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ベネズエラ

ベネズエラ

ベネズエラ

ベネズエラのことを知るにつれて,世界旅行をしているように思えるかもしれません。どんなものが目に映るでしょうか。インディオがジャングルの中で槍を持って狩猟をしているのを目にするでしょう。身なりの良い婦人が高級ブティックでショッピングをしていますし,観光客が晩のパーティーでアフリカ風の太鼓の音に合わせて踊っています。幼い男の子が,身にまとったポンチョを手繰り寄せて向かい風の冷たい山おろしを防ぎながら,駆け足で羊を駆り集めています。そして,様々な背景を持つ7万1,000人を超えるエホバの証人が,老いも若きも,まことの神とその王国について他の人に語ることに励んでいます。

ベネズエラ人の大部分のルーツは,インディオとスペイン人とアフリカ人の混血です。第二次世界大戦以降は,イタリアやポルトガルやスペインからヨーロッパ系移民が大勢やって来て,人口の中で注目すべき部分になりました。そして,至る所に若者が大勢いるのを見て驚かない人はいないでしょう。

ベネズエラは南米の北岸に位置しており,確かに著しく対照的なものの存在する国です。カリブ海に沿って延びる約2,800㌔の海岸線は,熱帯特有の風がそよそよと吹き,雪を頂く山々や樹木の茂るジャングルと対照を成しています。リャノと呼ばれる広大な平原があるかと思えば,約600㍍を一気に流れ落ちるクケナンの滝や,上方の岩盤質の台状地に源を発する地下水脈から979㍍下まで落ちる,世界一高いアンヘル滝(エンゼル滝)など,息をのむほど美しい滝もあります。首都のカラカスは人口約400万の近代的な大都市で,洗練されたショッピングセンターも幾つかあります。内陸部とはよく整備された道路網で結ばれています。もっとも,カラカスの繁栄ぶりを見下ろしながら,山腹にある無断居住者の部落で暮らしている人も大勢います。

ベネズエラの宗教的な風土

ベネズエラ人は大多数がローマ・カトリック教徒です。といっても,教会はもはや人々に対して昔のような支配力を持っていません。先住民のインディオは,大抵名ばかりのカトリック教徒で,アフリカ系住民と同様に,独自の儀式や迷信を持っています。この国では呪術や心霊術は極めて一般的です。多くの人は悪魔の目から身を守るためにお守りを身に着けています。ブードゥー教に似たマリア・リオンサ教が広まっていますし,福音派の教団も人数が増えています。

ベネズエラのカトリック教徒の生活の中では,“聖人”や“童貞”が重要な役割を果たしています。地域ごとに独自の“聖人”や“童貞”がおり,ほとんどの家に宗教画が飾ってあります。玄関の扉の上に邪悪な霊を追い払う木の切り枝があったり,家の人の保護になると信じて聖書の詩編 91編を開いて机の上に置いたりしている家もあります。

お気に入りの“聖人”の絵の隣には大抵,シモン・ボリバルの絵が飾ってあります。ボリバルとは,ベネズエラと南米の他の4か国にスペインの支配からの独立をもたらした人物です。この人が尊敬されている証拠として,ここベネズエラには,シモン・ボリバル国際空港やシモン・ボリバル大学,シモン・ボリバル通り,ボリバル市,ボリバル州があります。通貨も,ボリバルです。ベネズエラのどの町にも中央広場があり,ほとんどすべてがボリバル広場と呼ばれています。ボリバルが語ったとされる言葉が,公共の壁に入念に書かれているのをよく見かけます。

しかし,このことに加えてベネズエラ人の際立った特徴となっているのは,神に対して深い敬意を抱いていることと,聖書を信じると公言していることです。霊的な事柄を話したがっているということでからかわれることは滅多にありません。この受容性に富んだ態度は,エホバ神とその目的に関する真理の種を植えるのに適した肥沃な土壌を生み出しています。

真の宣教者精神を抱いた女性たち

世界の大部分が第一次世界大戦によってもたらされた状況に対処しようとまだ努力していた時,そしてアドルフ・ヒトラーがヨーロッパで騒動を起こしていた時,米国テキサス州に住むエホバの証人で,ケイト・ゴアスという名の女性とその娘マリアンの二人は,聖書に収められている平和の音信を広めるためにさらに多くのことを行ないたいと決心しました。二人は,ニューヨークのブルックリンにある,ものみの塔聖書冊子協会の本部に手紙を書き,スペイン語の知識を持っていることを説明して,どこで働くのが最善かを尋ねました。任命地はどこになったでしょうか。ベネズエラです。

二人は1936年に船で到着し,当時人口が20万人の首都カラカスに部屋を借りました。すでに10年以上前に,聖書研究者 ― 当時エホバの証人はその名称で知られていた ― 数人がベネズエラを訪れ,主要諸都市で聖書に関するパンフレットを何千枚も配布していましたが,ベネズエラにとどまりませんでした。しかし,ケイト・ゴアスとその娘はベネズエラに短期間滞在するためにやって来たのではありませんでした。ケイトは,どちらかというと上品できゃしゃな感じの人でしたが,戸口から戸口を訪れるときには出版物を詰めた大きなカバンと蓄音機を持ち運びました。その親子はカラカス全体を組織的に網羅し,それが終わると内陸部に移動して,ほこりっぽい未舗装の道路をバスで遠くまで旅行しました。二人は,東部のキリキレやエル・ティグレやシウダード・ボリバル,西部のマラカイボといった土地で宣べ伝えました。

