない機会が訪れました。その記事の一つには,エホバの証人になったのは3人の貧しい盲人だけであると述べられ,最後のところに平信徒に対して,「教会を去って地獄へ行くより英語を学ばない方が良いということを忘れないように」といった訳の分からない警告がなされていました。

1か月後の8月にサンタアナで2度目の巡回大会が開かれました。3人の盲人のほかに,大勢の人が,「唯一の光」という主題の公開講演を,ビラを配布したりプラカードを掲げたりして宣伝することに参加しました。その大会にサンサルバドルから50名ほどの人が来ました。サンタアナの王国会館で日曜日に行なわれた公開講演には合計188人が出席しました。近所の人々は3人の盲人にそれほど大勢の仲間がいることを,当然ながら不思議に思いました。

その後,同じ年に,ギレアデの第10期のクラスを卒業した4人の宣教者がエルサルバドルへ来ました。それはティルマン・ハンフリーと妻のジョセフィーヌおよびビビアン・アルと実の姉妹グローリア・バワートでした。4人は一時的にサンタアナで奉仕するように割り当てられました。

東部で伝道活動を開始する

1949年の終わりごろ,サンミゲルで伝道活動をすることが決まりました。やって来たばかりの4人の宣教者たちはサンミゲルへ派遣され,そこに新しい宣教者の家が設けられました。

サンミゲルはこの国で3番目に大きな都市であり,太平洋から50㌔内陸部に位置し,首都よりも高度が460㍍低く,木陰を作る木はほとんどありません。大体1年中猛暑が続いています。半年間続く乾期には,風が家の中に土やほこりをどっさり運んできます。しかし,4人の宣教者は精神力のある人たちで,そうした状況にもめげずにがんばりました。

サンミゲルは非常に宗教的な背景を持つ町です。“聖週間”の間,丸石を敷きつめた通りは,聖人の像に従いながらたいまつを持ち詠唱する人々の長い行列でいっぱいになります。まず最初に来るのはマリアとヨセフの像で,次に大きな木の十字架を運んでいるイエスの像が来ます。それから,凝った彫刻を施した木とガラスでできたひつぎに入れられたイエスの像が来ます。その像の手と足には血まみれになったくぎ付けの跡があります。

宣教者たちは,サンミゲルに住みついた最初の英国系の人たちの一部に数えられていました。兄弟がサンミゲルに来て公開講演をすると宣教者の家のパティオは満員になりました。間もなく30人から40人の人々が集会に来るようになりました。1951年5月6日,日曜日,ハンフリー兄弟が集会を閉じる祈りをしていると,アドービれんが造りの宣教者の家が大きく揺れました。ハンフリー兄弟が祈り終えて目を上げると,パティオには宣教者以外だれもいませんでした。他の人たちはいつもしているように通りへ逃げたのです。

次の日になって,フクアパ,チナメカ,ベルリンおよびサンティアゴデマリアといった町が大きな被害を受けたことが分かりました。フクアパでは人々が祈りをささげようとして教会に走り込みました。そして大勢が,教会の厚いアドービれんがと土べいの下敷きになり,壁が内側へ崩れ落ちた時のほこりで窒息死しました。大規模な救援活動が始まりました。被災者はサンミゲルの学校に収容されました。サンサルバドルに疎開した人たちもいました。

真理が病院へ伝わる

エホバの証人と聖書を学んでいた男の人が事故に遭い,サンサルバドルのロサレス病院に収容されました。その人はさっそく会う人ごとに真理を話しました。ほどなくして,結核病棟で同じ音信を伝道している人がいるといううわさを聞きました。そこで宣教者のグラディス・ウィルソンにそのことを話しました。ルイス・サリナスほか5人の関心ある人々を見いだしたのですから,グラディスの驚きようといったらありませんでした。その人たちは協会の出版物を熱心に読んでいました。そしてエホバの証人に会って非常に喜びました。

グラディスはその結核病棟で聖書研究を始め,その研究に50人ほどの人が出席しました。元の6人はすばらしく進歩し,結核病棟の他の200人の患者に証言しました。その中には亡くなった人もいますが,退院した人は別の土地で引き続きクリスチャンとして進歩しました。

1950年の国際大会

ノア兄弟は,1949年末に到着した4人を除く宣教者がすべてニューヨークのヤンキー野球場で開かれる国際大会に出席することを許可しました。そのことを聞いて宣教者たちは喜びました。エルサルバドルの兄弟たちは,宣教者たちが出掛けている間すべての集会の運営や宣教者の聖書研究の司会を喜んで引き受けました。そして,それらを立派に果たしました。その後何か月かの間,兄弟たちは,経験を語る時に,「宣教者が出掛けていて,わたしが研究の司会や僕の務めを代行していた時……」と前置きしてからエホバが自分の努力をどのように祝福してくださったかを語ったものです。帰って来た宣教者たちは,留守の間エルサルバドルの兄弟たち全員が協力し合っていたことに大変励まされました。

1950奉仕年度中,王国伝道者の数は,18名の宣教者を含め250名という新最高数に達しました。サンミゲルに会衆が設立されたので,エルサルバドルのエホバの民の会衆は四つになりました。

成功を収めた巡回大会

新しい奉仕年度の目標の一つは東部のサンミゲル会衆を強めることでした。そのための方法として,サンミゲルで大会を開くこと以上に良い方法があったでしょうか。それで,1950年11月にその暑い都市で巡回大会が開かれました。エホバのご意志を行なうために,水のバプテスマを受けて献身を公にした人が13名もいたので,関係者全員は非常に喜びました。

バプテスマが行なわれる様子は多くの人にとって珍しいものでした。魚が滑るように泳いでいる,雨で濁ったグランデ川の深い所に二人の宣教者が入って行きました。静粛で秩序正しいバプテスマが行なわれている間,頭上では野生のオオムの群れが甲高い声で鳴いていました。華やかで物々しい教会のバプテスマとは大きな相違です。

1951年4月にも巡回大会が開かれました。この度は西部で開かれました。会場は美しいサンタアナ国立劇場でした。200名を超すエホバの証人がサンタアナに続々と集まり,「この世の終わりを生き残る」と題する公開講演を聴くため1,300人が劇場へ詰め掛けました。

王国会館と新しい家

首都のサンサルバドルでも増加が見られていました。事実,同市の兄弟たちはもっと大きな集会場を必要としていました。しかし,会衆に適した会場だと大抵1か月120㌦から160㌦の経費が必要でした。それは兄弟たちの賄えない額でした。しかし,やがて商業地区の,第6通り南1番街の角にある大きな2階のホールを借りました。会衆が大きくなるにつれ,壁を取り除いて広くし,王国の音信にこたえ応じる人々を全員収容できるようにしました。1951年はエルサルバドルにおいて大きな増加が見られた年となりました。なぜなら七つの会衆に交わる王国伝道者の数が321名という最高数に達したからです。

王国会館が新しい場所に移転したのと同時に,宣教者の家と支部事務所も西第23通り北1番街に移りました。この家は,広い事務所,食堂,台所,配ぜん室,小さな居間のほかに快適な寝室が5部屋ありました。浴室も三つ付いていました。この時,初めて宣教者に近代設備つまり洗濯機が備えられました。その洗濯機は宣教者の一人が研究生からわずか10㌦で購入したものです。宣教者たちは皆,シーツ類が真っ白になったので喜びました。また小さな洗濯板を片付けることができて喜びました。

古い木製の冷蔵庫はまだ使われていました。その日の料理当番に当たった宣教者は,氷屋を捕まえて50ポンド(約23㌔)の氷を毎日買うため朝5時に起きなければなりませんでした。しかしやがてその冷蔵庫も処分され,宣教者たちが購入した電気冷蔵庫が代わりに据えられました。こうして,現代の便利品は宣教者の家に徐々に備え付けられるようになりました。

問題を正す

1952奉仕年度はサンサルバドルで行なわれた巡回大会をもって始まりました。フォリエス劇場におけるその時の公開講演には640名が出席しました。組織は伝道者数の面で拡大していましたが,問題を持っていました。それは何だったでしょうか。

T・H・ジーベンリスト兄弟は1952年1月,ものみの塔協会の特別な代表者としてエルサルバドルを訪問しました。同兄弟は,状況を調べて問題をいち早く察知しました。正式な結婚手続きを取らず同棲していながら,王国伝道者として認められていた男女が幾組もあったのです。それは聖霊を憂えさせることでした。

それでジーベンリスト兄弟はサンサルバドル,チャルチュワパ,サンミゲルにおいて行なった講演で結婚を正式なものとする必要性を強調しました。この間の事情について,「1953エホバの証人の年鑑」のエルサルバドルの報告はこう述べています。

「私たちは本当にうかつでした。……伝道者が減ることを恐れて,組織の質を犠牲にしていたのです。しかし1952年2月1日付で,聖書的に正しい生活をしていない人はすべて,その生活を正すまでエホバの証人とみなされなくなりました。誠実な気持ちで身を転じてそれまでの歩みを変える人々は排斥されず,問題を是正する援助を受けました。事情が極めて複雑なため頭を絞らねばならないこともありました。2月のエルサルバドルの報告によると伝道者数は前回の最高数より100名減少していました。しかし私たちは問題を徹底的に正すことを決意していました。……

「3月,4月,5月と過ぎていき,私たちは皆ずっとそう快な気分を味わっていました。組織全体に健全で清潔な雰囲気がありました。古くからいた“寄生虫のような人々”はすべて取り除かれました。善良な伝道者たちは自分を正し,私たちは伝道活動に対してエホバの霊と祝福があることを実感することができました。私たちは以前と同様熱心に働きました。しかも今や,それに対する報いと言うべきものを見ることができました。その結果を膚で感じることができたのです。……

「確かに伝道者数は減少していましたが,奉仕時間の合計は減少するどころか増加していました。伝道者たちはすばらしい働きをしました。こつこつと伝道し,エルサルバドルの歴史上かつてないほど多くの再訪問を行ない,聖書研究を司会しました。私たちは,組織から離れていった人々を必要な人たちだと考えていましたが,全く必要としてはいなかったのです。大切なのはエホバへの献身であって,業への献身ではないということをそれまで認識していませんでした」。

結婚関係を正式なものにする

その新たになされた決定の影響を受けた人の一人に,サンタアナでエルサルバドル人として初めて開拓者になったロサ・アスセンシオがいました。ロサは,国立陸軍交響楽団に所属する演奏家でありバプテスマを受けたエホバの証人でもあったビルヒリオ・モンテロと同棲関係にありました。二人はどうしたでしょうか。

ロサは,「私たちは,よくないことをしているということが分かっていました。だれかから言われるのを待っていただけなのです」と語りました。

それで二人はすぐその関係を改め,聖書の要求にかなった生活をしはじめました。ビルヒリオが以前の妻と離婚し,ロサと結婚するために必要な証書を入手するまでに,4年という歳月が掛かりました。二人はついに正式に結婚し,エホバへの献身の象徴として,再浸礼を受けました。その後ビルヒリオはサンサルバドルの会衆の監督となってエホバの祝福を受け,しばらく巡回の僕として奉仕しました。その二人は死ぬまで,エルサルバドルの兄弟たちから非常に愛され感謝されました。

クリスチャンの奉仕をするために生活を正すということは,多くの場合,口で言うほどやさしくはありませんでした。しかし,多くの人はその聖書的な要求にかなうために,必要とあらばどんな処置でも講じました。こうして,結婚の合法化運動は勢いを増し,市役所の役人は,宣教者が,子供を連れた夫婦を次から次へと連れて来ては結婚の正当な手続きをさせてゆくことに深い感銘を受けました。

サンサルバドルの市長はある時メアリー・テチャクに,「あなたが人々を教えてわたしの所に連れて来さえすれば,わたしは結婚させます」と言いました。宣教者たちは正にその通りのことを行ないました。父親が結婚することを聞いたある幼い男の子は,「お父さんはお母さんと結婚するんでしょう?」と言いました。

戸別に伝道活動をしていたある日,メアリー・テチャクはコロニアララビダで若い主婦と会い,聖書研究を取り決めました。やがてその婦人と連れ合いのラモン・アルゲタは熱心に研究するようになり,集会に定期的にやって来ました。メアリーから二人は結婚しているかどうか尋ねられると,ラモンは,「いいえ,わたしたちはアダムとエバのようにただ一緒に住んでいるだけで,正式には結婚していません」と答えました。

それで,メアリーは,アダムとエバの場合エホバが二人を結婚させたことを話しました。それを聞いて二人は自分たちも正式に結婚したいと考えました。その手続きを取る手始めとして,ラモンと相手の女性およびその女性との間にできた4人の子供の出生証明書を調えることになりましたが,ラモンの出生証明書が見付かりませんでした。それで法医学の専門家の所に行って公式の年齢を定めてもらわなければなりませんでした。その医師はメアリーを見て,二人がメアリーとどんな関係にあるか尋ねました。「わたしのきょうだいです」とメアリーが言うと,医師は感心したように頭を振って,「あなたがたの宗教には確かに兄弟愛がありますね」と言いました。

「1953年鑑」は,人々が結婚関係を正式なものとするのを助けるそのような努力について次のように述べました。「エホバの証人の高い道徳規準は至る所で評判になっています。それは人々に反発を感じさせるどころか人々を引き付けはじめています。この世で責任能力のある人はわたしたちに目を留めて称賛しています」。

戸別の伝道活動で聖書を使う

ジーベンリスト兄弟はその訪問中,戸口で家の人にプラスティックのカバーをした証言カードを渡さないで,聖書そのものから二,三の聖句を読む方法を実演してみせることもしました。宣教者たちはジーベンリスト兄弟がサンミゲルを訪問した時に初めてその方法を使いました。多くの人が,満足できたという感想を述べました。例えばある人は,「文書を配布できなくても,人々を本当に教えたような感じがする」と言いました。間もなく,エルサルバドルの伝道者はすべて,この方法を用いて奉仕することを教えられました。

巡回大会は楽しい時

組織が小さかった時,兄弟たちは三日間にわたる巡回大会を本当に心待ちにしていました。とりわけ宣教者たちにとって,巡回大会は仲間と親しく交わる時でした。1952年5月にサンミゲルで開かれた大会の場合もそうでした。

1日の催しが済むと,22人の宣教者たちはサンミゲルの宣教者の家に続々と集まり,寝台やハンモックなど,空いている所ならどこででも寝ました。換気のために,パティオに通じるドアは開け放たれました。昼間の活動で活気付いていた宣教者たちは,寝る前に野外奉仕での経験を話したり,プログラムで良かった点を語ったり,台所やその他の所で起きた事柄などについて語り合ったりしました。愉快な冗談がたくさん飛び出し,爆笑が起こり,疲れた人たちの中から静かにして欲しいという声が掛かるほどでした。また,大会が終わった後宣教者全員は一緒に映画に行ったり食事に出掛けたりしたものです。宣教者たちの間には本当の家族のような親しさがありました。

サンミゲル大会の最終日国立劇場で行なわれた「世界の危機を生き残るのはどの宗教か」と題する公開講演に800名もの人が集まりました。それは心を躍らせるものでした。バプテスマも大会の際立った催しの一つでした。バプテスマを受けた41人の中には,結婚を正式なものとしたばかりのラモン・アルゲタもいました。ラモンはバプテスマを受けに行く途中たばこをすぱすぱ吸ったことを今でも覚えています。やはりたばこを吸っていたもう一人のバプテスマ希望者はラモンに,「たばこを吸うのはこれが最後ですね」と言いました。ラモンは二度と再びたばこを吸いませんでした。

1年後ラモンの妻フリヤもバプテスマを受けました。後になってラモンとフリヤの二人の子供は全時間奉仕に何年も携わりました。息子のビクトル・ワレンは,特別開拓者や巡回監督としての奉仕に携わった後,エルサルバドル人として初めて支部の奉仕者になりました。

その次の巡回大会は1952年11月サンタアナで開かれる予定になっていました。ところが,エルサルバドル政府は同国が包囲状態にあると発表し,市民の権利はすべて60日間認められませんでした。共産主義者が政府を支配する陰謀を企てたということでした。国立劇場の支配人が警察に検挙されたので,兄弟たちはその劇場を使用できなくなりました。

しかし兄弟たちはあきらめず,別の大会会場を懸命に探しました。申し込んだ三つの会場は,会館の持ち主が恐れたために,次々と解約になりました。大会1週間前になって,政府が禁令を解除したので,市民の権利はすべて回復しました。こうして,日曜日には700名の人が国立劇場に集まり公開講演を聴きました。その日の後刻,19名の人がエホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けました。

新しい人が引き続き入って来る

そのころ真理にこたえ応じた人の中にマウラ・フロレスがいました。マウラはエホバの証人の間に見られる一致に深い感銘を受けました。それは自分が属していたアドベンティスト派には見られないものでした。マウラは9歳の息子を連れて集会に定期的に出席しはじめました。後にその息子マリオは長年の間特別開拓奉仕に携わり,さらにはギレアデ学校に行きました。その後数年の間エルサルバドルで巡回監督として奉仕し,現在妻と一緒にサンミゲルの宣教者の家にいます。

それから,フェデリコ・ベル・シドがいました。フェデリコは働き口を見付けるためにテフテペケ村からサンサルバドルにやって来ました。そしてエルネスト・ポルティリョに会いました。大聖堂の再建のことを話している時,フェデリコはエルネストが教会を去ったのは残念なことだと言いました。エルネストはフェデリコに1冊の「ものみの塔」誌を与えました。

次の日曜日二人はもう一度会いました。フェデリコは読んだ事柄に深い感銘を受け,家庭聖書研究をして欲しいとエルネストに頼みました。フェデリコはテフテペケの家族のもとへ帰った時,聖書研究に対する関心を家族全員に持たせることができました。間もなくフェデリコと家族の他の成員5名がバプテスマを受けました。これまで何年もの間,フェデリコは兄弟たちから愛され尊敬されてきました。そして現在長老として奉仕しています。

1950年代の初めに,アンヘル・モンタルボという演奏家が,特別開拓者の証言を聞いて関心を示しました。アンヘルは非常に強い関心を持ち,生計の唯一の手段であるギターを売って聖書を買いました。アンヘルはよく進歩し,1953年にバプテスマを受けました。そして長年の間特別開拓者をし,現在ソヤパンゴオリエンテ会衆の長老として奉仕しています。

宣教者の顔触れが変わる

病気や他の理由で,1953年のわずかな期間に7人の宣教者がエルサルバドルを離れました。それらの宣教者たちは懐かしい思い出や忘れることのできない印象を携えていきました。8年ほど前の1945年に来たマーガリート・ストーバーは,特に,墓に向かう葬式の行列を忘れることができません。遺族は,ひつぎを肩に担いで運ぶ人々の後を歩きます。

小さな白いひつぎの後に遺族が続くことも珍しくありませんでした。ある日マーガリートとメアリー・テチャクは出掛けて行き,友達の赤ん坊のためにそうしたひつぎを買いました。そして赤ん坊の死体をその中に入れ,墓場まで運ぶのを手伝いました。宣教者のほとんどがそのような経験をしました。

1953年3月,ジェイン・カンベルが代わりの宣教者としてエルサルバドルにやって来ました。彼女は特に一人の兄弟からの歓迎を受けました。ジェインは支部の僕だったチャールズ・ビードルと結婚するためにグアテマラから来たのです。そして,サンハシント会衆と交わって奉仕するよう任命されました。

間もなく宣教者たちは再び,ニューヨークで開かれる国際大会に出席することを計画するようになりました。それで今度もエルサルバドルの兄弟たちが宣教者の留守中,組織の活動の世話をすることになりました。サンミゲルにいた宣教者の一人ルース・プライスはこう語っています。「私は大会へ行く資金がありませんでした。そんなある日,私はサンサルバドルの宣教者たちから1通の手紙を受け取りました。その手紙には,私がマイアミからニューヨークへ行く手だてを講じることができるなら,マイアミまでの飛行機の切符を買ってあげようというものでした。私はもちろんその申し出を受け入れ,宣教者の中にそのような暖かな友達がいることをエホバに感謝しました」。こうして,1953年の夏に開かれた2度目のヤンキー野球場での大会に宣教者全員が出席できるようになりました。

未割当ての区域での活動

1953年に,サンサルバドルの伝道者たちは32㌔ほど離れたサンフアンタルパという小さな町を訪問するようになりました。そこまでの道のりの大部分はバスで行き,最後の行程は歩きました。それは本当に楽しい旅行でした。

その時兄弟たちは,あまりの暑さに小さな川で泳ぐことにしました。最初それは名案に思えたのですが,水着に着替えていた女性たちがハリアリに刺されはじめました。水にたどり着いてアリから守られた時にはほっとしました。

その時川エビを捕まえました。みんなが奉仕をしている間に,一人の兄弟の親せきでサンフアンタルパに住む人が,捕ったエビを料理してくれました。宣教者たちは他の兄弟たちがエビを丸ごと食べるのを見守りました。頭や目や触角が付いたままの大きなエビが特に自分のために料理されていたので,宣教者の一人の姉妹はびっくりしました。その特別な贈り物は堅い殻ごと丸のまま食べる以外にありません。しかし,それほど苦労せずに何とかそれをやってのけることができました。

そのようにサンフアンタルパに訪問がなされた結果,たくさんの聖書研究が始まり,数人の人が真理を受け入れました。その中に,ラウル・モラレスという小学生がいました。ラウルの両親は集会へ行かせまいとしてたくさんの仕事を言い付けましたがラウルはそれを手早く片付けて集会へ行きました。そしてついには野外奉仕に出るようになり,やがて特別開拓者となって巡回監督にもなりました。

サンサルバドルの兄弟たちの訪問を受けた辺ぴな場所としてもう一つサントドミンゴがあります。そこの数家族は司祭を追い出していました。後にその町の町長が真理を学び,バプテスマを受け,主宰監督として奉仕しました。そのほか,当時兄弟たちが訪問した町で今では会衆のできている町は,首都の南部の丘陵地にあるケサルテペケ,サンセバスティアン,ロスプラネスデレンデロスです。その地域は大変涼しいので,大金持ちの実業家が大勢首都からここへ来て家を建てます。現在ここには美しい王国会館と,活発な王国伝道者の会衆があります。

1953年,エルサルバドルにおける主の記念式には515人が出席し,会衆の数は10に増加していました。

王国の音信に引き付けられた若者

ロドリゴ・ゲバラという人は,サンサルバドルの街角で宣教者から「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を定期的に求めるようになりました。ロドリゴは息子のホルヘに良い教育を施したいと考え,ホルヘのためになるものには敏感でした。12歳の息子のために「神を真とすべし」と「真理はあなたを自由にする」という書籍を注文しました。やがてロドリゴはホルヘを王国会館へ連れて行き,兄弟たちに息子を託しました。ホルヘは定期的に集会に出席するようになり,神権学校に入りました。

ホルヘは王国の音信に引き付けられ,次の年バプテスマを受けました。神権学校で学んでいる間に,ホルヘは幾度かつまずきました。ある晩,ホルヘは割当てを果たした後学校の僕からやや厳しい助言を受けて腹を立てました。がっかりしたホルヘは聖書を床に投げ付け,王国会館には二度と再び行くまいと考えました。しかし,次の週には,王国会館に行って兄弟に許しを請うことにしました。ホルヘが王国会館に入って行くと,学校の僕はホルヘの方に急いでやって来て許しを請いました。神権家族との親しい交わりは,ホルヘにとって,生活の寂しさを忘れさせるものでした。ホルヘの父親は食費などの生活費は与えてくれましたが,いつも忙しく,母親や他の家族は遠くに住んでいたからです。

フランズ兄弟の訪問

1953年秋のビッグニュースはF・W・フランズ兄弟の訪問でした。フランズ兄弟は,10月13日から18日にかけてエルサルバドルで開かれた「新世社会大会」の主要な講演者でした。兄弟たちは,数か月前ニューヨークのヤンキー野球場で開かれた大規模な国際大会でフランズ兄弟が主要な話を行なうのを聴いて心を躍らせました。「ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世」という主題の公開講演を聴くため,サンサルバドルの国立劇場に1225名が集まりました。それは関係者一同にとって大きな喜びでした。その講演はサンサルバドルの放送局の一つを通じて実況中継されました。

協会初の映画

1954年で特筆すべき事柄の一つは,「躍進する新世社会」という映画が全国で上映されたことでした。その映画は確かにエホバの組織に対する兄弟たちの認識を高めました。人口3,000人ほどのアカフトラという港町では,拡声器で1時間宣伝ができた上,劇場を無料で借りることができました。その結果400人が集まり,多くの人が真理に引き寄せられました。ある家族は,エホバの証人になりたいのでだれかに訪問してもらいたいと言いました。現在,アカフトラには大きな会衆があります。エルサルバドルの各地で映画を上映した後このような経験をすることは珍しくありませんでした。

支部の新しい建物

1954年12月,ノア兄弟は再びエルサルバドルを訪れました。その時には,北3番街とサンカルロス通りにある支部の新しい建物が建設中でした。この支部の建物が建てられるようになったいきさつは興味深いものです。

1949年,ドロシー・トムソンはパウリナ・デ・ペルラという婦人を訪問しました。この人は,大聖堂の再建についてカトリック教会に反対した有名な技師の妻でした。ドロシーは,幼い息子バルタサル2世を風呂に入れていたパウリナに証言をしました。パウリナは関心を示しました。しかし,近所ではありましたが別の所へ引っ越したのでドロシーとの話合いはできなくなりました。

その後パウリナは,シャーロット・ボーウィンと会い,聖書研究に応じました。夫のバルタサルはその当時,オスカル・オソリオ内閣の次官でした。バルタサルは英語の力をもっと付けたいと思っていたので,英語の個人教授をしてくれるよう妻を通してシャーロットに頼みました。シャーロットはバルタサルに英語を教えながら,聖書や真の宗教について話しました。やがてバルタサルは深い関心を持つようになり,聖書をスペイン語で教えてほしいとシャーロットに頼みました。

オソリオ内閣とカトリック教会との間には問題があったため,バルタサルはプロテスタント信者をカトリック教徒に対抗させてはどうかと提言しました。そして,プロテスタントを援助するよう大統領に勧めました。大統領はそれに同意しましたが,どこから事を進めていってよいか分かりませんでした。バルタサルはチャールズ・ビードルとシャーロットを招いてオソリオ大統領と話し合うようにさせました。その会見中,ビードル兄弟とボーウィン姉妹は神の王国について大統領に十分証言することができました。大統領は聞いた事柄に大変好感を持ち,エホバの証人をぜひ援助したいと考えました。

バルタサルは,まだ完全に真理を受け入れていた訳ではありませんが,エホバの証人の支部事務所の設計と工事を,無料で行ないたいと言いました。その計画は,承認を得るためブルックリンのものみの塔協会に提出されました。

こうして1954年12月,ノア兄弟は1階の壁と鉄筋に囲まれた工事現場に立ち,短い話を行ないました。ビードル兄弟がそれをスペイン語に通訳しました。ノア兄弟は,その建物がエルサルバドルの王国伝道活動の適切な世話をするには手狭になる時がすぐに来るだろうと語りました。その建物には,六つの寝室,食堂,応接間,台所,配ぜん室,洗濯室,事務所,倉庫,および300名ほどを収容できる王国会館があり,テラスには寝室を増やすゆとりがありましたから,ノア兄弟のそのような言葉は,聴衆にはやや無理なことのように思えました。

エルサルバドルは異なった様相を帯びる

オソリオ大統領の任期中,エルサルバドルは目覚ましい発展を示しはじめました。労働者に社会保障を得させる新しい労働法が設けられました。また最低賃金法も実施されました。海岸沿いに新しい高速道路が建設され,アカフトラのような港に行くのが容易になり,また旅行者たちが息をのむようなすばらしいながめを楽しむことができるようになりました。銀行法の改正により,投資したり,事業を新しく始めたりすることがずっと楽になりました。その結果,中産階級が一層多く生み出され,多くの人の生活水準が向上しました。

オソリオ大統領は1950年に就任した当時,大所帯を抱えた貧しい人々が一間に住むことを余儀なくされていた多くの居住地を取り除くことを目標にしていました。その目標は完全には達成されませんでしたが,低所得者層の人々が政府から買ったり借りたりすることのできる一戸建ての家や4階建てのアパートを建設する組織的な運動が,都市住宅協会によって始められました。

ですから,1950年代にエルサルバドルは,最初の宣教者がやって来た当時から大きく変わりました。自動車が増加の一途をたどりはじめました。「緑の龍」と呼ばれた古いバスの多くは,トラックの車体に木のボディーと手製の座席を付けたものでしたが,バスの新車がそれに取って代わりました。商店のウインドーには冷やかし客の目を引く様々な商品が陳列され,新しい工場があちこちにできました。

霊的な事柄に対する認識

ノア兄弟の訪問中,労働者連盟会館で大会が開かれました。「人類の危機を救う神の愛」という主題の公開講演は広く宣伝されました。サンフアンタルパのモラレス家の人々はその大会のことを知り,若いラウルは出席することに決めました。朝の3時に起き,大会に出席するためにサンサルバドルまで32㌔余り歩き,571人の人々と共に公開講演を聴きました。家に帰ったラウルは,霊的な事柄を追い求め続けることを以前にも増して決意していました。

宣教者の活動に調整が施される

1954年12月,ポール・ココニスと妻のミュリアルおよびダニエル・エルダーと妻のジョーンという二組の夫婦が新しい宣教者として到着しました。ポールとミュリアルは早速サンミゲルの宣教者の家に割り当てられました。しかし,それから間もなく,サンミゲルの宣教者の家はサンティアゴデマリアに移されるという連絡が入りました。ほかの地区でも伝道活動を開始することができるように宣教者の家が移されたのです。

宣教者たちはサンティアゴデマリアだけでなく,周囲の村々でも伝道しました。朝6時のバスに乗り,大抵夜の最終バスに乗って家に帰りました。「ものみの塔」研究はチナメカで日曜日の午後行なわれ,宣教者たちは夜帰宅するとサンティアゴデマリアで再び「ものみの塔」研究を司会したものです。週の別の日には,ウスルタンやベルリン,アレグリアで伝道が行なわれました。それらの地域で関心が大いに高まりました。宣教者の家が後にそこから移された時には,引き続き関心を育てるためその幾つかの町に特別開拓者が派遣されました。

また,1955年の初めには,サンタアナの宣教者の家が廃止され,ソンソナテに宣教者の家が設けられました。ですからこの当時,アウアチャパン,サンティアゴデマリア,ソンソナテ,そして言うまでもなくサンサルバドルの宣教者の家を根拠地として働く強力な宣教者のグループがありました。

家長が治める家族

1951年に戻りますが,サンティアゴテクサクアンゴスに住むフアン・ペニャという若者が聖書を熱心に調べはじめました。フアンは1952年にバプテスマを受け,その後しばらくして開拓奉仕を始めました。やがてフアンはサンティアゴテクサクアンゴスの会衆の僕に任命されました。その一つの会衆で,フアンが研究した人のうち20名がバプテスマを受けました。フアンの家族だけでかなり大きな一つの会衆ができていました。フアンの祖父アブラアム・ペニャはもっとふさわしい王国会館を備えるためコンクリートの家を新築しました。

ペニャ家の人々のこのような行動は一時の思いつき,感情的なものと考えるべきではありません。ペニャ家はそれまでもずっと信仰心が厚く,その家は教会の像を収める倉庫に使われていました。アブラアムの妻ルガルダは低いテーブルに20ばかりの像を並べ,毎晩1時間,像の前で礼拝したりぬかずいたりしていました。ところが,真理の種が植えられると,アブラアムは,家族の責任を持つ頭たちがカトリック教会から脱退するという決定に従えるかどうかを決めるため,とうもろこし畑で家族会議を開きました。頭たちはその決定に従い,それを行動に移しました。

アブラアムはステーション・ワゴンの新車を買いました。息子たちはそれに乗って他の幾つかの町へ出掛けて行きました。それは慰安旅行などではありませんでした。それらの町に王国の良いたよりを携えて行くのがその目的でした。時には,家族が二日か三日滞在することもありました。ビードル兄弟は大抵その旅行に同行し,夜に公開講演をしたものです。ソンソナテでそのようにして講演が行なわれ,関心のある人が大勢見いだされました。1955年にソンソナテに宣教者の家が設けられた時,それら関心を示した人々は宣教者の世話を受けました。

迫害は失敗し,羊は集められた

宣教者たちがソンソナテで活動を開始するや否や,イタリア系のアメリカ人である司祭たちが宣教者たちに対して憎しみのこもった反対運動を始めました。そのグループの指導者は,エホバの証人に批判的な世論をあおり立てようとして,自分が担当する15分のラジオ番組で毎晩エホバの証人をこき下ろしました。それらの司祭たちは人々には寛容な態度を取ってその多くを自分たちの味方にしましたが,彼らの最も親しい人々の中には,証人たちを「ほうっておく」ようにと言う人もいました。

しかし,司祭たちはそれに耳を貸さず,エホバの証人を借家から追い出さないという理由で,宣教者の家の持ち主を破門することまでしました。家主は,ソンソナテの非常に著名な人で,脅しにはそうやすやすとは乗りませんでした。カトリック教会と教会を代表する司祭たちに対しては以前からあまり好感を持っていませんでしたが,今やそれが決定的なものとなりました。その人の妻も,破門の宣告にうろたえる様子はありませんでした。司祭たちはそのような行動を取ったために人々の信望を大いに失い,迫害は失敗に終わりました。宣教者は引き続き忠実に命を得させる音信を人々に伝え続け,今日この町にはエホバの証人の活発な会衆があります。

アウアチャパンでも羊のような人々が現われていました。ある日,一人の中学生がその町の王国会館の外に座って集会の模様に耳を傾けていました。その子供はペドロ・ゲレロと言う名前で,体重が40㌔もなさそうな小柄な子供でした。何か用があるのか尋ねたところ,ペドロはエホバの証人を探しているところだと答えました。その時からペドロは集会に定期的に出席しはじめ,ティルマン・ハンフリーに勧められて家庭聖書研究をするようになりました。そして1958年にバプテスマを受け,巡回の僕として奉仕することを含め組織の数々の特権を受け続けていきました。

喫煙の習慣を克服する

羊のような性質を持った人々の多くには,喫煙の習慣がありました。アウアチャパンの宣教者の家のすじ向かいに住んでいたダニエル・サルタニャという年配の男性もその一人でした。ダニエルは立て続けにたばこを吸う人で,たばこがやめられないことを苦にしていました。ダニエルの聖書研究を司会していた宣教者のマリー・ノサルは聖書研究に注意を集中するようにとダニエルに言いました。のちに,ダニエルは喫煙の習慣をどうすべきか決心がつきました。

ある晩,ダニエルはマリーに良い知らせを持って来ました。ついにたばこをやめたのです。ダニエルは1956年にバプテスマを受けました。これまで15年の間ダニエルはずっと開拓奉仕をして来ました。そして本当に立派な手本を示しています。老齢で,病弱の身でありながら,生活の中で王国の関心事を第一にしているのです。

同じころ,フアナ・エスコバルとエルミニア・エスコバルという二人の実の姉妹がマリー・ノサルによって見いだされました。この二人は,心霊術と深いかかわりを持っていた上,やはり,立て続けにたばこを吸っていました。二人のうち一方は,吸っているたばこをのみ終わったらすぐ新しいたばこに火を付けられるよう,耳にたばこをはさんでいました。二人はまた,家の壁の至る所に,自分たちが非常に重んじている像を飾っていました。しかし,やがて,その二人は像を取りはずし,喫煙をすっかりやめ,心霊術からも離れました。巡回大会や地域大会でこの二人が台所や皿洗いの部門で忠実に働いている姿をしばしば見かけるようになりました。

新しい支部が献堂される

1955年6月,サンサルバドルに新しい支部の建物が完成しました。長時間にわたる熱心な働きの末,その快適な住まいと事務所と王国会館が完成しました。ジェイン・ビードルは次のように書いています。

「私たちは支部の建設工事現場からほんの二,三区画離れた所に住んでいました。主人とバルタサルがテラスにタールを塗り,配線工事一切をしていた時,私たちは二人によく昼食を持って行きました。二人は仕事を終わらせるために1日14時間働くこともありました。いすを作っている時には,カーティス・スメッドスタッドも来ていました。3人は,いすの鉄の部分を作ってそれを溶接するのに本当によく働きました。いすを500脚作ったのです。私たち女性の宣教者は,建物の清掃をしたり,カーテンを作ったりして献堂式の用意万端を整えるために活発に働きました」。