しかし,二人は1944年7月に米国に戻らざるを得ませんでした。マリアンがマラリアにかかったためです。ケイト・ゴアスは,1944年8月2日付の協会への手紙の中で次のように書いています。「私たちは出版物をたくさん配布しました。……共和国のほぼ全域で証言をした後も,わたしたちの出版物が気に入って,私たちが訪れる度に出版物を読んでくださる方に引き続きお会いします。……カラカスで2年間ずっと証言を行なった結果,今では7人の人が,つまり6人の姉妹と一人の兄弟が,義の側に立場を定め,バプテスマを受けています。……これらの兄弟たちは,クリスチャンとしてエホバとその王国について知ったことをとても喜んでいます。……カラカス全体で実際,何度も何度も良い証言が行なわれており,出版物の内容はよく知られています。……神権政治のために働く,ケイト・ゴアス」。ここで言及されている一人の兄弟とは,ルベン・アラウホのことです。この兄弟については,後に取り上げます。(ちなみに,ゴアス姉妹からバプテスマを受けた7人は,バプテスマがエホバとの是認された関係にある男子によって施されることを示す聖書の型に調和して,1946年に兄弟によってもう一度バプテスマを受けました。)

証言を拡大する土台を据える

ケイト・ゴアスが協会に手紙を書いた時,ブルックリンでは,ものみの塔ギレアデ聖書学校で訓練を受けた宣教者をベネズエラに遣わす計画が立てられていました。当時ものみの塔協会の会長と副会長だったネイサン・ノアとフレッド・フランズは,中南米での宣教者の業を拡大する下地を作るために繰り返し中南米を訪れました。ベネズエラには1946年に訪問することが計画されました。ギレアデ学校を卒業した3人の宣教者がベネズエラに任命されていましたが,その時にはビザが下りていませんでした。1946年4月9日から12日にかけて予定されていた会長の訪問の段取りはだれがするのでしょうか。

3人の宣教者のうちの一人が観光ビザで事前に派遣されました。彼は飛行機で到着し,ケイト・ゴアスから真理を学んだジャネット・アトキンスという,もてなしの精神に富む人の家に滞在しました。しかし,到着してから3週間後,その宣教者は謎の失踪を遂げました。家主の女性と友人たちは警察や航空会社に問い合わせを行ない,結局,その宣教者がひどいホームシックで米国に戻ったことが分かりました。

しかし,その出来事が起きる前に,ノア兄弟とフランズ兄弟はベネズエラの群れに極めて有益な訪問を行ないました。ルベン・アラウホは,兄弟たちが到着したその日にジャネット・アトキンスの家の中庭で集会が開かれ,訪問した兄弟たちの話に22人が耳を傾けたことを覚えています。

出席者の中には,良いたよりにすっかり奮い立たされていたペドロ・モラレスがいました。彼は後にこう言っています。「1930年代の終わりごろ,私はマラカイボの中央市場でケイト・ゴアスとケイトの娘から「富」という本を入手しました。数年後,その本を読み始めて,聖書が分かるようになりました。ふさわしい者の額に印を付けるという部分に来たときには,心が燃えて,矢も盾もたまらなくなりました。(エゼキエル 9:4)それでこの本を持っている人たちを探し始めました。トリニダードの人から書籍を受け取っていた人たちを4人見つけました。私たちはそれぞれの家を順番に集会場所として使い,毎晩集まって,「富」の本を研究しました。

ペドロは,ノア兄弟の訪問中に集会が開かれるので,カラカス(約700㌔離れていた)まで来るように招待を受け,一人の友人と一緒に行くことにしました。しかし処理しなければならない問題がありました。ペドロは続けてこう語ります。「妊娠していた妻には陣痛が始まるし,商売のほうもおろそかにするわけにはいきません。どうすればよいのでしょう。私は産婆を呼んで妻に付き添ってもらい,キャンディー作りの仕事はそれぞれ14歳,12歳,10歳になる3人の息子に任せました。それからバスでカラカスに向かいました。大変な旅行で,舗装されていない道路を通り,二日かかりました」。カラカスの証人たちに会えてペドロはどれほどうれしかったことでしょう。カラカスにいる間に,マラカイボから次のような電報が届きました。「ツマハブジ。コドモハゲンキ。シゴトハワタシガミテイル。フスト・モラレス」。思いがけないことに,実の兄弟がコロンビアから来ていて,世話をしてくれたのです。

カラカスでのその特別な集会の初日,フランズ兄弟が,「試練のるつぼに入れられたエホバの証人」という題で話をしました。次にノア兄弟が引き続きその主題で話を行ないました。通訳をしたのはフレッド・フランズです。それは実に啓発的な話でした。クリスチャンが世からどのような扱いを受けることを予期しなければならないか,聖書が述べている事柄に注意が向けられ,第二次世界大戦中ヨーロッパでエホバの証人が受けた厳しい迫害のことが詳しく話されました。

翌日,ロスチョロスの滝壺でバプテスマが行なわれました。その日,10人がバプテスマを受けました。その中には,ウィンストン・ブラックウッド(キリキレでゴアス姉妹が接触した)と息子のエドワルド,オラーシオ・ミエル・イ・テランと弟のエフライン,ペドロ・モラレス,スリナム出身のヘラルド・ヘスルン,イスラエル・フランシス,ホセ・マテウスといった人たちが含まれていました。

西部地方から出席していたペドロ・モラレスと他の二人の兄弟は,政府の許可が下り次第,協会は宣教者をマラカイボに派遣するというノア兄弟の言葉を聞いて,大変喜びました。ペドロ自身は正規開拓者になり,亡くなるまでその奉仕を続けました。

聖書の真理に対する愛が彼らを動かした

宣教者たちが到着する以前に,ブルックリンにある協会の本部事務所には,ゴアス姉妹によって設立された小さな群れから報告が寄せられていました。伝道者は一握りしかおらず,出版物もほとんどありませんでした。関心を持つ人たちに書籍を貸し出さなければならないことも少なくありませんでした。1946年3月の報告では,ベネズエラの良いたよりの宣明者の数は9人で,ホセフィーナ・ロペスが群れの世話をしていました。なぜなら彼女が群れの中で一番活発だったからです。

ルベン・アラウホは,ロペス姉妹の示した立派な手本の思い出を,こう語ります。「当時,私は十代でした。……ホセフィーナ・ロペスは4人の息子と二人の娘の母親で,ゴアス姉妹から学んでいた事柄に関してとても熱心でした。私はほとんど毎日放課後になると姉妹の家に行き,姉妹が真理に関して学んだ新しい事柄について話し合いました。ロペス姉妹は忙しい主婦でしたが,何とかやりくりして毎日,昼食がすんで夫と息子たちが再び仕事に出かけた午後,家から家の伝道に行ったり,聖書研究を司会したりしていました。姉妹は私たち皆の良い模範で,本当に開拓者精神を持っていて,伝道者として毎月平均60時間から70時間奉仕していました。40年以上たった今でも,カラカスには姉妹のための生きた推薦の手紙があります」。

最初の群れには,やもめのドミティラ・ミエル・イ・テランもいました。ドミティラはいつも霊的な事柄を愛する気質を持っており,父親の持っていた聖書を読むのが大好きでした。父親が亡くなった時には,家じゅうを捜し回ってそれを見つけました。相続財産としてただ一つ欲しかったのは父親の聖書だったのです。見つけたのは聖書の一部だけで,残りの部分は手荒に扱われたために破れてしまっていましたが,それでもその部分的な聖書を大切にして,後に自分用に全巻揃った新しい聖書が買えるようになるまでそれを使いました。ある日,一人の友人が,入手した「和解」という協会の本をドミティラのところに持ってきて,あなたは聖書を熱心に読んでいるから,私よりこの本の価値が分かるでしょうと言いました。ドミティラはこの本の発行者を探し出そうと必死になり,アドベンティスト派や他のプロテスタントのグループのもとを訪れました。結局,うれしいことにケイト・ゴアスがドミティラの家を訪れました。ドミティラは聖書を研究することにその場で同意しました。ドミティラの息子のうちの二人はノア兄弟とフランズ兄弟の最初の訪問の際にバプテスマを受け,後に巡回監督として奉仕し,三男のゴンサロは会衆の長老として奉仕しました。しかし,もう一人の息子ギリェルモは,ケイト・ゴアスが初めて家にやって来た時その場に居合わせたのですが,バプテスマを受けたのは1986年でした。

「それで,あなたたちはどのくらいとどまるつもりですか」

1946年6月2日,ノア兄弟の訪問のあと間もなく,ベネズエラに任命されたグループの残りの宣教者が到着しました。ドナルド・バクスターとウォルター・ワンの二人です。カラカスには若いルベン・アラウホが出迎えに来ていました。きっと以前の宣教者のことが記憶に鮮明だったからでしょう,ルベンは疑い深そうに二人を見つめながら,片言の英語で,「それで,あなたたちはどのくらいとどまるつもりですか」と尋ねました。

ルベンはあらかじめ「ものみの塔」研究を取り決めていました。それで宣教者たちが到着した当日に「ものみの塔」研究が開かれました。ルベンはフランズ兄弟から与えられた指示を実行しようとして最善を尽くしたのですが,それはワンマンショーのような研究でした。ルベンが質問を読み,それから自分で答え,節も自分で読みました。研究は1時間を超えてはならないことを覚えていたので,従順に時間を守って研究をやめました。とは言っても,17節まで討議しただけで,その週の範囲は全部終わっていなかったのです。経験を得るには時間と辛抱が必要でした。

ルベン・アラウホは今日,最初の宣教者が突然去って行った時のことを振り返って,こう付け加えています。「それから少しして,二人の新しいギレアデ卒業生がその人の穴埋めをしてくれました。ベネズエラのマケドニアにいるわたしたちを助けるためにエホバの組織が与えてくれた,これらの宣教者という形の贈り物をどれほどうれしく思ったことでしょう。(使徒 16:9,10と比較してください。)バクスター兄弟はかつてノア兄弟から,「たとえそこで死ぬことになっても,任命地にとどまりなさい」と言われたことがありました。しかし,バクスター兄弟は死ぬようなことにはならず,50年近くたった今もベネズエラで奉仕しています。

新しい環境に順応する

カラカスで最初に設けられた宣教者の家は,エルセメンテリオと呼ばれる地区のブカレス通り32番にありました。1946年9月1日には,この場所に支部事務所も開かれ,ドナルド・バクスターが支部の僕になりました。生活環境は決して理想的とは言えませんでした。道路は舗装されておらず,水道もありませんでした。1949年に支部と宣教者の家がエルセメンテリオ(墓地)から,水道のあるエルパライソ(楽園)に移った時,宣教者たちが大いにほっとしたのもうなずけます。