グアテマラからジョン・パーカー兄弟が来て献堂式の話をしました。その時バルタサル・ペルラが「エホバ神がこの建物を建てるのを可能にしてくださった」と言ってみんなを驚かせました。バルタサルが,至高の権威者としてエホバを信じていることを認めたのはそれが初めてでした。大勢の人がやって来てその建物を見学し,訪問者すべてに振る舞われたアイスクリームをごちそうになりました。次の日,パーカー兄弟は,「この世代の恐れを克服する」と題する公開講演を行ないました。

バルタサルがエホバの証人になる

支部が完成して間もなく,バルタサル・ペルラはアメリカ政府の要請で合衆国へ渡りました。ニューヨークにいる時,バルタサルはカトリックの教理に関する通信教育の広告を目にしました。特に関心のあった聖書の主題,つまり王国についてカトリック教会が教えていることを知る機会になると考え,バルタサルはその全課程の受講料200㌦を払いました。教材として二箱分の書籍と小冊子があてがわれました。

バルタサルはホテルへ行くと,翌日から三日間続けて,その出版物と聖書を比較しました。そしてついに,カトリックは聖書の教えと一致していないという結論に達しました。仕事の関係上アメリカの各地へ行く機会があったので,バルタサルは可能な限りどこでも王国会館を探しました。

バルタサルはオハイオ州コロンバスでエホバに献身し,後日ニューヨークで行なわれたある大会で献身の象徴として水のバプテスマを受けました。バルタサルの話によれば,エホバの証人に引き付けられたのは,特定の教理というよりも,クリスチャンの行状でした。チャールズ・ビードルと妻のジェインのような幸せそうな夫婦に深い感銘を受けました。そして,子供たちも成長してそのような幸せな家庭生活を送ってほしいと願いました。1960年,カーティス・スメッドスタッドがエルサルバドルを去ると,バルタサルはサンサルバドルの都市の僕になりました。

二つ目の巡回区の設置

1955年10月,サンタアナ出身の若い開拓者サウル・デ・レオンは不忠実になったアントリン・カスティリョ・ペニャに替わって巡回の僕に任命されました。次いで,1956年1月,二つ目の巡回区が設けられ,スメッドスタッド兄弟が再び巡回の僕に任命されました。

協会の別の映画

1956年5月,クリシー・ウィルソンとフロレンス・エネボルドスンが宣教者の隊伍に加わりました。二人は「幸福な新しい世の社会」と題する協会の新しい映画を携えて来ました。外はまだ明るかったのですが,宣教者たちは早速,映画を見ようと廊下を暗くしました。ギレアデ学校第14期のクラスの卒業生だったカーティス・スメッドスタッドは,自動車を持っていたので,その映画をあちこちで上映し,幾百人もの人々から感謝されました。カーティスは,エルサルバドルの北部で得られた一つの経験をこう語っています。

「私たちは別の町へ行くのに私道を通らねばなりませんでした。地主たちは通行料金を取っていました。私たちは,地主の農場に自動車を置いて馬に乗って行かなければなりませんでした。帰りに料金を払うという取決めが設けられました。さて,道中,私たちは大勢の人に映画を見せることができました。

「私たちが農場に戻るまでにうわさが伝わっていて,地主たちは,私たちが映画を見せなければ通らせてくれませんでした。日中だったので,地主たちは急いで75名かそこらの働き人全員を集め,私たちみんなを小さな一つの部屋に押し込めて,部屋を暗くするために戸も窓も閉め切りました。そこが蒸しぶろのようになったことは想像していただけると思います。しかし,だれ一人帰る者はなく,だれもがたいへん興奮していました。私が通行料金を払おうとすると,農場主は自分たちの方こそあなたにお支払いしなければならないと言って通行料金を取ろうとしませんでした。私たちは文書をたくさん配布しました」。

新しい宣教者と古い宣教者

新しい宣教者たちの多くは,外国に移った時によく起こる文化ショックを引き続き経験していました。フロレンス・エネボルドスンとクリシー・ウィルソンはサンサルバドルに任命されました。フロレンスは次のように回顧しています。

「初めての集会中,2時間で理解できたのは,チャールズ・ビードル兄弟が結びの話の中で使った,『ものみの塔聖書冊子協会』という言葉だけでした。次の日曜日,私たちはエブリン・ヒルを交えたグループと一緒に野外奉仕に出掛けました。エブリンは土地の兄弟たちと私たちの通訳を忍耐強く務めてくれました。

「その朝私たちは特別に汚い『メゾン』[数世帯が住んでいる家]を伝道のために訪問しました。クリシーは大きなゴキブリを数匹見てやはりショックを受け,ほかの条件も重なったため気分が悪くなりました。一人の婦人が親切にも,コップ1杯に炭酸水を入れて出してくれました。しかし,クリシーは飲み水に気を付けるよう言われていたので,それを飲むことを辞退しました。それでクリシーと一緒に奉仕していたエルサルバドルの姉妹が,その婦人が気を悪くしないようにそれを飲みました。伝道者たちは親切にも,私たちが宣教者の家へ帰るのを見届けてくれました。私たちは道を知っていたのですが,スペイン語をあまり話せなかったので,道を知っていることを伝道者の人たちに分かってもらえませんでした」。

新しい宣教者が来ると,比較的古い宣教者が去っていくことがよくありました。結婚のために去っていくことも時にはありました。エルサルバドルで7年間奉仕していたシャーロット・ボーウィンは,1955年のヨーロッパの大会の後にアルバート・シュローダーと婚約しました。そして1956年の初めに,ニューヨークでの新しい割当てとして,王国農場で奉仕するようになりました。今日シュローダー兄弟は統治体の成員であり,シャーロットはシュローダー兄弟および22歳になる息子ユダ・ベンと共にブルックリンベテルで奉仕しています。

ラジオ放送をさらに活用する

同じ年,YSAX放送局は,エホバの証人が作る,「人々が考えている事柄」と題する番組を放送するようになりました。その放送は,カトリック教会がその放送局を購入するまでの3年間続き,そのあと放送されなくなりました。そのラジオ番組によって大勢の人が真理に引き寄せられました。

ソ連に抗議する

1956年の8月から9月にかけてサンサルバドルで開かれた巡回大会において,ソ連のエホバの証人の虐待に抗議する嘆願書が提出されました。ソ連の役人宛てのその嘆願書に500名ほどの人々が署名しました。嘆願書の写しはエルサルバドルの新聞社に送られました。幾つかの新聞は嘆願書の一部あるいは全部を掲載しました。また,それを放送した放送局も数局ありました。こうして,エルサルバドルのエホバの証人はソ連の兄弟たちに対する愛を示す機会を捕らえました。

裏目に出た妨害

1956年12月にアルメニアという村で開かれた巡回大会のプログラムの中に,「幸福な新しい世の社会」と題する協会の映画の上映が含まれていました。その映画は,予想される出席者を収容できる大きな会館で上映されることになっていました。ところが,その村のカトリックの司祭が,何らかの方法で会場に入り,電気が通じないようにしてしまいました。ビードル兄弟はその問題について苦情を申し入れるために会場の持ち主である婦人の所へ行きました。話している最中,カーテンの後ろに司祭が隠れていることを感じ取りました。それで,出て来るようにと言うと,司祭はおどおどしながら出て来ました。

借りた会場で映画を上映するのに必要な修理をするには時間がありませんでした。しかし兄弟たちは,通りに面している,白いしっくいの壁に映画を映すように手配しました。その結果,会館の中で上映した場合の予想人数よりも多くの人が映画を見ました。

特別開拓者の増加

聖書を買うためにギターを売った演奏家アンヘル・モンタルボはそのアルメニアの村で特別開拓者として奉仕していました。パートナーは,少年時代にサンフアンタルパの村からサンサルバドルまで歩いて行ってそこで開かれていた大会に初めて出席した,ラウル・モラレスでした。ラウルが開拓者になったいきさつは興味深いものです。

1955年にバプテスマを受けたあとも,ラウルは開拓者とはどういうものかを理解していませんでした。それで,チャールズ・ビードルが,ラウルの活発な奉仕ぶりを見て,開拓者になるのはどうかと尋ねた時,ラウルはどう答えていいか分かりませんでした。開拓者とは毎月約100時間伝道活動をする人のことだとチャールズは説明しました。するとラウルは,「それなら,多分私も開拓者だと思います」と答えました。

ラウルは,正式に開拓者に任命され,1956年1月からコフテペケで奉仕するよう最初の任命を受けました。その年の終わりごろに,モンタルボ兄弟と一緒に奉仕するためアルメニアへ行きました。

初めてギレアデの生徒となったエルサルバドル人

サンタアナ出身の若い巡回監督サウル・デ・レオンは,エルサルバドルから初めてギレアデ学校へ行きました。宣教者たちはサウルに英語を教えてその準備を手伝いました。サウルは第31期生として1957年に招待され,翌年卒業しました。そのため,巡回監督の空席ができたので,サウルの代わりにラウル・モラレスが選ばれて1957年9月から奉仕しはじめました。

若者が家族に証言する

ある時神権学校の僕に助言を受け,がっかりして聖書を床に投げ付けた少年ホルヘ・ゲバラは霊的にすばらしい進歩を遂げていました。ホルヘはわずか16歳で最初の公開講演をしました。それは進化論に関するものでした。1957年に高等学校を卒業した時,サンサルバドルから140㌔ほど東のエルオルミゲロという村から母親と兄弟が卒業式にやって来ました。

ホルヘは,寂しい少年時代を送らされたことで家族を長い間うらんでいました。「エホバの証人でなかったら,二度と再び家族に口をきくことはなかったでしょう」とホルヘは語っています。しかし,その時ホルヘは母親と兄弟に証言しはじめました。二人はプロテスタントの教会員でしたが,ホルヘの話を熱心に聴きました。その時巡回監督として奉仕していたサウル・デ・レオンに二人を訪問してもらう取決めがなされました。サウルは訪問してみて驚きました。

ホルヘからもらった文書を読んだだけで,エホバの証人になろうと決心していた人が5人もいたのです。サウル・デ・レオン兄弟がその人たちにバプテスマを施しました。その場に75人の大勢の人が居合わせ,そのこと自体が良い証言になりました。それ以来,ホルヘ・ゲバラの家族の中でさらに真理を学ぶ人が増え,バプテスマを受ける段階にまで達しました。その人たちは引き続き忠実にエホバに奉仕しています。

1957年の重要な出来事

1957年,サンサルバドルの南の端に隣接したサンタアニタで,こぢんまりした王国会館兼宣教者の家が完成しました。10月に行なわれたその献堂式のすぐあと,ギレアデを卒業したフレデリック・バワーズと妻のドロシーおよびケネス・キセルと妻のバージニアがエルサルバドルに到着しました。キセル兄弟姉妹とクリシー・ウィルソンおよびフロレンス・エネボルドスンはサンタアニタの新しい宣教者の家に任命されました。フロレンスはこう書いています。「私たちは熱帯の暴風雨の真っ最中にその家へ引っ越しました。水が家の至る所に入って来ました。水をかい出すのに数日間掛かりました」。

1957年中二つの会衆が新しく設立されたので,エルサルバドルの会衆は合計12になりました。また,孤立した区域で奉仕する全時間の伝道者は21名の宣教者を含め46名でした。その年にサンティアゴデマリアとアウアチャパンの宣教者の家は閉鎖され,それらの土地の会衆は特別開拓者の世話を受けるようになりました。

1957年にはソンソナテでも優れた巡回大会が開かれました。大会会場は市の古い公会堂でした。その公会堂の裏庭に縦横約3㍍,深さ76㌢のコンクリートの水そうがありました。そこで47人がバプテスマを受けました。

新しい場所で開かれた大会

1958年2月,地帯監督のアーブリ・ビベンズとブルックリンベテルのM・G・ヘンシェルが大会のためにエルサルバドルを訪れました。兄弟たちにとって大きな問題だったのは適当な会場を探すことでした。それまではサンサルバドルの労働者会館が使われましたが,そこはもう狭すぎて,予想される出席者をすべて収容することはできませんでした。しかし,問題は間もなく解決しました。

支部の建物の北側に住んでいた友好的なビクトル・レシノスという人は,エホバの証人が出入りするのを観察して,エホバの証人に感心していました。ある日ビクトルは,ビードル兄弟と話をしていて,寛大にも,自分の所有地を大会会場に使ってほしいと言いました。その広い敷地には,ほかの目的のために掘った“くぼ地”があり,ちょうどよく植わったたくさんの木がそこに木陰を作っていました。

大勢の兄弟が,やぶを取り払うのを手伝いました。その結果,きれいで気持ちの良い円形劇場が現われました。公開講演の主題は「善意の人びとのための新しい歌」というものだったので,演壇の前に五線をかたどった低い柵をしつらえました。その柱は音符の形をしており,金色に塗られていたので,とても見栄えがしました。満開のポインセチアの大きな鉢が幾つか置かれ,飾り付けは完ぺきになりました。

その敷地の裏に小さな建物があり,そこが簡易食堂となりました。食物の多くは支部事務所で用意され,通りを隔てた簡易食堂まで運ばれました。大会が終わると各人がいすを持ち上げて頭に載せ,通りの向こうの支部の王国会館に運びました。人々がこんなに気持ち良く協力し合っているのを見るのは初めてだと多くの人が言いました。

大会後の悲しい出来事

その大会で献身の象徴として水のバプテスマを受けた61名の中に,アラビア人の血が半分混じっているラウニオンから来た兄弟が一人いました。その兄弟は大勢いるアラビア人の中でエホバの証人になった最初の人でした。大会の次の日の月曜日,ビードル兄弟は,ラウニオンの特別開拓者から兄弟たちの乗ったバスが事故に遭ったという知らせを受け取りました。バプテスマを受けたばかりのその人を含め3人の兄弟が即死しました。

事故現場に集まって残骸の中から大会用のノートや歌の本やその他の持ち物を拾い上げる兄弟たちの目には涙があふれました。ビードル兄弟がラウニオンに着いた時にはもう遅く,葬式の話をすることができませんでした。なぜなら,遺体を埋葬するため大勢の人がすでに共同墓地にいたからです。ラウニオンの特別開拓者たちは,自分たちの働きの実である貴重な兄弟たちを失ったことを深く悲しみました。

支部の運営上の調整

1958年の春までの10年間,ビードル兄弟はエルサルバドルのエホバの証人の活動をほとんど一人で監督してきました。そのうちの大部分の期間は,会衆の監督,宣教者の家の僕および主な買い物係といった務めのほか,巡回の僕や地域の僕の務めも行なっていました。また,サンタアニタの王国会館兼宣教者の家の建設のほか支部事務所の建設を監督しました。こうした責任から来る圧力のためビードル兄弟は身体的にも精神的にも疲れきってしまい,ある程度責任から解放される必要がありました。そこで,1958年4月,フレデリック・バワーズ兄弟が支部の僕に任命されました。その月に行なわれた主の記念式に,13の会衆を合わせて1295人が出席しました。また,伝道者も460名という最高数を記録しました。

神権家族の頭の死

1958年4月,アブラアム・ペニャ1世は非常な高齢で亡くなりました。その時妻のルガルダは85歳でした。二人が真理を学んだのはそれよりわずか5年前のことでした。アブラアムは死ぬ少し前,子供たち全員をまくらもとに呼んで,エホバへの献身を忠実に守り続けるようにという訓戒を与えました。ルガルダは17人の子供を産みましたが,その時生きていたのはわずか7人でした。

ペニャ家では集会が引き続き開かれていました。1971年までにペニャ家の人々は全部で28人がバプテスマを受けていました。その年ルガルダが97歳で亡くなりました。ルガルダは忠実を保ち,真理に対する認識は亡くなる時まではっきりとしていました。

ウスルタン会衆の始まり

1958年,国家警備隊の隊員だったカルロス・レエスが聖書研究を始めました。そして学んだ事から,同棲中のロサという女性と結婚したいと思うようになりました。隊員生活をやめたため,カルロスの経済状態は非常に難しくなりましたが,霊的な状態は日増しに改善されていきました。1年たたないうちにカルロスとロサはバプテスマを受け,翌年には開拓者となりました。そして家具を売って任命地であるウスルタンへ引っ越しました。こうして,初めはわずか6名の伝道者でしたが,ウスルタンの会衆の土台が据えられました。現在ウスルタンには良いたよりを伝道する人々が90名余りいます。

エルサルバドルの兄弟たちはニューヨーク大会に出席する

1958年までにエルサルバドル人でアメリカの大会に出席したことがある人はわずか三,四人でした。しかし,ニューヨークにおける「神の御心」国際大会が近付くにつれ,熱意が非常に高まり,エルサルバドルから合計53名がニューヨークへ旅行することができました。

兄弟たちは貸し切りの飛行機でフロリダへ行き,そこでカーティス・スメッドスタッドとオスカル・オソリオ少佐の前夫人レティシア・ロサレスに迎えられました。読者は,バルタサル・ペルラがエホバの証人と研究を始めた時,オソリオ少佐はエルサルバドルの大統領であったことを覚えておられるでしょう。バルタサルはオソリオ少佐が真理を受け入れるのを助けることに努力しましたが,オソリオ少佐はこの世の政治の魅力を振り切ることができませんでした。しかし,ジェイン・ビードルはレティシアと研究し,レティシアはやがてアメリカに行った時に真理の面で進歩してバプテスマを受けました。ですからレティシアはアメリカで祖国の人々を出迎えて,本当に喜びました。

レティシアは,ニューヨーク行きの貸し切りバスに乗り込む兄弟たちに別れを告げました。チャールズ・ビードルは,途中何か問題が起きた時に兄弟たちを援助するため同行しました。大会で兄弟たちは,その時ギレアデ学校に入っていたサウル・デ・レオンなど,世界中から集まった兄弟たちと交わって大いに喜びました。

エルサルバドルから出席した兄弟たちの多くは,自発奉仕者としても働き,ある兄弟たちはほかの国から来て知り合った人々の名簿を持って帰国し,その後も文通し合いました。ラウニオン出身の特別開拓者ペドロ・アギラルはその文通に特に関心を持ち,のちにアメリカに渡って,文通の相手であった姉妹と結婚しました。ラウル・モラレスも同様の決定に迫られました。しかし,外国の女性をエルサルバドルに連れて来ることには不安を感じたとラウルは述べています。部品がなかなか手に入らないヨーロッパの自動車のようになるかもしれないというわけです。それでラウルは,王国宣明者の必要の比較的大きなエルサルバドルで引き続き奉仕することに決めました。

この大会は兄弟たちに深い感銘を与えました。新しい世の社会の愛と調和と一致が兄弟たちの思いと心に深く刻み込まれました。エルサルバドルから大会に出席した人たち全員がニューヨークのあるホテルで親睦のための特別な集まりを開きましたが,ジェイン・ビードルはその時,自分とチャールズに間もなく子供が生まれることを発表しました。それは,二人が宣教者の家を去らねばならないことを意味しました。しかし,二人はエルサルバドルにとどまることを決意していました。

宣教者から親へ

1958年の秋,ビードル夫妻は宣教者の家の近くに住む所がないか一生懸命探していました。ある日ジェインは,パウラ・マルティネスと話すためにマーケットに立ち寄りました。パウラはマーケットでじゃがいもを売っているエホバの証人でした。ジェインはその時のことをこう語っています。

「じゃがいもの袋の山のうしろに小さな丸いすがあって,私はそれに座っていました。パウラは私が妊娠していることを知っていました。それで私は,私たち夫婦が宣教者の家を出ることになっていて,住まいを探していることを話しました。パウラは私たちが宣教者の家を去らなくてはならないことに大そう驚きました。兄弟たちが協会にお金を寄付する目的はただ一つ,伝道活動が行なえるようにするということであるから,家族を持ち,全時間伝道活動に携わる立場にいない人は宣教者の家に住む権利がないのだ,と私が説明すると,パウラは,顔を大きくほころばせ,『私たちはなんて立派な組織を持っているのでしょう』と言いました。私たちがいわば“追い出された”ということが組織に対するパウラの認識を高めたことは間違いないと思います。

「子供を育てるようになって,チャールズは,大部分の兄弟たちと同様,生計を立てるために世俗の仕事を見付けなければなりませんでした。そのような共通の立場に置かれたので,兄弟たちに対して,以前には感じなかったような親近感を持つようになりました。共通の問題や困難を抱えているので,宣教者の時には持てなかったような絆を兄弟たちとの間に持つことができました」。

そのころジェシー・スメッドスタッドも,カーティスとの間に子供ができたことを発表しました。ビードル兄弟姉妹はその年の秋にすてきなアパートを見付けました。そのアパートの持ち主であるレティシア・ロサレスはまだアメリカにいました。スメッドスタッド兄弟姉妹も支部事務所の近くに一軒の家を見付けました。エルサルバドルの前大統領オソリオ少佐は各々の家族に新所帯用の家具を贈りました。

ギレアデ学校第25期生のロナルド・アッシュ兄弟と妻のグラディスは,1959年1月にエルサルバドルに任命されました。二人はサンタテクラの宣教者の家へ移されましたが,それから間もなく子供ができたことを発表しました。任命地へ来てわずか7か月後に,二人はカナダの家に帰るのでしょうか。

アッシュ兄弟姉妹はエルサルバドルの人々にも慣れておらず,言葉もよく分からなかったので,それを決めるのはとても難しいことでした。ロナルドは4か月掛かって仕事を見付けました。そして今日までその仕事を続けています。アッシュ兄弟姉妹は引き続きサンタテクラ会衆と交わり,宣教者たちがその会衆を強めるのを助けてきました。

1959年の大会

1959年には二つの巡回大会が予定されました。その一つは,ギレアデ学校から帰ってからサウル・デ・レオンが巡回監督として奉仕している巡回区の大会であり,もう一つはラウル・モラレスを巡回監督とする巡回区の大会でした。次いで,兄弟たちの思いは全国大会に向けられました。前の年には,全国大会は支部の向かいにあった土地で開かれました。しかしこの度は,兄弟たちが以前には調べなかった所にすばらしい会場が見付かりました。それは,サンサルバドルの郊外のモントセルラトと呼ばれる土地の近代的な住宅団地にある新しい集会所でした。

オソリオ前大統領は,簡易食堂のために,ほふった子牛1頭を贈って,またもやエホバの証人に寛大さを示しました。バワーズ兄弟が行なった「神が諸国民に平和を語る時」と題する公開講演に748人が出席しました。

ジェイン・ビードルの研究生で,若い壁画々家ビオレタ・ボニリャ・デ・セバリョスという女性は演壇の飾り付けを手伝いたいと申し出ました。ビオレタは大統領官邸その他政府の建物の壁画のほか,数々の国立記念碑に有名な絵を描いていました。ビオレタは壁画の手本として,1959年4月15日号の「ものみの塔」誌の228ページに出ていたさし絵を使いました。そこには,エホバの賛美者があらゆる種族の人々から生まれていることが示されていました。ビオレタが描いた壁画は撮影されて新聞やテレビで報道され,非常な話題になりました。その大会で61人がバプテスマを受けましたが,ビオレタもその一人でした。

祝福をもたらした変化

セリア・デ・リエバノは,バルタサル・ペルラが官職にあった時その秘書をしていました。バルタサルはしばらくの間セリアに聖書研究に対する関心をもたせようとしましたが,成功しませんでした。一人の宣教者がセリアに英語を教えることを頼まれました。その宣教者は英語を教えたあとセリアによく証言しました。やがて聖書研究が始まり,セリアは集会に出席したり野外奉仕に参加したりするようになりました。そしてついに1959年の全国大会でバプテスマを受けました。

セリアの夫のカルロスは,妻に反対しました。それは主として,進化論を信じていたからでした。カルロスは,セリアの新しい宗教が間違っていることをセリアに納得させるため,セリアをイエズス会の司祭のもとに連れて行くことさえしました。セリアは学んだばかりの聖書の知識を用いて,自分の新しい宗教を擁護しただけでなく,カトリックの司祭が間違っていることを証明しました。こうして1961年にカルロス・リエバノは,妻と同様,バプテスマを受けたエホバの証人となりました。以来この二人は,他の人に熱心に真理を語り続けています。

リエバノ夫婦は,小さい時から,何としても著名な職業人になれ,と教えられていました。そして二人はその点でかなり成功していました。それで,二人がエホバの証人になることを決意した時,この世の友達は,カトリック教会を脱退したからには,職業の分野でも,その他二人が行なおうとするどんな事柄においても成功できないと言いました。しかし,リエバノ兄弟姉妹は,「振り返ってみると,エホバのみ手から数々の祝福を受けたことを感謝の念をもって見ることができます」と語っています。

新しい宣教者の到着

4人の若い女性,すなわち英国出身のウィニフレッド・スコット,パトリシア・ハノク,ジーン・アンウィンおよび南アフリカのタイラ・ミルズの人生にとって1959年9月は重要な月となりました。ギレアデ学校を卒業したばかりのこの4人は,空港で多くの宣教者の出迎えを受けて喜びました。その後1960年5月5日に,さらに6人が,ギレアデ学校第34期のクラスを卒業してエルサルバドルに迎えられました。

初期の宣教者が来たころと比べると,エルサルバドルの様子はずい分変わっていました。TAN航空の飛行機が滑走路を滑るように走ると,小さいながらもしっかりした造りで外観のよい空港が新しい宣教者の目に入ってきました。首都まで行くのに,もはやぞっとする経験をしないですみました。それどころか,自動車に乗り,舗装された4車線の高速道路を,新しい住みかとなる国の景色を眺めながらゆったりと快適に走りました。こうして,サムエル・スタゴと妻のデロレス,レオナード・シムクスと妻のヒルヤ,ポール・ウォルサードと妻のマリリンはエルサルバドルの人となりました。次の日から6人は,1か月間続く,1日11時間の言語課程を始めました。

宣教者の活動は実を生む

宣教者たちの働きは引き続き実を生んでいました。フロレンス・エネボルドスンは,チャールズ・シェルドンと結婚するためにコスタリカへ移る前に,サンサルバドルの南の端で小さな店を開いていたベッシェ・デ・カニャスと研究を始めました。ベッシェの夫エクトルは最初から反対しました。しかし,フロレンスがその研究をクリシー・ウィルソンに渡すころには,エクトルは時折雑誌を読むようになっていました。間もなくエクトルとベッシェはバプテスマを受け,現在エクトルは支部にある王国会館で集会をしている会衆の長老として奉仕しています。

同じ年に,クリシー・ウィルソンは,当時17歳だったオスカル・セレヤ・ロペスに会いました。クリシー,それに一緒に行った人はだれでも,オスカルの家族が寝ている小さな小屋の外の石に座ったものです。オスカルは降っても照っても研究を欠かしたことがありませんでした。クリシーは,日曜日の午後何度か,どしゃ降りの雨の中でかさをさしたり,つばの広い防水帽をかぶったりして座り,研究を司会したことを今でも覚えています。オスカルも今では,サンサルバドルの一つの会衆で長老として奉仕しています。

政治的騒乱

1960年9月大学生が反政府暴動に参加しました。大統領のホセ・マリア・レムス中佐は辞職して翌月に国外へ亡命することを余儀なくされました。「ラ・フンタ」と呼ばれる6人の指導者による新政府が作られました。街路で幾度かこぜり合いがあり,1度などは,バスが倒されてバリケードにされました。二,三日後に事態は収まりましたが,むやみに発砲する好戦的でむこうみずな無法者たちが首都を通過する時に市や商社の時計を壊して行ったので,首都には傷跡が残り,それらの時計を修理したり取り替えたりするまでには幾年も掛かりました。

暴力事件のうわさが消えるまでの二,三日間,宣教者は家の雑事をすることが最善だと考えましたが,それ以外は,こうした事態のために伝道活動が大きく影響されることはありませんでした。オスカル・オソリオ少佐が真理に入るのを助けようと,バルタサルが最後の努力をしたのはそのような時でした。しかし,オソリオ少佐はアメリカで暮らすためにエルサルバドルを去り,聖書研究を中断して二度と再び行なおうとはしませんでした。オソリオ少佐は,学んだ聖書の真理に従って本当に行動を起こすことなく1969年に亡くなりました。しかし,エルサルバドルのかつての支配者だった別の人の場合はそれとは非常に異なっていました。その人が国を治めようとどのように努力したかを考慮するのは興味深いことです。

エルサルバドルの新政府

1960年10月エルサルバドルを支配しはじめたフンタの6人のメンバーの中にルベン・ロサレスがいました。ルベンは軍隊の指導者で,レムス政権追放のかなめとなった人物でした。事実,ルベンは計画のすべてを取り仕切り,政府を打倒する軍事行動を実行しました。新政権フンタはエルサルバドルの状態の改善に役立てると考えていました。しかし,物事は思い通りには運びませんでした。その事情をルベンは次のように語りました。

「物事は計画通りに進みませんでした。私たちが政権を執ってから間もなく,大司教が電話をかけてきました。大司教は内々に会談したいと述べ,さらに,話し合いは秘密にしておいてもらわねば困ると語りました。

「大司教は事実上『諸君の政府は新たに生まれたばかりであり,私は説教壇からこの政府を支持する立場にある。その代わりとして諸君も我々を支援できるであろう』と言っていたのです。

「私たちは大司教が何を言わんとしていたか分かっていました。入手した記録によって,カトリック関係の宗教団体が前政権の財政援助を受けてきたことを知っていたからです。大司教は明らかに,私たちの新政権が同教会に対してそのような配慮を払うことを期待していました。

「私はカトリック教徒でしたが,カトリック教会をそのように優遇するのは憲法に反するので,ふさわしくないと思いました。フンタの他のメンバーも私と同意見だったので,私たち6人はカトリック教会に財政援助を与えることを拒みました。大司教は満面に怒りを浮かべ,やがてその決定を後悔することになるだろうと言いました。

「間もなく,教会の説教壇から一つの運動が始まりました。司祭たちは,私たちの政府が親カストロの容共政府であると言い出したのです。そうした説教のテープを取ってありましたから,どんな言いがかりを付けられているかは分かっていました。しかし,カトリック教会を尊重する人は少なくなかったので,この運動を抑えることはかえって害をもたらしかねないと判断しました。

「やがて私たちの政府に対する風当たりが強くなるのが感じられました。私たちの政治路線に対する疑念が生じ,米国はそれを懸念して,承認を差し控えていました。しかし,事実はどうだったでしょうか。

「ほどなくして,カトリック教会による言いがかりが事実無根であることが分かり,米国は私たちの政府を承認しました。1960年12月1日付のニューヨーク・タイムズ紙はこう述べています。

「『ラテン・アメリカでの政治的および社会的な変化すべてに共産主義や今はやりの“カストロ主義”が関係していると見る傾向は危険である……

「『フンタの成員のうち3人の民間人は,“カストロ主義者”であるとの的はずれな非難があるが,実際は自由主義者であり民主主義者である。……6人はみな,民主的な計画を実施することを誓っており,その善意を証明するためにあらゆる機会が与えられて然るべきである』」。

「汚名はそそがれたものの,カトリック教会による中傷運動は私たちの信用を少なからず損ないました。私たちが軍部を政治に関与させないようにしようと考えていることを知って,軍部もフンタに反対しはじめました。それで,翌年,私たち6人から成る政府は倒され,別の政府に取って替わられました」。

ルベン・ロサレスはアメリカへ渡り,カリフォルニア州ロサンゼルスに居を定めました。何年かのち,ルベンはそこで真理を学び,1969年8月にバプテスマを受けました。エルサルバドルにいるルベンの親族数名を含め,家族全員もエホバの証人になりました。ルベンは今まで長年の間長老として奉仕してきました。そして,良い政府が実現する方法についての唯一の真の希望を他の人々に伝えてきました。

巡回の業が打撃を受ける

ラウル・モラレス兄弟が1960年8月に巡回の奉仕から離れたので,巡回の活動は打撃を受けました。モラレス兄弟はしばらくの間,ギレアデに行きたいという気持ちと結婚したいという気持ちの板ばさみになっていました。1961年1月,サンタアニタ会衆の若い姉妹アンドレア・ラゾと結婚しました。

同じころ,エルサルバドルのもう一人の巡回監督サウル・デ・レオンが,人妻であるひとりの宣教者の姉妹と不道徳な関係に入りました。しかしやがて二人は悪い行ないを改め,今では再びエホバの清い組織の成員となっています。こうして,二,三か月の間に,巡回区は二つとも監督を失ってしまいました。それで,珍しい型の結腸炎で数か月前に妻を亡くしたばかりの宣教者フォイ・ブライアンがサウル・デ・レオンの代わりに選ばれて一つの巡回区に任命されました。また,ラウルに替わってもう一つの巡回区に任命されたのは,幾年か前にアウアチャパンの王国会館に来て外に座っていた若者,ペドロ・ゲレロでした。

特別な代表者たちの訪問

1961年の初め,ちょうど良い時に,オーブリー・ビベンズの地帯訪問がありました。それから間もなく,ノア兄弟も再びエルサルバドルを訪問しました。ラウル・モラレスはノア兄弟に引き合わせられました。そして,妻と共に特別開拓者の隊伍に加えられてサンタアナに任命されました。その訪問の時,バワーズ兄弟に替わってサムエル・スタゴが1961年4月1日付で支部の監督に任命されました。

王国の関心事を第一にする

1961年の主の記念式の出席者は1,878人でした。これは前年をほぼ300人上回っていました。また,その月に,王国伝道者数は新最高数の638人になりました。そのようにすばらしい発展が見られた一つの理由は,アントニア・コントレラスのような人々の熱心な働きがあったからでした。アントニアは学校の教師で,1958年以来フアユアの町で良いたよりを伝道することに励んでいました。

アントニアは1961年に,世俗の仕事を辞めて開拓者の隊伍に加わることを決意しました。エルサルバドル人の伝道者で仕事を辞めて全時間奉仕に入ったのはこの女性,アントニアが最初でした。その努力と犠牲は豊かな祝福を受けてきました。約20年後の現在,この姉妹はなお開拓奉仕を行なっており,その勤勉な努力を通して多くの人が真理を学びました。自分が司会した研究生の一人が後にアントニアの開拓奉仕のパートナーとなりました。

兄弟たちを強めた集まり

1961年12月,「一致した崇拝者」地域大会が開かれました。この度も,支部の建物の向かいにあった,レシノス氏の所有地が用いられました。熱意が大いに高まり,「すべての国民が神の王国の下に一致する時」と題する,スタゴ兄弟が行なった講演に,1,200名もの人が集まりました。

翌年の3月,ノア兄弟が再び訪れました。サンサルバドルの国立体育館で行なわれたノア兄弟の公開講演には合計1,130名が出席しました。その美しくて近代的な体育館は1万1,000人を収容でき,屋根を支える柱のないおわん型の設計になっています。そこは,以後エルサルバドルのエホバの証人にとってなじみの場所となっていきました。

王国宣教学校

それよりも前の1962年2月5日には,エルサルバドルで初めての王国宣教学校が支部の建物の中で始まりました。会衆の監督,巡回監督,特別開拓者,宣教者たちが出席し,有益な事柄を学びました。やがて,宣教者全員が受講する機会を得ました。グアテマラの支部の監督デイビッド・ヒブシュマン兄弟は,最初の三つのクラスを教えるために4か月の間エルサルバドルに滞在しました。ノア兄弟は3月に訪問しましたが,それは2番目のクラスが始まって間もないころでした。ノア兄弟に会えたことは,そのクラスの生徒たちにとっては思いがけないうれしい経験となりました。

学校を開く手はずを整えることはだれにとっても新しいことでしたが,各人がその仕事に積極的に取り組み,物事は円滑に運びました。生徒の宿舎は事前に整えておかねばなりませんでした。サンサルバドルの諸会衆は宿舎の提供に応じました。また王国会館の2階に二,三人の学生が寝泊りしました。王国会館に泊った兄弟たちは市場へ買い物に行き,朝食の準備の手伝いをする割当てを受けました。したがって,兄弟たちは朝とても早く起きなければなりませんでした。その結果次のような珍事が起きました。

朝早く買い物をする当番に当たった兄弟が市場からもどって来ると,支部にかぎがかかって中に入れませんでした。その兄弟は,ベルを押してノア兄弟を起こしたくなかったので,寝室の一つの窓をたたき,クリシー・ウィルソンを呼んで玄関を開けてくれるよう頼みました。その兄弟は,クリシーがノア兄弟のために自分の部屋を提供したことをつゆ知らなかったのです。ノア兄弟は,窓をたたく音に目を覚まし,呼んでいる人を追い払おうとして,学んだスペイン語を使いました。「帰れ」と言うつもりで,「バモノス」(さあ行こう)と数回叫びました。その朝の食卓でノア兄弟が,この家では非常に奇妙な事が起こると述べたほか,その件についてはだれも何も言いませんでした。

生徒のために準備された最初の食事はある人にとっては試練ともなりました。ナイフとフォークではなくトウモロコシのホットケーキで食べ物をつかむのに慣れていたからです。しかし,しばらくして,ナイフとフォークを使うことに慣れました。宣教者の姉妹たちが作った料理に慣れなかった人もいます。もっとも,病気になった人や飢えで死んだ人は一人もなく,不平もほとんど聞かれませんでした。