バクスター兄弟は,宣教者たちが言語に関して学び始めの苦労を経験したり,もどかしい気持ちを味わったりしたことを覚えています。ギレアデでの訓練を用いて援助しようと一生懸命でしたが,到着した時は意思を通わせることができませんでした。しかし,この一時的な問題を補って余りあるほどであったのは野外での良い成果です。最初に行なった街路伝道の思い出を,バクスター兄弟はこう語ります。「私たちは,市内中央部のエルシレンシオとして知られる地区に行って,どういうことになるか見てみることにしました。パートナーのウォルター・ワンが一方の角に立ち,私が反対側に立ちました。人々は大変な好奇心を示しました。それまで,このようなことを見たことがなかったからです。私たちはほとんど話す必要がありませんでした。人々が文字通り列を作って雑誌を求めたので,10分か15分で雑誌をすべて配布してしまいました。慣れていた米国の状況とは大違いでした」。ウォルター・ワンはこう言います。「記録を調べたところ,イエスや使徒たちと同じように街路や市場でエホバを賛美した多忙な4日間で,178冊の書籍や聖書を配布したことが分かり,驚きました」。

支部がニューヨーク州ブルックリンの本部事務所に送った最初の報告によると,伝道者の合計は19人で,そのうち宣教者が二人,正規開拓者が4人でした。4人の開拓者とは,エドワルド・ブラックウッド,ルベン・アラウホ,エフライン・ミエル・イ・テラン,ヘラルド・ヘスルンです。エドワルド・ブラックウッドは,ノア兄弟が訪問した月に開拓奉仕を始め,その後間もなく,あとの3人も始めました。内陸部で宣べ伝えていたのは9人でした。エル・ティグレに住んでいたウィンストン・ブラックウッドとエドワルド・ブラックウッドは,はるか南のシウダード・ボリバルや,はるか東のプンタデマタやマトゥリンの近くの油田の町で証言を行なっていました。ペドロ・モラレスや他の人たちはマラカイボで宣べ伝えていました。マラカイボ湖の東岸のカビマスとラグニヤスの油田の町では,ヘラルド・ヘスルン,ナタニエル・ウォルコット,デービッド・スコットが宣べ伝えていました。後に,ヒューゴー・テーラーがその3人に加わり,ヒューゴーは1995年にもまだ特別開拓者として奉仕していました。彼らは全員で,国内の広大な地域を網羅していました。バクスター兄弟とワン兄弟は間もなく,その奉仕が実際にはどのようなものかを体験を通して知ることになりました。

すべての群れを訪問するために出発する

1947年の10月と11月の間,二人の宣教者は国内のはるか西方や東部を旅行して,小さな群れを援助するために何が行なえるかを調べました。二人が目標にしていたのは,これらの群れを会衆に組織することでした。「私たちはバスで旅行しました。ベネズエラのバス旅行は全くすごい経験でした」。バクスター兄弟は,その忘れられない旅行のことを思い出して微笑みを浮かべると,さらにこう語ります。「ベネズエラ人はほとんど小柄なので,バスの座席は小さくて間隔が狭くなっていました。それで北米出身の私たち二人にとっては脚を入れるスペースがほとんどありませんでした。バスの屋根には,乗客の荷物のほかに,ベッドやミシンやテーブル,鶏,七面鳥,バナナが載っていることも珍しくありませんでした。短い距離を乗るだけの人は,鶏やこまごました品物をわざわざ屋根の上に載せないで,車内に持ち込み,座席の間の通路に積み上げていました。私たちの乗ったバスが故障してしまい,別のバスが来るまでの数時間,サボテンしか生えておらず,ヤギしか住んでいない荒野に立ち往生しました。その後,私たちのバスはガソリンを切らしてしまいました」。

訪れた四か所にはそれぞれ,10名ほどの人から成る群れがあり,だれかの家の居間で集まり合っていました。宣教者たちは集会を司会する方法や自分たちの活動を定期的に支部事務所に報告する方法,宣べ伝える活動用の出版物を入手する方法について教えました。

エル・ティグレにいた間にバクスター兄弟は,その土地の新しい兄弟の一人だったアレハンドロ・ミッチェルが,マタイ 10章27節の勧めを全く文字通りに取り,屋上から宣べ伝えていることに気づきました。自宅のてっぺんにスピーカーを取り付け,毎日30分くらい,「子供たち」か,「新しい世」か,ものみの塔の他の出版物の中の選んでおいた部分を大声で朗読していたのです。音量がとても大きかったので,その声は数区画離れたところでも聞こえるほどでした。当然のことながら,このために近所の人たちは感情を害していました。スピーカーを取り外して,家から家へ宣べ伝えるほうがよいでしょうという提案が与えられました。

各地の小さな群れへの訪問旅行はたいへん有益でした。旅行を行なった2か月間に,兄弟たちは16名の人にバプテスマを施すことができました。

宣教者がマラカイボに到着する

ベネズエラの北西部に位置するマラカイボは,国内で二番目に大きな都市です。この都市の際立った特徴を二つ挙げるとすれば,暑さと高い湿度があります。ここはベネズエラの石油生産の中心地でもあります。市内の新しい部分と,埠頭に近い旧市街とは,著しい対照を成しています。旧市街は通りが狭く,植民地時代風のアドービれんが造りの家が並び,19世紀以来ほとんど変わっていません。

1948年12月25日に,6人の宣教者が貨物船でマラカイボに到着しました。寒いニューヨークから来たばかりでしたから,船を下りるときには厚ぼったい冬の服装をしていました。その一行の中には,1918年にバプテスマを受け,今でもカリフォルニア州で開拓奉仕をしているラグナ・イングワルドセンやバーニス・グライセン(今では世界本部のベテル家族の成員の“バン”・ヘンシェル),チャールズ・ベイルとメイ・ベイル,エスター・ライデル(ラグナの異母姉妹),ジョイス・マッカリーがいました。6人はエホバの証人と交わり始めて間もない一組の夫婦の小さな家に迎え入れられました。ここで宣教者たちは汗をかきながら,できる限りのことをしてトランク15個と,書籍類を詰めたカートン40箱を中に納めました。宣教者の家として借りられる家が見つかるまで,4人はハンモックで,二人は本のカートンで作ったベッドで寝ました。

ラグナは,その6人がマラクーチョ ― マラカイボの住人は一般にこう呼ばれている ― にはとても珍しく見えたことを思い出します。宣教者の中には背が高くて金髪の人が数人いました。ラグナは後にこう語っています。「家から家へ訪問していると,大抵小さな裸の子供が10人もぞろぞろと後について来て,私たちが彼らの言語を奇妙な仕方で話すのを聞いていました。6人のうち,スペイン語の単語を十以上知っている人は一人もいませんでした。でも,人々が私たちのことを笑うと,私たちも一緒に笑いました」。これらの宣教者たちが到着した当時,マラカイボには伝道者がわずか4人しかいませんでした。1995年の初めには,51の会衆があり,伝道者の合計は4,271人でした。

彼の祈りは聞かれた

6人の宣教者を自分の家に親切に迎え入れた夫婦はベニト・リベロとビクトリア・リベロでした。ベニトは,カラカス出身の開拓者フアン・マルドナードから「神の御国は近し」という本を受け取っていました。後にペドロ・モラレスがベニトを訪ねて研究を勧めると,ベニトは大変乗り気で,研究をしただけでなく,小さな群れの集会にすぐに出席し始めました。彼の妻は歌が好きだったので,彼はエホバの証人の歌っている歌はすばらしいと言って,妻にも出席するよう勧めました。妻はいつも夫について行きましたが,話されていることが本当に理解できなかったので,眠ってしまうことも少なくありませんでした。

ある晩ベニトは家で,妻が眠っているものと思って,声を出してエホバに祈り,妻の心を開いてくださるようお願いしました。妻はその祈りを盗み聞きしていて,深く心を動かされました。1955年にベニトが亡くなった後,ビクトリアは正規開拓者になり,その後特別開拓者になりました。

マラカイボ周辺の田舎に達する

マラカイボ地区で真理を受け入れた人の中に,レベッカ(現在のレベッカ・バレート)の父親がいます。レベッカがわずか5歳の時に父親はヘラルド・ヘスルンと聖書の研究を始め,進歩して1954年にバプテスマを受けました。彼女には幼いころ宣べ伝える業に参加したすばらしい思い出があります。「私たちはバスを借りて会衆全員で田舎に出かけたものです」と,彼女は語ります。「田舎の人はお金はあまり持っていませんでしたが,出版物をとても感謝していました。一日の終わりに兄弟姉妹が,出版物と引き替えにもらった卵やカボチャやトウモロコシや生きた鶏を持ってどやどやとバスに乗る様子は実に見ものでした」。

しかし,すべての人が彼らに会うのを喜んだわけではありません。バレート姉妹は,メネデマウロア村で起きたある出来事を覚えていて,こう言います。「戸口から戸口を訪れていた時,地元のカトリックの司祭が私たちの後から付いて来て,人々が受け取った出版物をびりびりに破り,エホバの証人の話を聞かないようにと告げました。司祭は,若者たちが大勢いる暴徒をけしかけ,彼らがひどく腹を立てるようになんとか仕向けて私たちに石を投げつけさせました。数人の兄弟姉妹に石が当たりました」。証人たちのグループは,助けを求めて町長の所に逃げ込みました。町長はエホバの証人に親切な人で,司祭に対して,私の事務所に数時間いていただかなければなりません,“これらの伝道者からご自分を守るため”です,と言いました。群衆はリーダーを失って解散し,証人たちはそれから2時間,嫌がらせを受けることなく,喜びのうちにその町で徹底的な証言を行なうことができました。

助けてくれる人たちがさらに到着する

区域は広大で,その世話のためにはさらに助けが必要でした。働き人が増員され,ギレアデ学校を卒業したばかりの人たちが,霊的な収穫に参加するため,1949年9月に到着しました。その人たちは喜んで,しかも熱心に参加しましたが,それが彼らにとって容易だったわけではありません。サンタ・ロサ号の船室の舷窓から港の明かりが見えた時,レイチェル・バーナムは,一生の内でこれほどほっとしたことはないと思いました。船がニューヨークを出た時からずっと船酔いに苦しんでいたのです。午前3時だったにもかかわらず,興奮して他の3人の姉妹を起こしました。妹のアイネズと他の姉妹たち,ディクシー・ドッドと妹のルビー(現在のバクスター)は,航海を楽しんでいましたが,新しい任命地に着こうとしていることを喜びました。

一群の人たちが4人を出迎えに来ていて,ドナルド・バクスターや,ビル・ハンナとエルサ・ハンナ(前の年に到着していた宣教者),ゴンサロ・ミエル・イ・テランもいました。一行はバスに乗って港からカラカスへ向かいました。バスの運転手は新来者にとびきりぞっとする旅行をさせようと思ったようです。それは確かに成功しました。ヘアピンカーブを次々に,大抵は断がいの縁に沿いながら速すぎると思えるスピードで曲がっていったのです。その時のドライブのことはいまだに姉妹たちの間で語り草になっています。