一人の宣教者は首都の見物に一緒に行くよう生徒たちを誘いました。それで,小さな町から来た兄弟たちは興味深い所を幾つか見ることができました。また他の宣教者たちは,二,三人の学生の手を借りて,交替で洗濯をしました。だれもが仕事と勉強に忙しく携わりました。こうした協力によって,すばらしい友情が築かれました。

ラウル・モラレスにとって,王国宣教学校は特に忘れられない思い出となりました。妻のアンドレアが出産予定の月に学校に入学し,授業が終了する前に娘のドロテアを出産したからです。こうして,幼いドロテアは神権的な出発をしました。ですから,18年余り後に特別開拓者として忠実にエホバに奉仕しているのも不思議ではありません。

新しい巡回の僕

1962年,エルサルバドルはまたもや巡回の僕を必要としました。フォイ・ブライアンがソヤパンゴ会衆の若い姉妹マリナ・ビダウレと結婚したのです。また,1960年8月以来もう一つの巡回区で奉仕していたペドロ・ゲレロの家庭では子供が次々と産まれ,妻のアメリカはもはや特別開拓者をしながら子供たちの世話をしていくことができなくなりました。当時王国宣教学校の教訓者をしていたヒブシュマン兄弟はグアテマラの二人の青年を推薦しました。その二人は巡回の経験は持っていませんでしたが,学ぶ意欲が十分にあり熱心で非常に有能でした。

こうして1962年5月31日,マルコ・ロランド・モラレスとフアン・マサリエゴスはエルサルバドルに来て一時的に宣教者の家に住みました。そして二,三週間巡回訪問の訓練を受けた後,一人で訪問をしました。

巡回大会の準備

1962年の夏,モラレス兄弟とマサリエゴス兄弟は大会の準備を始めていました。東の地域ではサンミゲルで大会が取り決められ,西部ではソンソナテで予定されました。フアン・マサリエゴスはソンソナテで適当な大会会場を見付けることができませんでした。会場に使えそうに思えたのは学校だけでしたが,それまでエルサルバドルで学校を巡回大会の会場として使用したことはありませんでした。フアンは思い切って学校の校長に話し,次いでソンソナテの学校の代表者に話しました。すると,サンサルバドルにある,諸設備および学生宿舎局から許可を得るように言われました。学校を使用する許可が下り,大会のプログラムが取り決められました。

ところが,大会の少し前になって,フアンが学校を調べにいくと,使用許可は取り消されたのでエホバの証人は学校を使うことができないと校長から言われました。フアンが急いでサンサルバドルへ行くと,僧職者の反対のために学校は使えないと言われました。それでフアンは別の適当な会場を探しはじめましたが,見付かりませんでした。

それでフアンは何とか学校を使用できるようにしよう,そしてエホバに頼って援助していただこうと決心しました。文部大臣に電話をかけて訴えを聞いてほしいと申し込みましたが,多忙であると断られました。しかしフアンはあきらめず,大臣宛ての丁重な手紙をタイプで作成し,エホバの導きを祈り求め,できるだけ立派な身繕いをして大臣の邸宅に赴きました。それは,大会が予定されていた日の一週間前に当たる土曜日の朝のことです。その結果,次の火曜日に面会をする約束ができました。

その日,フアンは,大臣の部下に当たる人と話をしました。そして,次の日に決定がなされると告げられました。フアンは水曜日にソンソナテにいて大会の準備をし,一人の宣教者の姉妹が大臣のもとに行ってその解答を聞きました。うれしいことに,フアンは,「大臣は学校の使用許可を与えた」という電報を受け取りました。

学校の校長はフアンにかぎを渡し,必要な物は何でも使ってよい,と言ってくれました。日曜日に行なわれた公開講演には,合計420人が出席しました。大会がすんでから,校長は学校が非常にきれいになっているので驚き,エホバの証人が今度学校で大会を開くのはいつか尋ねました。後日,文部大臣は次のような手紙を送ってきました。「あなたがたの秩序正しさと清潔さを認め,それゆえに学校の諸施設の使用を許可することを喜びとします」。

「勇気ある奉仕者」大会

その大会が終わって間もなく,1962年8月31日から9月2日にかけて開かれることになっていた「勇気ある奉仕者」地域大会の準備が始まりました。サンサルバドルの国立劇場を使用する契約書が作成され,ラジオや新聞を通してその大会に出席するよう一般の人々に呼びかけがなされました。ところが大会の直前になって契約が突然破棄されたのです。幸い,再び国立体育館を使用する取決めがなされました。そこは,簡易食堂,喫茶部門および休憩施設を設けるための十分な場所があって,大会会場としては理想的な所です。公開講演には,合計1,545名が出席しました。

この時から,地域大会は以前よりもさらに組織的なものになりました。バルタサル・ペルラが大会監督を務め,エルサルバドルのほかの兄弟たちも責任を担うようになりました。比較的大きな大会を運営する上で関係する一切の事柄を宣教者だけではもはや処理しきれなくなったのです。兄弟たちは体育館を非常に良い状態で返しました。それで,今後も是非この施設を使ってほしいと言われました。

支部の運営上の調整

サムエル・スタゴとマルコ・ロランド・モラレスは1963年に開かれた10か月間のギレアデ学校に招待されました。二人は1月にニューヨークへ向けて出発し,支部の僕の務めはレオナード・シムクスが引き継ぎました。その後,同じ年に生じた事情により,シムクス兄弟はずっと支部の僕を務めることになりました。と言うのは,スタゴ兄弟がそれより幾年か前に不道徳な行ないをしていたことが公になったからです。それで,サムエル・スタゴは支部の監督を辞めさせられ排斥されました。

サムエルの妻デロレスはサンサルバドルで引き続き特別開拓者として奉仕し,サムエルは妻のもとへ帰ってすべての集会にまじめに出席しました。兄弟たちすべてにとってうれしいことに,1年後,サムエルは復帰しました。以来,サムエルとデロレスは確かにエルサルバドルのクリスチャンの組織を強めることに尽力してきました。そしてサムエルは現在支部委員の一人として奉仕しています。

1963年が終わりに近付くにつれ,兄弟たちの思いは再び大会の準備の方に向けられました。12月26日から29日にかけて国立体育館で「永遠の福音」大会が開かれることになっていたのです。その大会で合計25人の人がバプテスマを受け,バルタサル・ペルラによって行なわれた公開講演には1340人の出席者がありました。

協会の新しい映画

1964年中,エルサルバドルでは,「世界をめぐって『永遠の福音』を宣べ伝える」と題する協会の新しい映画が上映されました。その映画は偽りの宗教すべてが共通して持っている伝統を紹介しています。エルサルバドルでは偽りの崇拝がはびこっているので,その映画が上映されたことは非常に適切なことでした。その映画を見ていると,キリスト教世界の諸教会によって行なわれている崇拝と古代バビロンの宗教との関係が容易に理解できました。

興味深いことに,エルサルバドルには,トランシトの聖母,カンデラリアの聖母,グアダルーペの聖母など,少なくとも14の異なった聖母を祭った建物や教会が建てられています。むろん,聖母マリアにささげられた建物や祭壇はたくさんあります。

宣伝に尽力してくれた人

大会を宣伝してもらうために放送局を訪れたジュリア・クログストンはYSU放送局の局長ラファエル・カステリャノスに会いました。そして,聖書研究を取り決めることができました。最初の研究の時,ラファエルはレコン・ド・ノイの「人間の運命」と題する本をジュリアに手渡し,「ここに私の考えが書いてあります。その私をどうすることができるか,やってみてください」と言いました。

それは1964年3月のことでした。その月の末に行なわれた記念式に2853人が出席しましたが,ラファエルと妻もその中に含まれていました。5月にラファエルは,協会が準備した「人びとが考えている事柄」という番組をYSU放送局で放送してもよいと申し出ました。また,大会とか,宣伝したい特別な集まりがある時にはその放送局から短い宣伝の放送が行なわれるようになりました。カステリャノス夫妻と二人の息子ロベルトおよびリカルドはやがてバプテスマを受けました。

大会のゲストとしてミルトン・ヘンシェルが来る

1965年2月に国立体育館で「み霊の実」地域大会が開かれました。そのころには,兄弟たちは国立体育館を「年に1度使う自分たちの王国会館」のように考えるようになっていました。ブルックリンの本部のミルトン・ヘンシェルはその時地帯監督としてエルサルバドルを訪問していました。それで「『善意の人びとの間にある平和』それともハルマゲドン ― そのどちらですか」と題する公開講演を行ないました。合計2,416名が話を聴きました。それは,1963年12月に開かれた,前の地域大会の最高数を1,000人余り上回っていました。

増し加えられた奉仕の特権

巡回監督のフアン・マサリエゴスはギレアデ学校の第40期のクラスに招待されました。したがってフアン・デ・ディオス・ペニャがそのあとを引き継ぎました。また,1965年にはバルタサル・ペルラ2世が神権的な奉仕の面で増し加わった幾つかの特権を得るようになりました。バルタサルの母親パウリナが初めて真理を学んだ時から多くの年月がたっていました。7月に若者バルタサルはブルックリンベテルに入ることができました。そして今でも忠実にベテルで奉仕しています。1978年12月以来,サンティアゴテクサクアンゴスのペニャ家の一人エルナン・ペニャもブルックリンベテルで奉仕しています。

1965年新最高数に当たる2914名の人々が記念式に出席し,王国伝道者の数も961人に増加しました。

「十字架の日」の地震

5月の初めになると,エルサルバドルの市場には特に多くの種類の果物が並びます。それは,5月3日にサンサルバドルとその周辺の多くのカトリック教徒が十字架の日という祝いをして,果物で木の十字架を飾るからです。ところが,1965年5月3日午前4時に,計画を台なしにしてしまう事件が起きました。ラ・プレンサ・グラフィカ発行の「リブロ・デ・オロ(金の本)」はこう述べています。

「今日の午前4時,46年ぶりの大地震が,首都およびイロパンゴ,ソヤパンゴ,メヒカノス,ビリャデルガド,サントトマス,サンマルコスなどの町そしてその周辺の場所を襲った。その震動の激しさは7.5を記録するほどであった。国家緊急委員会は全面的な活動を開始した」。

アドービれんが造りの幾百という家が瓦礫と化しました。激しい震動のため,まるで貨物列車が家の中を走り抜けるような感じがしました。家が倒れない場合でも,びんや家の中の小さな装飾品や陶器,絵画,厚い板ガラスの窓などが粉々に壊れました。100名余りの死者が出,幾百人もの人が重傷を負いました。ありがたいことに,エホバの証人で重傷を負った人は一人もいませんでしたし,支部の建物もしっくいに幾つかきれつが入っただけで,損傷を被りませんでした。

一組の宣教者の夫婦は地震の時にベッドの下に潜るようにと言われていました。ところが,そうしたところ,ベッドの下に頭しか入らなかったので,だ鳥の夫婦のような格好になりました。別の宣教者は,最初の震動が治まると,食堂に走って行って食器だなの皿を全部取り出して床にきれいに並べました。皿が割れないようにするためです。そのあと食堂に入って行った別の宣教者は,皿が1枚も割れずに床にきれいに積み上げられているのは地震の仕業だと考えました。

1966年の国際大会

12月10日から14日にかけて開かれた「神の自由の子」国際大会に出席するために,13か国から300名を上回る人々がエルサルバドルにやって来ました。この度も国立体育館が会場となりました。ラジオやテレビや新聞はそれまで通り協力的で,十分の宣伝を行なうことができました。

大会第一日目に,フレッド・フランズは1,640名の聴衆を前に「とらわれ人に解放を告げよ」と題する講演を行ないました。エルサルバドルにはエホバの証人が995人しかいませんでしたから,一般の人の中にもその大会の価値を認めていた人が大勢いたことは明らかです。また,フランズ兄弟が4,780人の聴衆を前に「神の国が治める人類の千年期」と題する公開講演を行なった時,兄弟たちの心は喜びで躍りました。日曜日の夜にはさらに大勢の人々すなわち4,989名が再び集まり,エレミヤの忍耐を扱った感動的な劇を見ました。

フランズ兄弟は劇が上演されている間青空スタンドに座っていました。一人の訪問者は,話しかけた相手がだれであるかを知らずに,非常に知られているF・W・フランズという人は一体どういう人物かとフランズ兄弟に尋ねました。そして,エホバの証人が他と異なっている点を幾つか話しました。フランズ兄弟はエホバの証人が信じている事柄の聖書的な根拠を挙げながらその人に答えました。その後,プログラムが終わる少し前にフランズ兄弟は結びの歌と祈りを司会するために席を立ちました。自分の横に座って聴衆となっていたのがフランズ兄弟だということを知って例の男の人は大変驚きました。そして,その後,重い責任の立場にあっても非常に謙遜なのはエホバの証人だけであると多くの人に語りました。

それまでにもエホバの証人の大会には決まって一般の人が大勢出席しました。時には,エホバの証人の数の2倍か3倍の聴衆が集まったこともあります。ところがその大会では,一般の人々がエホバの証人の4倍もいたのです。外国からの訪問者が近代的なインターコンチネンタルホテルに大勢宿泊したので,そのホテルの美しいプールをバプテスマのために使用することができました。

外国から大会に出席した人々がエルサルバドルの湖や火山を見ることができるよう,見物の取決めが設けられました。休憩時間を二,三時間取って美しい火山湖コアテペケ湖で泳ぐことができないのが残念だと感じた人もありました。しかし旅行者たちは,溶岩が静かな水面の上に突き出して小さな島となっている,サファイアのように青いこの湖の写真を撮って喜んでいました。また,エルサルバドルのしだや熱帯植物も旅行者にとっては興味をそそるものでした。

3番目の巡回区が作られる

その大会中に,エルサルバドルには20の会衆と多くの孤立した群れがあるので,3番目の巡回区を作ってはどうかという提案がなされました。それで,1967年1月に,宣教者の一人マービン・ロスが巡回監督に任命され,他の二つの巡回区の世話をしていたモラレス兄弟とマサリエゴス兄弟に加わりました。1967年の主の記念式の出席者数は3363人でしたから,増加の見込みは十分にありました。

イエスはいつ生まれたか

大会後しばらくして,YSEB放送局はイエスがいつ生まれたかという問題を出しました。非常に多くの意見が寄せられ,放送局は意見がいろいろ異なることに驚きました。簡単に答えの出る単純な質問だと思っていたのが非常に複雑なことになったのです。

ある日その放送局の代表者の一人が協会の支部を訪れ,イエスがいつ生まれたかについてラジオで短い話をしてくれないかと言いました。それを行なうよう割り当てられたのは若い巡回監督フアン・マサリエゴスでした。司祭やプロテスタントの牧師のほかに,カトリックの大司教も招かれました。僧職者が一人一人数分間話をしました。ところが,大司教と司祭たちの間でさえ,イエスが生まれた時についての意見は一致しませんでした。そして答えの根拠として聖書を引用した人は一人もいませんでした。

マサリエゴス兄弟は自分の番になると,イエスが西暦前2年の10月1日ごろに生まれたと結論できる理由を聖書から示し,30分にわたって話しました。もっと知りたいという手紙が放送局に多数寄せられ,その結果何件かの聖書研究が取り決まりました。司祭から来た手紙もありました。マサリエゴス兄弟はその司祭が住んでいる所を確かめて訪問することができました。

感謝された援軍

1966年12月に開かれた国際大会の報告が,「エルサルバドル ― 熱帯の宝石」という主題で,1967年3月8日号の「目ざめよ!」誌(日本語では同年6月8日号)に掲載されました。その記事がきっかけとなって,王国の宣明者の必要の比較的大きな土地で奉仕するためエルサルバドルに引っ越すことに関心を持つエホバの証人が幾人か現われました。そのような人々の中にジョン・トレヤーとその妻がいました。二人は,ギレアデの第44期のクラスを卒業した5人の新しい宣教者,すなわちコンチャ・ドランテス,ファニタ・アラルコン,エリザベス・ナビスキー,リチャード・ブライアンおよび妻のサンドラとほぼ時を同じくして,エルサルバドルに到着しました。

1968年10月,ジョン・トレヤーは妻のベティと共に開拓奉仕を始め,1969年4月にはサンサルバドルの一つの会衆の監督に任命されました。ジョンは行なわねばならなかった調整について数年前にこう語りました。

「私にとって一番の問題は言葉でした。子供たちは成人していましたが,ベティにとって一番の問題はその子供たちを置いてきたことでした。また,生活環境の異なる土地へ引っ越したことからも幾つかの問題が生じましたし,二人とも暑さに悩まされました。しかし,新しい会衆を組織するのを援助したり,大会での仕事を援助したり,また王国会館の建設や維持の手伝いをしたりするといった報いがありました。私たちは確かにここに来てよかったと思います」。

1968年1月,チャールズ・テイラーとその妻のエレノアがバリーとモニカという子供たちを連れて到着しました。やがてその家族は首都の北方にあるアポパという村に派遣されました。アポパ村にいた15名の伝道者の群れはテイラー家族が来てくれたことを大変喜びました。しばらく後に会衆が設立され,チャールズはそこの監督になりました。1971年4月,チャールズはアポパで開かれる巡回大会の準備に忙しく働いていました。一家で行なった奉仕について,チャールズはこう語りました。

「私たちのような家族は,協会の宣教者たちができないような形で奉仕できることが少なくありません。例えば,宣教者は大体において自動車を持っていませんが,自動車は円熟した兄弟たちを切実に必要としているグループを助ける面で役立ちます。ですから,必要の比較的大きな場所である外国で,いわば水に網を投げたいという願いを持っている人々には特別の祝福が約束されているということを家族としての経験から言うことができます」。

1968年にエルサルバドルに来てから間もなく,ティラー兄弟姉妹に3番目の子供が生まれました。その子は現在身体的にも霊的にもすくすく育っています。モニカは幸福な結婚をしてアメリカで暮らしており,家族の残りの成員は昨年までアポパで兄弟たちに奉仕していました。しかし経済的な理由からその人たちもアメリカに帰りました。現在アポパには二つの会衆があり,それぞれ自分たちの王国会館を持っています。

1967年の地域大会

国立体育館で12月に行なわれた「人々を弟子とする」地域大会で,バルタサル・ペルラが行なった公開講演に3,005名が出席しました。大会が始まる数週間前から,新聞やテレビを通じ,言葉や絵で聖書劇が宣伝されました。

エルサルバドルの兄弟たちは,聖書劇に出演する特権に深い認識を示し,劇を真剣に取り扱います。例年,大会の数週間前から一緒に集まって忠実に練習をします。また,時代考証の面でも正確な衣装を着けるために真剣な努力も払われます。こうした努力が,地域大会の出席者が多い理由の一つとなっていることは疑問の余地がありません。

新しい支部の僕

1968年,出入国管理局は宣教者たちに新しい規定を知らせました。5年経過したあともエルサルバドルにとどまりたい宣教者は,永住権を得るために800㌦を支払わなければならないというものでした。支払わなければエルサルバドルから出なければなりませんでした。支部の監督レオナード・シムクスとその妻はすでに5年以上エルサルバドルにいましたから,国外に出るようにとの通知を受けました。レオナードはもう1年滞在を延長することができました。その後,協会はシムクス兄弟姉妹に,エルサルバドルを去ってグアテマラへ行き,そこで宣教活動を続けるように勧めました。

このような訳で,1968年の春,マルコ・ロランド・モラレスはその年の6月1日付でシムクス兄弟に替わって支部の監督となるようにとの通知を受けました。またフアン・デ・ディオス・ペニャはモラレス兄弟に替わって巡回監督に任命されました。

拡大は続く

1968年の主の記念式の出席者数は一挙に4027名となり,前年より664人も増えていました。また,同じ年の4月にはサンサルバドルに7番目の会衆が設立されました。それは現在ではシウダドデルガドと呼ばれるビリャデルガドの区域にありました。その会衆は29人の伝道者から成り,ホセ・モントヤの家で集まりを持っていました。新しい支部の監督モラレス兄弟がその会衆の監督に任命されました。兄弟たちの大部分が真理を受け入れて日の浅い人々だったので,モラレス兄弟は最初のうち,文書や雑誌や区域の世話を一手に引き受け,集会のプログラムもほとんど自分で扱いました。しかしほかの兄弟たちも次第に会衆の責任を担うようになりました。

1968年中に,多くの様々な区域で伝道活動が開始されました。スタゴ兄弟姉妹はサンサルバドル火山の斜面にあるサンラモンという小さな村で伝道することに努力を傾けました。当時そこには王国伝道者が一人もいませんでした。

スタゴ兄弟はサンラモン最大の店の店主を再訪問しました。その奥さんが文書を受け取ったことがあったからです。店の主人であるそのホセ・チャベスという人は非常に乱暴な性格で,悪い習慣をずいぶん持っていました。しかし神のみ言葉に対する敬意もかすかながら持っていました。それで聖書研究が取り決められました。やがてホセは悪い習慣を改めて良い習慣を身に着けるようになり,集会に出席しはじめました。現在ホセの家族6人がバプテスマを受けており,ホセは,サンラモンにある会衆のうちの一つで長老として奉仕しています。

スタゴ姉妹はドミティラ・パスとその姉妹のアナ・パスおよびドミティラの内縁の夫であるイサベル・エスコパルと聖書研究を始めました。スタゴ姉妹はその二人の婦人が,1960年に輸血を拒否して亡くなったマルティン・パス兄弟の娘であることを少しも知りませんでした。その二人は真理の面で急速に進歩し,やがてアナは開拓者になり,後には特別開拓者として奉仕しました。ドミティラとイサベルは正式に結婚し,現在サンラモン会衆に交わっています。その家族の他の成員もほどなくして真理を学びました。墓の眠りから目覚め,家族全員がエホバに奉仕しているのを知った時,マルティン・パス兄弟はどんなにうれしく思うことでしょう。

1968年12月,再び国立体育館で,「すべての国の民に対する福音」地域大会が開かれました。公開講演に4,500人が出席し,109人がバプテスマを受けました。11月にエルサルバドルに来た6人の新しい宣教者にとってそれは胸を躍らせるものでした。

突然の悲しい出来事

1968年2月15日号の「ものみの塔」誌(英文)は「すべての国の民に対する福音」地域大会の宣伝を載せ,その中で,「今後何年間かにわたってわたしたちが行なう業に大きな影響を与える」事柄が計画されているという発表が行なわれました。それが何であるか是非知りたいと願っていた人の中にチャールズ・ビードル兄弟がいました。ビードル兄弟は長年の間支部の僕を務めた後,エルサルバドルで就職し,妻のジェインとの間にサンドラ,チャールズ2世,スージーという3人の子供をもうけていました。

米国のカリフォルニアで開かれる地域大会に出席する最初の宣教者を見送りに行ったチャールズは,その姉妹に別れを告げてからニュースがあったらすぐに知らせてほしいと頼みました。その宣教者の姉妹は約束通りニュースを送りました。しかし,「とこしえの命に導く真理」と題する本と6か月間の聖書研究計画に関するそのニュースが届いた時には,チャールズはサンサルバドルの共同墓地に葬られていました。1968年7月7日に突然亡くなったのです。それは兄弟たちすべてにとって大きなショックでした。手に刺さった魚の骨から感染し,破傷風の注射が打たれた後に亡くなったのです。「『タタ』[パパ]を失った」と言う声があちらこちらで聞かれました。

葬式は,チャールズ兄弟自身がちょうど13年前に建設に尽力した支部の王国会館で行なわれました。葬式の話をしたのはペルラ兄弟でした。チャールズ兄弟が亡くなってから12時間もたっていなかったのに,葬式には500名を超す人々が列席しました。

エルサルバドルの墓地には,ハルマゲドン後に復活することを待っている立派な兄弟姉妹たちの記念の墓がたくさんあります。その時その人たちと再びエホバの教育活動に携わるのは,生き残って通過した人々にとって大きな特権となるでしょう。

さらに大勢の兄弟たちが奉仕のためにやって来る

1968年の地域大会で,王国宣明者の必要が比較的大きな土地で奉仕することが強調されたので,間もなくエルサルバドルにはその件に関する,400通近くの手紙がヨーロッパや北アメリカ,海洋諸島の兄弟たちから寄せられました。しかし,エルサルバドルでは高度の技術を持つ技師しか仕事を得ることができないので,エルサルバドルに来る人々の多くは国外で収入を得る必要がありました。したがって,1969年当時,エルサルバドルに家を持っていたのは,少し前に来ていたトレヤーとテイラー家を含む8家族だけでした。トレヤー兄弟とテイラー兄弟およびその家族は会衆を強める点で助けとなりました。その人たちの存在は大いに感謝されました。しかし,その多くはそれ以後,やむを得ずエルサルバドルを去らなければなりませんでした。

盲人でさえ見ることができる

「真理」の本が入手できるようになったので,伝道活動は急激に発展しはじめました。関心を持つ人々は,より早く決定を下せるよう援助を受けていました。そうした人の一人に,サム・スタゴと研究していたフィラデルホ・アルバラドという目の見えない人がいました。フィラデルホは間もなく野外奉仕に参加し,バプテスマを受け,一緒に集会に出席するようになっていた孫たちと聖書研究を行ないはじめました。やがて神権学校や奉仕会の割当てをも扱うようになりました。

同じころ,デロレス・スタゴは一人の婦人に「真理」の本を提供しました。その婦人はデロレスに「私はその本が好きですが,何の役にも立たないと思います。私は目が見えませんから」と言いました。デロレスはその婦人に本を読んで差し上げましょうと言いました。その婦人ヴィクトリア・カリアスはデロレスの言葉を聞いて喜びました。聖書研究が進むにつれ,ヴィクトリアはこう言いました。「以前私はいつも悲しみに暮れて泣いてばかりいました。でも今は,エホバのおかげで私には真の希望があります」。

ヴィクトリアは盲人のフィラデルホと一緒にサカミル会衆に交わるようになりました。間もなく二人とも喜びある王国の伝道者となり,野外奉仕に参加し,集会で兄弟たちとおしゃべりをしたりクリスチャンの活動で互いに励まし合ったりするようになりました。

100時間戦争

1969年7月,エルサルバドルは隣国のホンジュラスと,表向きはサッカー試合のことでいざこざを起こしました。そのころ,兄弟たちの多くはアメリカの「地に平和」大会に出席するために出掛けるところでした。大きな代表団がニューヨークで開かれる大会に向けて出発しました。そのあとホンジュラスとのいざこざが戦争に発展しました。7月14日,エルサルバドルはホンジュラスを爆撃しましたが,その夜エルサルバドルはホンジュラスの飛行機による爆撃を受け,全市が停電になりました。宣教者の一人は次のように書いています。

「空港が爆撃されてからは飛行機は入って来ず,郵便も来ませんでした。兄弟たちからは集会についての問い合わせの電話がひっきりなしにかかってきました。フアン・デ・ディオス・ペニャは午後に集会を開く取決めを設けました。……私たちはファイル・キャビネットを事務所の外側の戸のところに置きました。キャビネットがとても重かったからです。また,ホンジュラスの飛行機から空挺部隊が降りたといううわさが広まっていたので,支部のお金を隠しました」。

様々なうわさが乱れ飛んでいたので,何を信じてよいかだれにも分かりませんでした。米州機構(OAS)がエルサルバドルのコーヒーをボイコットすると言って脅したので,紛争は4日目に終わりました。死者は何千にも及んだと推定されています。また両国とも多くの残虐行為を行ないました。

何千人もの人がホンジュラスから避難してエルサルバドルに帰ってきました。その中にはホンジュラスに住んでいたエルサルバドル人の兄弟たちも幾人か含まれていました。そのほとんどは物質的なものを失っていました。帰国した人々の中に,ギレアデ学校を卒業した後ホンジュラスで巡回の奉仕をしていたマリオ・フロレスもいました。フロレス兄弟は帰国後間もなく,ギレアデ学校で知り合った姉妹と結婚し,二人はエルサルバドルで巡回奉仕をするようになりました。

戦争は確かに苦しい経験でした。しかし,兄弟たちが大会を終えて帰国しはじめると,国内にいた兄弟たちは安心し,帰って来た兄弟たちが携えて来る良い知らせすべてに注意を集中しました。

支部内の変化

支部の僕ロランド・モラレスは結婚し,その替わりとして,1969年にドメニク・ピコネが支部の僕になりました。ドメニクと妻のエルサはギレアデの第23期生で,卒業後モロッコで奉仕していました。そして,1969年5月に国外に追放されるまでモロッコの支部の僕を務めていました。ニューヨークの大会後モロッコへ帰ることができなかったので,エルサルバドルに任命変えとなり,1969年10月31日に到着しました。

エルサルバドルの支部で奉仕する人で,以前にもどこかの支部で奉仕した経験があるという人はピコネ兄弟が最初でした。また,モロッコへ行く前にスペインとポルトガルで奉仕したことがあったので,言葉や習慣にすでに慣れていました。ピコネ兄弟が手始めに行なった仕事の一つは,1970年1月に行なわれる「地に平和」地域大会の準備でした。その大会はまたもや国立体育館で開かれ,「近づく一千年の平和」と題する公開講演には3,850人が出席しました。

その数週間前の1969年12月16日に,支部の建物の増設工事が始まりました。15年前にその建物が建てられた時,ノア兄弟は,その建物の増設が必要となる程王国伝道者が増加することを楽しみにしていると語りました。ついにその時が来たのです。

2階に三つの部屋が増設され,下の階のペンキはすっかり塗り替えられました。また,建物の北側にあった縦11㍍横27㍍の土地がついに購入できるようになり,支部の敷地はすみまで広がりました。

1970年のほかの大会

1970年の10月と11月に,25の会衆から成る三つの巡回区がそれぞれソンソナテ,サンミゲル,ソヤパンゴで大会を開き,合計2,909人が出席しました。それらの大会で,ラウル・モラレスは地域監督として,マリオ・フロレス,フアン・マサリエゴス,フアン・デ・ディオス・ペニャがそれぞれ巡回監督として奉仕しました。バプテスマを受けた人の合計は83人でした。その大会の一つに,蒋介石政府の駐エルサルバドル大使で,当時エホバの証人と聖書を研究していた人が出席しました。

12月には,8回目の地域大会が国立体育館で開かれました。その月に野外奉仕に参加した伝道者数は1,785人でした。ところが,その大会で「愛は一致のための完全なきずな」と題する聖書劇が上演された時に出席者数は5,322人に増えました。これは,それまでエルサルバドルで開かれたどの大会をもしのぐ出席者数でした。また,ピコネ兄弟が行なった「王国によって,人類を救う」と題する公開講演には4,072人が出席しました。エルサルバドルで奉仕するために外国から来ていた大勢の兄弟たちは,出席者全員が気持ちよく,気楽に大会を楽しめるよう陰の力となって働きました。

驚異的な増加

会衆と孤立した群れの数が増加したため,1971年に4番目の巡回区を設けることが必要になりました。その年の毎月の平均伝道者数は1,949人で,前年を400名余り上回っていました。1966年の伝道者数はわずか995人でしたから,エルサルバドルの伝道者の約半数がその時から1971年までの5年間にエホバの証人になったというわけです。

1971年4月9日の主の記念式には7,924人が出席しました。つまり,エルサルバドルの34の会衆のそれぞれに,平均230名を超す人々が集まったことになります。それらの人のうち,象徴物にあずかって,キリストと共に地上を支配するという天的な希望を持っていることを示したのは二人だけでした。

新しい会衆が設立される

伝道者の増加に伴い,新しい会衆を設立することが必要となりました。必要の一層大きな土地で奉仕するために来ていた兄弟たちは活動において主要な役割を果たしていました。チャルチュワパに会衆が設立され,アポパの新しい会衆の監督にチャールズ・テイラーが任命されました。また以前宣教者としてボリビアで奉仕していたことのあるジョセフ・バックループがサンサルバドルの新しい会衆の監督に任命されました。さらには,ニューヨーク市で行なっていた害虫駆除の仕事を辞め,妻のエデルと一緒にエルサルバドルに来ていたロバート・ウルフが,首都の会衆の一つで会衆の監督の補佐に任命されました。1971年3月には,増加していたサンタアナの会衆が分会し,フアユアの群れは拡大して会衆になりましたし,サンミゲルの近くのエルプラタナルにも会衆が作られました。

孤立した伝道者の群れにも注意が向けられました。ジョン・トレヤーはサンサルバドルの東にあるコフテペケの町の群れを援助するため,1971年に首都を離れました。サンセバスティアンとイロバスコの伝道者たちにも注意が向けられ,その結果それぞれの場所に会衆が設立されました。現在証人たちはそれらの区域の人々を絶えず訪問しています。

奉仕するために外国から来た兄弟たちはエルサルバドルの兄弟たちに深く愛され感謝されています。それらの兄弟たちは時間や備品を提供し,野外奉仕で熱心に働いて多くの必要を満たしてくれました。

大統領の娘が真理を学ぶ

1967年3月,フィデル・サンチェス・エルナンデスがエルサルバドルの大統領に就任しました。その後間もなく,大統領の娘で十代になるマリナが神に関する真理を探し求めはじめました。その事情についてマリナはこう語っています。

「私は,無宗教の環境の中で育ちました。偽りの宗教の姿が明らかにされていたからです。父も母も,以前カトリック教会で個人的に経験した事柄のために同教会とは一切かかわりを持っていませんでした。

「父は私が13歳の時に大統領に就任しました。非常に著名な僧職者,司教や枢機卿のような人々が私の家の者と親密になることを強く願っていたのを覚えています。しかしそれは私たちを霊的に助けるものだったでしょうか。母は,国家的な公式の行事に関係のある場合だけしか教会の行事には参加しない,と率直に言いました。僧職者たちは私たちを霊的に助けることには一向に関心を示しませんでした。ただ,政治運動が行なわれていたり,国家の問題が起きたりした時だけ姿を現わしました。

「私はだれをも信用しないように訓練されていました。ある晩,父を大統領から失脚させようという試みがあった時,そのように不信感を抱くのは理由のあることだということを身をもって知りました。銃撃が始まった時家には父のほか私しかいませんでした。もう少しで弾丸に撃たれそうになった時には本当に生きた心地がしませんでした。私は神の存在を確かに信じていたので,神の助けを求めました。そして,もし命が助かったら,神を探し求め,見いだすように努力すると本気で約束しました」。

マリナは,導きを僧職者たちに求めることができませんでした。僧職者たちが政治に深くかかわり合いを持っていることを目撃していたからです。彼らは今や政府と反逆者との間の調停者となっていました。マリナはそのことにすっかり失望しました。では助けをどこに求めることができたでしょうか。マリナは,プロテスタントのいろいろな宗派や,幾人かのユダヤ人と少し交わりましたが,神を見いだせませんでした。それで,婚約者と共にエホバの証人との聖書研究に応じました。今日,二人はクリスチャンの幸福な夫婦としてエホバの民の一員となり,真に信頼し合える環境の下で霊的な兄弟姉妹たちと一緒に神に仕えられることを非常に感謝しています。

感謝された家族

1971年,ジョセフ・トレンブレーはエルサルバドルで奉仕するため,妻のナンシーおよび二人の子供ジェニファーとトニーと共にアメリカからやって来ました。ジョセフは真理を学ぶ以前ニューヨークでバレエの振り付け師の仕事をしていました。そして,エホバの証人である親族に会うためカリフォルニアへ行きました。そこでほかのエホバの証人と話す機会があった時に,自分の家族がエホバの証人の教えに添った生活をしていないことに気付きました。それでジョセフは調べてみることにしました。彼が発見したものは“人生の目的”でした。

真理が心に達すると,ジョセフはニューヨークにいる上司に電話をして仕事を辞めました。かつてこの世的な事柄を追い求めて使っていた体力や考えや時間のすべてを霊的な事柄に振り向けました。そしてジョセフとその妻は,霊的に忙しくすることで世の精神から自分たちの身を守る道を探そうと決めました。このような訳で,その家族はエルサルバドルに来ることになったのです。

忘れもしないことですが,ジョセフはある時特別開拓者の手当てが幾らかを尋ねたことがありました。その額を聞いて,ジョセフは,「それじゃあ,カクテルに入れるオリーブも買えないじゃありませんか」と言いました。その時ジョセフは自分もオリーブ入りのカクテルを飲めなくなる日が間もなく来ようとは思ってもみませんでした。開拓奉仕者になって9年経た現在,ジョセフの熱意や情熱は少しも薄れていません。その間にジョセフは幾つかの王国会館を建設し,大会の責任を担ってきました。現在の任命地であるメタパンでも最近新しい王国会館の建設に尽力しました。