4人はエルパライソにある支部兼宣教者の家に割り当てられました。レイチェルは1981年に亡くなるまで宣教者として忠実に奉仕し,アイネズは1991年に亡くなりました。残りの二人は今でもエホバに忠実に奉仕しています。

ディクシー・ドッドは任命地での最初の数か月を振り返りながら,こう言います。「私たちはたいへんなホームシックにかかりました。でも,たとえ帰りたいと思っても,空港に行くことさえできなかったでしょう。お金が足りなかったからです」。その代わりに姉妹たちは,エホバの組織が自分たちを信頼して外国の地で宣教者として奉仕する割り当てを与えてくれたということに注意を集中しました。結局,家に帰るのを夢見ることはなくなり,身を入れて業を行なうようになりました。

誤解

新しい宣教者はほとんどの場合,少なくともしばらくの間は言語の問題を抱えました。

ディクシー・ドッドの記憶によれば,最初に教えてもらったことの中に,だれかに紹介された時にはいつでも「ムーチョ・グスト」と言う,というものがありました。それを学んだ日に新しい宣教者たちは会衆の書籍研究に連れて行かれました。4人は,行きのバスの中で「ムーチョ・グスト,ムーチョ・グスト」とその言葉を何度も何度も繰り返しました。「ところが紹介された時には,忘れてしまっていたのです」と,ディクシーは言います。しかし,しばらくするともう忘れませんでした。

1948年から1954年まで宣教者として奉仕したビル・ハンナとエルサ・ハンナにとって,幾つかの大きな失敗はいつまでも忘れられませんでした。ある時,ハンナ兄弟は白い卵を1ダース買おうとして“ウエボス・ブランコス”と言う代わりに“ウエソス・ブランコス”(白い骨)をくださいと言ってしまいました。別の時には,ほうきを買いたいと思いました。通じなかったのではないかと思い,もっと具体的に言おうとしました。ところが“エル・スエロ”(床)と言うべきところを「“エル・シエロ”(空)をはくためのものです」と言ったのです。店の主人はちょっとユーモアを込めて,「ご主人さん,なかなかの大志を持っておられますね」と答えました。

ビルの妻エルサは,大使館に行って,パスポートを“レノバール”(更新)してくださいと言う代わりに“レモベール”(除去)してくださいと頼みました。秘書官が聞き返しました。「奥さん,どうなさったんですか。呑み込んでしまったのですか」。

1967年に到着した宣教者ジニー・ロジャーズは,練習を念入りに行なって証言したのですが,証言するたびに家の人が連れの方を向いて,“ケ・ディホ”(何を言ったの)と尋ねるので,最初は少しがっかりしました。しかし努力するのをやめることはなく,宣教者として奉仕した約28年の間に,40人の人が真理を学んで水のバプテスマを受けるまでに進歩するのを助けました。

ウィラード・アンダーソンは妻のエレーンと共にギレアデを卒業し,1965年11月に到着しました。自分は言語が決して得意ではなかった,と率直に言います。自分の失敗をいつでもすぐに笑えるウィラードは,こう語ります。「中学校でスペイン語を6か月勉強したのですが,最後に私は,二度とその先生の授業を取らないと約束させられてしまいました」。

しかしエホバの霊と粘り強さと優れたユーモアのセンスにより,宣教者たちはすぐ新しい言語になじむようになりました。

家にさえ名前がある

宣教者が戸惑ったのは言語だけではありません。再訪問したいと思う家の記録を付けるときにも異なる方法を用いる必要がありました。初期のころ,カラカスには番地のない家が沢山ありました。家主がそれぞれ持ち家に付ける名前を選んでいたのです。高級住宅はキンタとして知られ,大抵はその家の女主人の名前にちなんで名づけられています。例えば,キンタクララというような住所になるのです。また,子供たちの名前を組み合わせて,キンタカロシ(ルメン,サ,モン)といった具合になっている場合も少なくありません。協会が借りた最初の支部兼宣教者の家は持ち主によって自分の家をすでにキンタサブテポール(セントビンセント・デ・ポール)と名づけられていました。その家は主要道路に面していたので,エホバの証人の集まる場所としてたちまち知れわたるようになりました。

1954年に支部事務所兼宣教者の家として真新しい家が購入された時,機知を働かせてふさわしい名前を選ぶのは兄弟たちの責任でした。『あなた方の光を人々の前に輝かせなさい』というイエスの勧めを思いに留めて,ルス(光)という名前が選ばれました。(マタイ 5:16)後に支部事務所はもっと大きな建物に移されましたが,キンタルスは1995年の初めの時点ではなお11人の宣教者の家として使われていました。

カラカスの中心部の住所の付け方は独特です。ある会社やアパートの住所を尋ねると,「ラ・フェ・ア・エスペランサ」といったような答えが返って来ます。『「信仰から希望へ」ですって? でも,住所のようには聞こえません』と言われるでしょう。ところが,カラカスの中心部では,交差点の一つ一つに名前があるのです。ですから,あなたが探している住所は「信仰」と「希望」の間の区画にあるのです。

ベネズエラからギレアデに行って戻ってくる

ギレアデで訓練を受けて他の国からベネズエラにやって来た宣教者の数は,宣教訓練学校の課程から益を受けた7人を含めると,長年の間に136人になりました。その出身地は米国,カナダ,ドイツ,スウェーデン,ニュージーランド,英国,プエルトリコ,デンマーク,ウルグアイ,イタリアです。1969年から1984年にかけて,新しい宣教者がギレアデからベネズエラへ来ることは全くありませんでした。ビザの取得が不可能であることが分かったためです。しかし1984年に,皆の協力が実って,二組の夫婦の入国許可を得ることができました。さらに1988年にも二人の宣教者が到着しました。ベネズエラからもこれまでに6人の証人がギレアデへ行って訓練を受けました。