エホバの証人協会

1945年から始められた,エホバの証人による宣べ伝えて弟子を作る活動は,法的な承認を受けられないまま行なわれていました。しかし1972年に「エホバの証人協会」がエルサルバドルに設立されました。その協会は法的な機関として,エルサルバドルの人々がエホバを知り,真のクリスチャンになるのを援助するという目的を遂行します。

その協会により,エホバの証人は大会ホールや宣教者の家はもとより,王国会館の土地家屋を購入することもできます。長年の間に,エルサルバドルには数多くの立派な王国会館が建てられました。その一つにサンマルコスの王国会館があります。その王国会館のために,ほぼ垂直に切り立つ岩場から岩が切り出され,その岩と鉄筋で壁が作られました。現時点で,大会ホールとサンタアナおよびサンミゲルの宣教者の家ほか,42の王国会館が協会の名義になっています。

サンミゲルに新しい宣教者の家と王国会館を建ててはどうかという考えを兄弟たちに抱かせたのは,1972年5月5日に来た5人の新しい宣教者の一人,アレハンドロ・ラカヨでした。1974年8月には,王国会館に付属した新しい家が使えるようになりました。それは,寝室が三つと台所,居間,パティオ,そして大きな入口のある快適な家です。奉仕活動の発展が比較的遅かったサンミゲルに,今では四つの会衆があります。

発展の勢いが増す

これまで何度も触れたように,エホバの証人の活動がエルサルバドルでよく知られるようになり,その結果,集会や大会の出席者が,実際のエホバの証人の3倍から4倍になることが少なくありませんでした。1970年代の初めから半ばにかけて,エホバの証人と交わっていたそれらの人々の多くがエホバに献身し,王国の音信を宣べ伝えはじめ,バプテスマを受けました。

1973年,王国伝道者数の平均は一挙に増加し,2年前をほぼ1,000人上回る2,854人になりました。ところが,さらに驚くべき増加が続いたのです。1974年,伝道者数の平均は飛躍的な増加を遂げて4,065人になり,最高数は4,535人に達しました。そして1,509人の新しい人々がバプテスマを受けたのです。しかし増加はそれだけにとどまりませんでした。

次の年にはさらに1,612人がバプテスマを受け,伝道者数の平均は目ざましく増加して5,124人になりました。ですから連続2年間1,000人を優に上回る増加が見られたのです。それから1976年には,984人がバプテスマを受け,王国のたよりを宣明する人の数もその年に大きく増加し,月平均5,632名を数えました。

こうして,わずか3年間で4,105名の新しい人がバプテスマを受けました。それでエルサルバドルのエホバの証人の数は,2,854名から5,632名へとほぼ2倍になりました。

増加する人々の世話

想像がつくと思いますが,このような驚異的な増加により,組織は新しい人々すべての世話をするために拡大せざるを得ない状態に置かれました。1972年から1973年にかけてのわずか1年間に,会衆の数は36から68に増えました。その次の年には会衆がさらに23増え,1976年までに会衆の数は118になりました。ですから,わずか4年間にエルサルバドルの会衆の数は36から118へと,3倍以上も増加したのです。組織内の新しい人すべてに対して霊的な援助を差し伸べる必要があったことは言うまでもありません。

会衆の増加に伴い,巡回区を増やす必要が生じました。それで,巡回監督として奉仕できる有能な兄弟たちも必要となりました。こうして,何年も前にウスルタン会衆を設立することに尽力した,かつての国家警備隊員カルロス・レエスとサムエル・スタゴが巡回の活動を行なうよう任命されました。増加が著しかったので,新しい巡回監督は必ずしも真理に長い経験を持つ人であるとは限りませんでした。

例えば,サウル・ロメロの場合,妻のグラディスの働きかけで聖書研究に関心を持つようになったのは1960年代の後半のことでした。しかし,真理を見いだしたとついに確信すると,それを心から受け入れました。そして1970年にバプテスマを受け,1971年2月に正規開拓者になりました。そして1975年には巡回監督に任命されたのです。

もっと巡回区を増やす必要がありました。しかし,協会の旅行する代表者としてだれが奉仕できるでしょうか。カルロス・ビリャヌエバとロベルト・グスマンという若い二人の特別開拓者がいました。経験に乏しかった二人は,忠実さと熱心な働きによってそれを補いました。今日エルサルバドルには137の会衆と23の群れがあり,それらは八つの巡回区に分かれています。

大会は増加を促す

地域大会や国際大会は引き続きサンサルバドルの国立体育館で開かれていました。これら年に1度の集まりは,王国を宣べ伝え弟子を作る活動に邁進するよう兄弟たちを大いに鼓舞しました。1972年の「神の支配権」大会で,会衆が“会衆の僕”ではなく“長老団”によって管理されるという新しい取決めに関する情報が詳しく与えられました。8年後の現在,エルサルバドルには合計182人の長老がいます。これは一つの会衆に平均して一人強の長老しかいないということになるので,円熟して資格のある援助者がこの国にはなお大いに必要とされていることがお分かりいただけるでしょう。

1973年12月に国立体育館で開かれた「神の勝利」国際大会はそれまでのうちで一番励ましとなる大会でした。その時までに1か月の王国伝道者の最高数は3,310人でした。では,その大会に何名の出席者が予想されるでしょうか。なんと1万788名もの大勢の人が体育館に詰め掛けたのです。ところが,さらに驚くべきことがありました。エホバのご意志を行なうべく自分の命をささげ,それをバプテスマによって公に表わしたいと願う人々が1,046名もいたのです。それはその年の伝道者最高数のほぼ3分の1に当たりました。確かに収穫は大きかったのです。

「神の目的」地域大会についてはどうだったでしょうか。その大会は1974年12月にやはり国立体育館で開かれることが予定されていました。会場は出席者を全部収容できるでしょうか。4月に行なわれた主の記念式は期待すべき事柄の手掛かりを与えてくれました。その式に合計1万5,836名が出席しました。それはわずか3年前のキリストの死の記念式に出席した人々のほぼ2倍に当たります。さて,その大会で行なわれた「人間の計画は失敗しているが神の目的は成し遂げられる」と題する公開講演には,会場の収容能力を超える1万2,125名という聴衆が詰め掛けました。エルサルバドルにおける弟子を作る業に関する限り,神の目的が成し遂げられていたことは確かなようです。

かつての政治家が変化を遂げる

1973年の「神の勝利」大会でバプテスマを受けた1,000人を上回る人々の一人にアティリオ・ガルシア・プリエトがいました。アティリオは,バルタサル・ペルラがオソリオ政権の下で働いていた時と同じころ,すなわち18年ほど前にオソリオ大統領の内閣の一員でした。バルタサルがエホバの証人になった時,アティリオは心の中で「この男は気が変になったに違いない」と考えました。しかし今では自分の方が狂っていたと考えています。

エホバの活発な僕となったアティリオは,12件もの聖書研究を司会しました。そして現在サンサルバドルの一つの会衆で長老として奉仕しています。1975年にアティリオはエルサルバドルで毎年知的職業人に与えられる賞を受けました。授与式の席上あいさつをしたアティリオは,より良い世界をつくることを常に強く願っていたと述べ,次いで聖書を引用しながら,大統領や閣僚たちを含む出席者全員に対して,神の王国のみがそのことを成し得ることを示しました。

地域大会のための調整

国立体育館も大会会場として小さくなったのですから,毎年の地域大会をどこで開くことができるでしょうか。体育館は大会会場として非常に理想的な所だったので,1975年の「神の主権」地域大会は同じ会場で日付を変えて2回開かれることになりました。サンサルバドルの諸会衆は一つの週に大会を開き,それ以外の土地の会衆は別の週に大会を開いたのです。兄弟たちはその二つの大会にノア兄弟が参加することを知って非常に喜びました。

それがノア兄弟の最後の訪問になるとは出席者のだれも知りませんでした。兄弟たちはノア兄弟との交わりを十分に楽しみ,滞在中に行なわれた宣教者の集まりや他の機会に与えられた兄弟の立派な霊的助言の意味をかみしめました。それから2年もたたない1977年6月8日,ノア兄弟はガンで亡くなりました。

大会会場にふさわしいステージを作るように頼まれたのはトレンブレー兄弟でした。トレンブレー兄弟は,その時特別開拓奉仕をしていたアウアチャパン会衆の兄弟たちの援助を得て,ボール紙と豊かな創造力とで,ステージの背景として美しい白い城を作りました。その城の上には偉大な主権者の座と冠がしつらえられていました。それは全宇宙を支配しておられるエホバ神の立場を表わすのに非常にふさわしいものでした。合計1万5,025人の出席者がプログラムを十分に楽しみました。

大会を2回に分けて開いたことが大成功を収めたので,1976年には三つの大会が準備されました。こうして1976年の「神聖な奉仕」地域大会はサンタアナ,サンミゲル,サンサルバドルの3か所で計画されました。したがってエルサルバドル中の人々が以前よりも楽に優れた霊的食物を得,すばらしい交わりを楽しめるようになりました。出席者の合計は1万3,203名でした。前回の大会より2,000人ほど少ない数でしたが,それでも,1976年の伝道者の最高数は6,010名でしたから,その出席者数はエルサルバドルの伝道者数の2倍を上回っていました。

支部はさらに拡張

組織の拡大に伴い,支部の施設をさらに拡張することが必要になりました。先にも述べましたが,1970年当時,支部の建物の前には,細長い土地がすでに購入してありました。しばらくの間そこの青々とした美しい芝生とまばらに植えられた花は,支部の建物を引き立てていました。しかし,1975年,ブルックリン本部の代表者としてロバート・ワレン兄弟が訪問した際,その土地に建物を増築する可能性が検討されました。

1976年,増築の設計が作成され承認されました。自発奉仕者の援助やすべての兄弟姉妹たちの協力により,増築部分は予想の半分の費用で造られました。ジョン・トレヤー兄弟および,必要の比較的大きなアウアチャパンで奉仕していたビセンテ・バルダラマ兄弟が増築計画に全時間携わりました。

こうして,1977年に新たな増築部分は使用可能となりました。事務所を,狭苦しい所から広くて換気のよい所へ移すのは大きな喜びでした。それまで廊下や寝室や浴室に置いてあった在庫文書は広い倉庫にきちんと収められました。こうした変化があったので,住居の部分でさえ新しくなったように思われました。

1977年12月に行なわれた「喜びに満ちた働き人」地域大会において統治体のミルトン・ヘンシェルは増築された支部の施設を献堂する話を行ないました。その大会も2回に分けて開かれ,サンサルバドルの国立体育館が会場として用いられました。その時の出席者の合計は1万3,615人でした。これは2年前の出席者の最高数を下回る数でしたが,エルサルバドル中でエホバの証人と交わる人々の数は増えていました。そのことは,1978年3月に行なわれた主の記念式に2万1,285名という多くの出席者があったことからも明らかです。

大会ホールが計画される

巡回大会のふさわしい会場を見付けるのに,兄弟たちは長年の間大変苦労しました。全員を収容できるほど大きな会場がないため,一つの巡回区が五つに分かれて小さな大会を開くこともありました。雨のしのげる場所が必要になる雨期には特に,大会会場を見付けることは困難でした。学校は大会の会場としては狭すぎる場合が多く,その上,学校の設備は必ずしも最善という訳ではありませんでした。また,例えば兄弟たちは次のような問題を経験しました。

ある時兄弟たちが大会のプログラムを聴くために集まっていると,軍楽隊がステージの前に陣取り,国歌を演奏しはじめました。その土曜日の朝は,音楽のプログラムのために生徒が幾つかのグループを作って集まっていたのです。エホバの証人に学校を使わせることを快く思っていなかった一人の教師が事を運び,生徒たちに聴かせる目的で軍楽隊に演奏させたものと思われます。1時間位して軍楽隊は帰り,子供たちも少しずつ下校しました。そのあと,大会のプログラムが,エホバの賛美の歌とそれに続く祈りをもってふさわしく始まりました。これは6か月に1度の霊的宴を備えるために兄弟たちが経験した苦労のほんの一例にすぎません。

何か良い解決策はないでしょうか。八つの巡回区が活動していましたから,エルサルバドルに一つの大会ホールを建てることは理にかなったこと,もしくは可能なことではないでしょうか。

ヘンシェル兄弟が「喜びに満ちた働き人」大会に出席するために訪問している時に,その件について話し合いが行なわれました。それからその意見が文書の形で統治体に提出されました。適当な価格の土地を探すことはすでに始められていました。やがて,サンサルバドルの一人の兄弟がイロパンゴ湖の近くにある,独自の水道設備を持つ土地を提供してくれました。それは非常に広い土地で,価格も適当なものでした。その土地を購入し計画を進めるために,多くの兄弟が惜しみない寄付をしました。

エホバの証人の統治体からはどんな解答があったでしょうか。次のような質問が寄せられました。エルサルバドルの兄弟たちはその計画を支持するだろうか。必要な資金を貸付けることができるだろうか。それで,その問題は同国の協会役員に提出され,次いで文書によって会衆に提出されました。会衆は力強く「はい」と答えました。そこでその計画を全面的に実施することが決まり,そのことに対する指示をエホバに求めることになりました。

新しい学校が組織される

1977年12月の「喜びに満ちた働き人」大会に続き,開拓者のための特別な学校および新たな王国宣教学校が計画されました。1962年以来王国宣教学校がずっと開かれていました。会衆の責任を持つ兄弟たちは周期的に出席するよう招待されました。1978年中,エルサルバドルの長老と奉仕の僕たちすべてはこの15時間に及ぶ新しい教育課程に出席しました。教訓者は4人の支部委員と二人の有能な兄弟でした。三つのクラスが同時に開かれたので,1か月以内に全員が出席することができました。

その学校が終わるか終わらないうちに,開拓者のための学校が始まりました。1977年6月の半ばまでに,開拓者の名簿に載せられて最低1年を経過したエルサルバドルの開拓者全員に,その十日間にわたる特別の課程を受講する機会が与えられました。エホバが組織を通して与えてくださったそのすばらしい備えに対して,エルサルバドルの開拓者たちはエホバに深く感謝しました。

エルサルバドルの変化

長年の間に,エルサルバドルの様相や習慣は変わりはじめていました。その一つとして,1945年に150万人だった人口が1980年にはおよそ500万人に増えました。とりわけ首都では,古いアドービれんが造りの家に代わって近代的で明るい色のセメントブロックの家が立ち並ぶようになりました。また至る所で新しい発展が見られるようになり,仕事が豊富になって賃金も上がりはじめました。多くの人が都市に仕事を求めて農村地帯から離れはじめました。

やがて,サンサルバドルは多くの点で北アメリカの近代的な都市に似てきました。1960年代には,ハンバーガーはほんの数か所で売られている,旅行者相手の極めて“アメリカ的な食べ物”の一つとされていました。ところが,1970年代の終わりになると,“マクドナルド”とか“ハーディーズ”といった即席料理<ファースト・フード>の店が,旅行者ばかりかエルサルバドルの人を相手にハンバーガーやフレンチフライを売って大いに繁盛するようになりました。経済競争のために,“ロスチョロス”と呼ばれる熱帯公園とかコアテペケやイロパンゴの湖などのようなかつては旅行者しか行かなかった,市の様々な場所に遊園地が次々と出来ました。サンサルバドルの南東部からサンハシント山の頂上までお客を運ぶケーブルカーも造られました。山頂では,遊園地で遊ぶこともできますし,目をみはるようなサンサルバドルの景色をながめることもできます。人を楽しませるものは確かにたくさんありました。

しかし,物価が急騰しているので,そうしたものを楽しむにはかなりのお金を持っていなければなりません。例えば,トウモロコシの粉で作った丸いケーキにチーズや肉や豆をはさんだ代表的な食べ物ププサの値段は1960年代の少なくとも四,五倍になりました。典型的なププサとバナナのフライとコーヒーという食事を家族にさせるには,普通の家庭ではかなりの出費になります。

さらに,幹線道路が新設されたり,道幅が広げられたりしたため,長年の間何千人もの貧しい人々の住居となってきた宿屋や掘っ立て小屋が取り除かれました。サンサルバドルの南方およそ35㌔の所に新“エルサルバドル”空港が建設され,空港に行く便を良くするため4車線の幹線道路が新設されました。1960年代の初めには,自動車はほんの一部の人だけが持つぜいたく品でしたが,1970年代の終わりには,市の通りの至る所をアリのように群れをなしてけたたましく走るようになりました。運転手がほっとできるのは市の外の比較的静かな道路に入った時だけです。

この国の宗教事情もやはり変わりました。昔はプロテスタントの諸宗派は常に少数派で,カトリックの勢力のためにすみに押しやられていました。しかし,最近,人々は一般に僧職者が政治に介入することに反感を抱くようになっており,多くの人は何かほかのものを探し求めています。そういう訳で,近年次々に現われた多くのプロテスタント諸宗派の方を好み,カトリック教会を捨てた人は少なくありません。しかし,実際のところ,カトリックもプロテスタントも,真理を学びたいと誠実に願う人々を満足させてはいません。

かつての熱狂的な宗教心は,真のキリスト教には似つかわしくない無関心に徐々に変わりつつあります。カトリックは,下り坂の傾向を食い止めようとして,幾つかの宗派の宗教的な慣行を取り入れはじめ,多くの場所で像の使用をやめるようになりました。宗教上また他の点での変化は人々の生活に影響を与えました。とりわけ1975年以来,快楽に対する強い欲望や,人間の法律および神の律法に対する敬意の欠如の犠牲者になる人々が出るようになりました。

クリスチャン会衆にはどんな影響が及んだでしょうか。エルサルバドル支部は次のような注目すべき観察をしています。

「真のキリスト教の道を歩んで来た人々さえ影響を受けています。兄弟たちの中には,個人的な事柄を追求する妨げになるという理由で会衆でのクリスチャンの特権を放棄した人もいます。また,自分の経済的な立場をもっと有利にするため外国へ行った人々もいます。

「エホバへの奉仕に全時間ささげることに若い人々の関心を向けさせるのはますます難しくなりました。世俗の仕事や勉強のために王国奉仕が締め出されるようになってきていますし,以前はエホバや他の人々への奉仕に費やされていた時間や体力が今では多くの場合自分の個人的な欲望を満足させることに振り向けられています。真理を心から受け入れていないような人,目ざめ続けていないために信仰やエホバの約束に対する確信を失った人は,確かにこうした今の時代の犠牲者になっています」。

言うまでもなく,エルサルバドルの神の民の大半は霊的な強さを保っています。それらの人々は宣べ伝えて弟子を作る活動に熱意を込めて携わり続け,働きのすばらしいその実を引き続き得ています。