1946年にノア兄弟の訪問があった時,若いルベン・アラウホは,私もいつかギレアデに行く資格が得られるでしょうかと尋ねました。「得られますよ,英語が上達すれば」というのが答えでした。ルベンはこう言います。「言うまでもなく,とてもうれしく思いました。3年後の1949年10月に私は,1950年の初め,冬の間に始まることになっていた第15期のクラスに出席するようにとの招待の手紙をノア兄弟からいただきました」。

ベネズエラからギレアデに行ったあとの5人の兄弟とは,エドワルド・ブラックウッドとオラーシオ・ミエル・イ・テラン(二人とも1946年のノア兄弟の最初の訪問の際にバプテスマを受けた)と,テオドロ・グリーシンガー(この人のことは後にも出てきます),カシミロ・シート(フランスから移住し,ベネズエラに帰化した),そしてごく最近卒業したラファエル・ロンガ(これまで巡回監督として奉仕してきた)です。

探している人もいたが,そうではない人もいた

カラカスのビクトル・メヒアスは,1948年当時,より良い世界について考えていました。彼は,それが人間の努力によって達成されると誠実に考え,そのためなら喜んで働こうと思っていました。しかし,疑問も持っていました。

その年に,とても感じの良いエホバの証人,ホセフィーナ・ロペスが「真理は汝らを自由にすべし」という本をビクトルの妻ディリアに配布しました。ビクトルは主題に興味をそそられ,その本を読み始めました。そして,人類が自らの力で真に自由な世界を決して作り出すことができない理由を学びました。間もなくビクトルは妻とともにエホバの証人の集会に出席するようになっていました。後にこう語っています。「出席していた人たちは顔見知りではありませんでしたが,顔つきがとても友好的だったので,この人たちは違うということを確信しました。カラカスのクラブ・ラス・フエンテスで開かれた大会で,協会の会長だったノア兄弟を見て感銘を受けたことも覚えています。宗教指導者や英雄や有名な芸術家たちは皆,人から注目されたいと願っていますが,ノア兄弟は全然違いました。謙遜で気取らない態度には感銘を受けました」。そのうちにビクトルも人を自由にする真理,それも罪や死からさえ自由にする真理を他の人に知らせていました。数年前にメヒアス兄弟は,聖書の真理を他の人に伝えることに専ら費やした数十年を振り返って,「私の人生の中でこの年月ほど幸福な時期はなかった」と述べました。

ビクトル・メヒアスがバプテスマを受けた1950年に,カラカスにいた別の若い男性,テオドロ・グリーシンガーは,宣教者としての奉仕を始めたばかりのロナルド・ピアースに,「啓示の書の666という数字の意味について教えてください」と頼みました。テオドロは亡くなった父親が残したドイツ語の大きな聖書を持っていて,時々それを読んでいました。「私は過去についてはそれほど興味がなくて,将来のことに興味がありました。その,これから先に起きることが啓示の書の中で言及されていたのです」と,テオドロは説明します。ピアース兄弟の説明に満足したテオドロは,「神を真とすべし」という本を研究しましょうというピアース兄弟の提案を受け入れました。その本はスペイン語,テオドロの聖書はドイツ語,教え手と生徒が話していたのは英語でした。進歩は目ざましく,1951年,テオドロは開拓者になり,翌年には特別開拓者としてプエルトラクルスで奉仕するという割り当てを受け入れ,1954年にギレアデ学校を卒業し,その後ベネズエラで巡回監督として奉仕しました。

ロナルド・ピアースがテオドロ・グリーシンガーと研究を始めたころ,がっしりしたネメシオ・ロサーノという男が警察から逃れるため,エル・ティグレの外れにあるインディオの村に住んでいました。ロサーノは威張りちらして,すぐにナイフを持ち出しました。インディオの酋長はロサーノを恐れて,言うことを何でも聞いていましたから,事実上ロサーノが酋長でした。証人たちはロサーノに注意するよう警告されましたが,とにかく証言しました。ロサーノは話をさえぎって,ぶっきらぼうに言いました。「いいか,おれはお前たちから説明を受けたいとは思わない。自分で読みたいんだ」。しかし,書籍はもうありません。それでロサーノは,まず落丁がないことを確認してから,ある兄弟の個人用の「真理は汝らを自由にすべし」の本をよこせ,と言ってききませんでした。彼のような人物が本当にその本から益を受けられるのでしょうか。

ロサーノは1週間で本を読み終えてしまい,配布用の小冊子を数冊手に入れると,自分で宣べ伝え始めました。証人たちは,再び彼に会いに行った時,人々にどんなことを話しているのか心配して尋ねました。するとロサーノは,「この小冊子はたった1メディオ(地元の硬貨)で買える」と答えました。兄弟たちはもっと上手に話す方法を巧みに説明しました。

30㌔ばかり離れたエル・ティグレでの集会に出席するため,ロサーノは馬や自転車に乗って,時には歩いてやって来ました。それまでの態度は次第に改まり,クリスチャンの特質が示されるようになりました。間もなくロサーノがとても多くの時間を伝道にささげるようになったので,巡回監督は開拓者になるよう励ましました。1955年に彼は特別開拓者として派遣され,いまでも妻のオマイラと共にその立場で奉仕しています。