大会会場の変化

エルサルバドルにおける1978年の王国宣明者は6,017人という最高数に達しました。そのような増加のため,国立体育館はもはや巡回大会の会場にしか向かないように思われました。もっと大きな施設を見付けることが必要でした。国立体育館からわずか二,三区画離れた所に,改装したばかりのフロルブランカ国立スタジアムがありました。1978年12月27日から31日にかけて開かれた「勝利の信仰」国際大会の会場はその国立野球場に決まりました。

スタジアムは大抵屋根がありません。したがってプログラムは午後と夜に開かれ,午前中は野外奉仕や外国から来た兄弟姉妹たちのためのプログラムが行なわれました。そのプログラムの呼び物として,時折代表的な民族舞踊が披露されました。外国からの訪問者の数は1973年の国際大会の時の訪問者数には達しませんでしたが,金曜日の午前中の野外奉仕に参加した人々は,エルサルバドルの兄弟たちにとって確かに大きな励ましとなりました。エルサルバドルの多くの兄弟姉妹たちは今でも外国の兄弟姉妹たちと奉仕して楽しんだ時のことを語ります。

その国際大会の主要な話し手は統治体のグラント・スーターでした。スーター兄弟はスペイン語を話しませんが,兄弟たちはスーター兄弟の姿に接し,またスペイン語に通訳される兄弟の話を聴いて励ましを受けました。大会出席者の最高数は1万1,109人に上り,バプテスマを受けた人の数は合計470人でした。

増加の傾向を取りもどす

1978年12月の「勝利の信仰」大会のすぐ前の数か月間は王国宣明者の数が減少傾向にあり,兄弟たちの多くはそのことを心配していました。ところが,国際大会はちょうど必要としていた励ましとなりました。それで,1979年1月には伝道者数は6,058人となり,それはエルサルバドルの新最高数でした。以来,着実な増加が見られています。

1979年には合計22の巡回大会が開かれ,出席者の総数は2万4,794人でした。さらに10月に王国伝道者の数は6,528人と飛躍的に増加しました。その後11月に兄弟たちは統治体のアルバート・シュローダー兄弟の地帯訪問からすばらしい励ましを受けました。諸会衆はサンサルバドルの国際広場にある円形の会場で行なわれたシュローダー兄弟の特別な話に招待されました。涼しくて気持ちの良いその夜,星の輝く空の下で,驚くべきことに7,127名の人が集まりました。

「生ける希望」地域大会

それから約1か月後の12月29日から1月1日に開かれた「生ける希望」大会は,兄弟たちをさらに鼓舞するものとなり,兄弟たちはエホバに仕える決意をゆるぎないものとするよう励まされました。この度もサンサルバドルのフロルブランカスタジアムが会場として用いられました。その年に兄弟たちが熱心な精神を示していたことは,大会の組織が形を整えてきた時に明らかになりました。出席者の最高数は1万1,939人で,前年の国際大会の出席者数を830人上回っていました。

エルサルバドルの国状は混乱していましたが,スタジアムの中は平和そのものでした。しかし,夜の聖書劇で父なし子の役をした若い兄弟の身に起きたことは,外部がどれほど危険かを示しています。その兄弟は別の兄弟と短い散歩に出掛けました。劇の衣装を着けるためスタジアムにもどる途中,ナイフを握った男に持ち物を出せと言われました。兄弟は時計や金銭その他の所持品をいさぎよく渡したのですが,背中をナイフで刺されてしまいました。大会の救護で手当てを受けたところ,すぐに医者に診てもらうようにと言われました。しかし,その兄弟はほかの人に何も言わずにそっと劇の支度をして,けがのことなど少しも知らない聴衆を前に,痛みをこらえて自分の役を務めました。

政治的な問題のために国が分裂しはじめたので,犯罪や暴力が普通のことになりました。大会中にもっと大きな問題が起きることが予想されましたが,万事がうまくいき,兄弟たちは何の支障もなく家に帰りました。

新設された大会ホール

次の一連の巡回大会は主として,イロパンゴ湖付近に建設中の新しい大会ホールで開かれるという発表がなされるに至って,「生ける希望」大会は最高潮に達しました。1977年に大会ホールの件が提案されて以来,多くの兄弟たちはその計画を実施するために時間や努力を無償でささげました。すべては不完全な人々によって行なわれていましたから問題もありましたが,それらは克服されました。

日曜日1日を使い会衆ぐるみで建設の手伝いをするということが時々行なわれました。また,建設資材を購入したり,兄弟たちでは行なえない仕事をしている業者に支払ったりするための資金を惜しみなく寄付しました。エホバの証人でない人々でさえ喜んで助力してくれました。ですから,二,三か月のうちに大会ホールを使用する計画があるという発表がなされた時,スタジアムにわれるような拍手が起きたのも不思議ではありません。

1980年3月1日,大会ホールでの最初の巡回大会に,にこやかな兄弟姉妹たちが何台ものバスを連ねてやって来ました。建設が完了するまでにはまだなすべきことが多くありますが,これまで示された協力やエホバの霊の支持があることを示す証拠から判断するなら,計画が間もなく完了してエホバの賛美となると信じてまず間違いありません。

政治的な大動乱

1979年の後半,エルサルバドルの政治的不安は,3万人の命を奪った最近のニカラグアの紛争に似た本格的な内乱へと変わりそうな気配でした。10月にエルサルバドルの大統領カルロス・ウンベルト・ロメロ将軍は無理やり辞職させられ,替わって5人の指導者から成るフンタが政権を執りました。

政権が変わったので,1979年中エルサルバドルで幾百人もの命を奪った暴力沙汰に終止符が打たれるのではないかという期待が高まりました。しかし暴力的な行為は増えるばかりでした。革命グループによって教会,大使館,政府その他の建物が占拠され,人々が人質になりました。わたしたちの兄弟姉妹を含め罪のない人々が無節操な人々の犠牲者になる場合も少なくありませんでした。

例えば,一人の若い姉妹が男性ばかりのグループと一緒に人質になりました。その姉妹は勇敢にもその機会を利用して,自分が働いていた事務所を占拠している人々にも,また一緒に人質になっている人々にも証言しました。二,三日して,それらの人質は何の害も受けずに釈放されました。一緒に人質になった人々は,その若い姉妹の祈りや霊的な強さのおかげでその経験に耐えることができたと述べました。この姉妹の勇気は,他の人々が見倣うことのできる立派な手本です。

暗殺や爆撃は日常茶飯事となっています。実業家は恐ろしさのあまり続々とエルサルバドルを離れています。アメリカの実業家ダグラス・バーナードは次のように伝えています。「役人,民間人を問わず有能な指導者たちが毎日国外に出て行く。彼らは査証<ビザ>をもらうため午前4時からアメリカ大使館の前に並んでいる。手回しのよい実業家たちは,パラグアイ,エクアドルあるいはボリビアに新天地を求めグループを作って出て行く。彼らはエルサルバドルに見切りをつけたのである」。

したがって,商店も工場も閉鎖されており,人々はあらゆる方法を講じて,エルサルバドルの通貨を,ほかの国でも通用するお金に替えようとしています。こうした事情のため,仕事は少なくなり,同時に物価はうなぎ登りに高くなっていきました。その結果,恐れに満ち,犯罪を生みやすい環境が生まれました。

マクドナルドのような店は暴徒に襲われました。暴徒がそのような店の一つを襲い,全員表に出るように命令した後,周りにガソリンをかけて店を全焼させてしまったこともあります。銀行が爆破され,スーパーマーケットも爆破されて焼かれました。またバスも焼き討ちに遭い,仕事場や家や路上で人々は撃ち殺されました。

政府や警察は過激派に支配権を奪われないようにすることで手いっぱいでした。そのため,一般の人々は,自分勝手に制裁を加える人々から保護されることがありません。エルサルバドルからは法と秩序が失われてしまいました。例えば,多くの人は信号が赤になっても止まろうとしません。それというのも,車の中で信号が青になるのを待っていると,強奪されたり,悪くすると無理やり車を奪われたりすることがよくあるからです。

小さな商店や会社は幾度となく,「金をよこせ,さもないと焼き討ちをかけるぞ」と脅されました。人々は,通りを歩かなければならない時には,時計や有価証券,それに所持金のほとんどを家に置いていくようにしています。バスの中で強盗がナイフを取り出し,他の人が見ている前で公然と,有り金を全部出せと言うことは珍しくありません。

兄弟たちが殺される

1979年10月にフンタが権力を執ってしばらくの間,世情は一層悪い方向に変わったように見えました。サンフアンオピコ会衆の奉仕の僕だったホルヘ・ハズケス兄弟とエウヘニオ・ハズケス兄弟は,12月に開かれることになっていた「生ける希望」地域大会に出席する資金を得るためにコーヒー摘みをすることにしました。大きな農場で1週間ばかり働いているうちに二人は,労働者の多くがコーヒーを摘むことにあまり気がないような様子に気付きました。その人たちは社会の不正や変化の必要について話すことに大部分の時間を費やしていたのです。兄弟たちは彼らには加わらず,コーヒーを摘むという自分の仕事に専念していました。

1979年12月17日の月曜日,コーヒーを摘んではならないという発表があり,多くの労働者を驚かせました。その日,農場はゲリラの一味の支援を受けた農場経営者たちによって乗っ取られたのです。コーヒー摘みの労働者1,500人は無理やり農作業をやめさせられてざんごう掘りをさせられました。翌朝,兵士と戦車から成る軍隊が到着し,反政府分子の一団に対し降服するように求めました。それが発砲をもって答えられたので,軍隊は攻撃を開始しました。

戦闘は2時間半続き,農場は荒廃の地と化しました。老若を問わず死体が地面に木の葉のように散らばっていました。二人の兄弟も殺されました。生き残った人々が後に語ったところによれば,二人は武器を取ることを拒み,完全な中立の立場を固守したということです。そのために二人は臆病者のレッテルを貼られ,戦いが一番激しい所へ送られました。

犠牲者の夫や妻や友人たちは,愛する人々がどうなったか皆目分かりませんでした。犠牲者は皆一つの共同墓地にほうり込まれたといううわさが流れはじめました。十日後,土まんじゅうの下に26の遺体が発見されました。それがだれであるか見分けが付きませんでした。何時間も捜したあげく,ホルヘとエウヘニオの遺体が見付かりました。

痛ましいことに,その二人の兄弟の妻たちは,家の頭の援助と保護がないため,厚かましいどろぼうの犠牲となり,作物を奪われてしまいました。しかし,会衆が援助に赴き,地域大会が開かれる時には,二人のやもめの姉妹も会衆の兄弟たちと一緒に出席することができました。

さらに次のような例があります。1980年3月,サトウキビ加工工場で農学の専門家として働いていた,サンサルバドルの一会衆の長老はいつもの時間に帰宅しませんでした。その晩は神権学校と奉仕会が行なわれることになっており,その兄弟は金曜日の夜はいつも集会に間に合うように帰るため特別の努力を払っていました。ところがその晩だけでなく,それ以来ずっと帰宅しなかったのです。家族やクリスチャンの兄弟たちはその兄弟の足どりをつかむために八方手を尽くして調べましたが,兄弟の居所は分かりませんでした。1週間後,その兄弟は,同僚と一緒に冷たいむくろとなって発見されました。

その兄弟がなぜ無残にも殺されたかは今もってなぞのままです。しかし,その兄弟が国の政治にかかわりを持たなかったことはよく知られていました。復活という確かな希望があり,その兄弟のような忠実な僕を生き返らせてくださるというエホバの約束を知っているのは確かにすばらしいことです。

暴力を阻止することに失敗

1980年3月,政府は非常事態を宣言し,幾つかの権利を制限しました。その結果,公共建築物を占拠することはなくなるものと思われました。また沿道の商店すべてにとって脅威だった,破壊活動分子のグループのデモ行進も行なわれなくなると考えられました。しかし,非常事態が宣言されても,人々の心の中の暴力的な傾向は改まらず,そのことは,暗やみに乗じてあるいは仮面をかぶって行なわれる彼らの行動に表われています。

1980年3月24日,カトリックの大司教オスカル・アルヌルフォ・ロメロ・イ・ガルダメスは宗教的な務めであるミサを執り行なっている時に暗殺されました。暴力はさらに激増し,恐怖はとみに深まりました。その夜エルサルバドル全国の様々な建物は爆弾の炸裂によって揺さぶられました。一人の兄弟は戸別の伝道活動に励んでいる時,破壊活動分子の一味に捕まり,その一味に加わらなければ殺すぞと脅されました。兄弟は確固とした立場を取り続け,ひどい仕打ちを受けた後,やっと自由になることができました。

3月30日,そのカトリックの大司教の葬儀のためサンサルバドルの大聖堂前の公園に何千人もの人が詰め掛けました。葬儀に出席した,法王の特別の代表者が群衆に向かって話をしていると,突然,自動車に焼き討ちがかけられ銃撃が始まり,その場は大混乱となりました。安全な場所に逃げようとしてカトリック教徒が仲間のカトリック教徒を踏みつけました。死者や負傷者が出たことは,エルサルバドルが直面している政治的な問題の深刻さを如実に物語っています。この国では,政治的な目的のためなら,人命の犠牲などは何の意味もなさないのです。

エホバの民はどうしているか

こうした騒乱のさなかにあって,エルサルバドルのエホバの民は,その問題のために大会や会衆の集会に出席しなくなるとか,野外奉仕に出掛けなくなるとかいうこともなく,ひたすら前進を続けています。むしろ,エホバへの奉仕に一層多くの努力を払っていると言えます。宣教者の一人は1980年5月,ブルックリンベテルの一成員に次のように書き送りました。

「私たちは皆銃撃や爆撃の音に慣れてしまい,それらの音を聞いてもあまり興奮しなくなりました。新聞の報道はいつもおおげさで,実際は新聞に書かれているほどひどくはありません。無論大勢の兄弟たちから,集会が取り消しになるかどうか電話で問い合わせがありますが,私たちはいつも集会を開いています」。

こうして,大司教の葬儀の騒ぎがあった次の日,主の記念式が開かれました。そこに出席したエホバの民とその友人たちの数は記録的なものとなりました。一般の人々が通りに出ることを恐れていた3月31日月曜日の日没後,2万7,319人の人々は勇敢にも集まりに出席したのです。それは,それまでのエルサルバドルの主の記念式の出席者数を5,000名余りも上回る数でした。

また兄弟たちは,エルサルバドルの打ちひしがれた人々に,唯一の真の希望の音信である神の王国を伝えて慰めることにすばらしい熱意を示しています。1980年1月,伝道者は新最高数の6,655名になりました。その後2月には6,690名,3月には6,721名,4月には7,008名と新最高数が続き,関心のある人々と毎月行なわれる聖書研究は8,000件を超えています。この世の前途は暗くなるばかりですが,神権的な面の増加の見込みはなお一層明るさを増しています。

エルサルバドルの35年にわたる神権的な歴史に何千人もの人が登場しました。その間大勢の人が現われては去りました。エホバの民がエホバへの奉仕を続けていくとき,これからもきっと変化が見られるに違いありません。エホバはローマ 8章28節で,ご自分の愛する者たちのためにそのすべてのみ業をともに働かせるということを約束しておられますが,わたしたちはそのエホバに全幅の信頼を寄せています。エホバはご自分の預言者イザヤを通して,こう約束されました。「小さい者が千となり,小なる者は強大な国民となる。わたしが,エホバが,その時に至って速やかに事を行なう」― イザヤ 60:22,新。

1945年2月24日にエルサルバドルに来た二人のエホバの証人は確かに,幾千人もの証人になりました。なぜなら,1980年5月の報告によれば,エルサルバドルでは7,156名の王国宣明者が良いたよりを大々的に宣べ伝えているからです。この業に参加する特権を得てきた人々はすべて,エホバに深く感謝しています。そして今後の神権的な歩みにもさらにエホバの祝福があるようにと願っています。

[37ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

エルサルバドル

グアテマラ

ホンジュラス

太平洋

メタパン

テクシテペケ

サンタアナ

チャルチュワパ

サンハシント

テフテペケ

アウアチャパン

ケサルテペケ

イロバスコ

フアユア

アルメニア

ソヤパンゴ

アポパ

コフテペケ

ソンソナテ

サンサルバドル

サンセバスティアン

サントドミンゴ

サンラモン

アカフトラ

サンマルコス

イロパンゴ湖

サンティアゴテクサクアンゴス

サンフアンタルパ

ベルリン

サンティアゴデマリア

サンミゲル

ウスルタン

ラウニオン

[36ページの図版]

西暦前2000年のものと言われる,十字架のしるしのある石の遺物。エルサルバドル出土

[40ページの図版]

献身しバプテスマを受けたエホバの証人となった最初のエルサルバドル人,アントニオ・モリナ・チョト,69歳。

[44ページの図版]

エルサルバドルのクモ。フィート尺と人の手で大きさを比較。

[47ページの図版]

エルサルバドルで長年の間王国のための活動に率先した,ギレアデの卒業生チャールズ・ビードル

[48ページの図版]

サンサルバドルに任命されたギレアデの卒業生ジュリア・クログストン(左)とシャーロット・ボーウィ・シュローダー。現在二人ともブルックリン・ベテルで奉仕している

[66ページの図版]

エホバの証人になった政府職員,バルタサル・ペルラ。息子のバルタサル2世は現在ブルックリン・ベテルで奉仕している

[71ページの図版]

高齢の家長アブラアム・ペニャと二人の息子。アブラアムは,彼の大きな家族にとって真の崇拝を推し進めるうえでの励ましとなった

[79ページの図版]

少年のころ,霊的な事柄に際立った認識を示し,後年数々の奉仕の特権を得たラウル・モラレス

[84ページの図版]

夫のアブラアムに先立たれ,97歳で死ぬまで忠実だったルガルダ・ペニャ

[92ページの図版]

政府のメンバーと非公式の会談をする大司教。メンバーの一人ルベン・ロサレス(右から5人目)は現在エホバの証人になっている

[101ページの図版]

エホバの証人の大会会場としてしばしば使用されたサンサルバドルの国立体育館

[104ページの図版]

1965年5月,震災に遭ったサンサルバドル

[115ページの図版]

1969年支部の僕となり,現在支部の調整者として奉仕しているドメニク・ピコネ

[127ページの図版]

正面に増設部分が付されたサンサルバドル支部の建物

[136ページの図版]

イロパンゴ湖の近くに建てられた新しい大会ホール。1980年3月に初めて大会が開かれた