霊的な浄さを保つ

初期のころ,神の言葉の光はすべての地方において常にさん然と輝いていたわけではありません。エル・ティグレの研究グループと交わっていた人の中には,世の考えを持ったままの人たちがいました。1947年に真理に接したラファエル・エルナンデスとその妻は,エル・ティグレで集まっていた群れの中に自分の見た夢を解釈する兄弟がいた時のことを覚えています。また,ある人たちは,当人たちさえ互いに忠実であれば,結婚を法的に登録する必要はないという考えをしばらくの間持っていました。しかし,聖書から健全な教えが与えられた結果,そうした考えは徐々になくなってゆきました。

しかし,ノア兄弟が1946年にベネズエラを初めて訪問した時にバプテスマを受けた10人のうちの一人が,1940年代の終わりごろに自分の教えを促進し,個人の追随者を作ろうとし始めました。現在はシウダード・グアヤナで長老となっているレオポルド・ファレラスはその出来事を覚えています。レオポルドは,ローマ・カトリック教会では主な侍者(モナギーリョ)をしていましたが,僧職者の不道徳が目に余るものだったので20歳の時にやめてしまったという経験の持ち主でした。今回はほかの人物がふさわしくない仕方で権威を用いているのを見ました。当時レオポルドは若くて経験も浅かったのですが,エル・ティグレでのこうした混乱の時期にもぐらつかず,エホバとその組織に忠実であることを示しました。

それから数年後,今ではエル・ティグレの長老になっているレナード・カンババッチの妻がエホバの証人と研究を始めました。「私の反応はひどいものでした」と,レナードは認めています。「私たちはずっと仲睦まじく暮らしていましたが,妻が聖書を勉強し始めると,私は皮肉っぽくなりました。車を運転していた時のことです。そんなにスピードを出したら危いではありませんか,と妻が言いました。私は,心配するなよ,お前のエホバ神様が救ってくれるさ,いずれにしろお前はどうせ永遠に生きられるのだから,と言ってスピードを緩めませんでした。

「私は妻に,証人たちはお前を利用しているんだ,私のほうが証人たちより聖書をよく知っている,話がしてみたい,と言いました。証人は私の挑戦に応じてくれました。その話し合いは和やかなものになりました。エホバの証人が偽りを教えていることを証明できなかったので,私は聖書を研究することに同意しました。研究を始めてから5か月後にバプテスマを受けました。車を持っていた私は,アナコの群れの研究の司会者に指名されました。その群れで奉仕するには往復160㌔走らなければなりませんでした。その後,30㌔離れた別の群れの世話をするよう依頼されました。これらの町には今では会衆があります」。

ベネズエラ東部にあるエル・ティグレ自体は通商の重要な中心地です。そこは真の崇拝の重要な中心地ともなりました。1995年初頭には,エル・ティグレにエホバの証人の会衆は七つあり,良いたよりの伝道者の合計は730人を超えていました。

貴金属商が偶像作りをやめる

エル・ティグレの南東の,オリノコ川の南岸にシウダード・ボリバルがあります。そこはたいへん活気があり,河川の交通量も多い所です。1947年に,その都市にはマリア・チャールズと呼ばれるエホバの証人が一人いました。マリアはこう言います。「私は貴金属商を営んでいます。ある日私が店で座って仕事をしていると,アレハンドロ・ミッチェルが肩から布製の袋を提げて入ってきました。私が『何を持っているんですか』と聞くと,『ああ,特別な宝物です』と答えました。『あなたの持っているものが金なら,買いましょう。それが私の仕事ですから』と私は言いました。彼は自分が持っているのは金よりも優れたものだと言いました。『金よりも優れたものと言えば聖書しか知らない』と言うと,アレハンドロはその通りですと言って,聖書と他の出版物を取り出しました。

「私は聖書を読むのは大好きでしたが,決して理解できなかったので,『全部買います』と言いました。その日,私は11冊の雑誌に加え,『神の御国は近し』や『救い』という本や,新しい聖書を受け取りました。読んだ内容にとても心を引かれたので,読むことに専念するため,店の仕事を1週間休むことにしました。『神の御国は近し』の本を読んだ時には,バプテスマを施す人ヨハネの模範に感銘を受け,『ヨハネのような恐れを知らない伝道者になりたい』と心の中で思いました」。

マリアはエホバの証人の集会場を聞いて回りましたが,シウダード・ボリバルにはないと言われました。最寄りの会場は120㌔ほど離れたエル・ティグレにありました。マリアはくじけることなく出かけてゆき,場所を見つけ,集会に出席し,シウダード・ボリバルにいる自分を訪問してほしいというメモをアレハンドロ・ミッチェルに残しました。

その間にマリアは,近くの洋服屋も「神の御国は近し」の本を持っていることを知りました。その男性は小さな群れが集まり合って「ものみの塔」誌を読んでいる場所を知っていました。マリアは付いて行き,レオポルド・ファレラスと,その母親と姉など数人の人に会いました。マリアは集会を楽しみ,資料に熱烈な関心を示して,すべての質問に手を挙げました。

研究が終わると,レオポルド・ファレラスはマリアに,「それで,どちらから来られたんですか」と尋ねました。マリアは,「私が持っている貴金属商の店からです。でも,これからはもう偶像は作りません」と答えました。ファレラスは,その率直さに微笑みながら,「どうしてですか」と尋ねました。「詩編 115編4節から8節の言葉があるからです」と,マリアは答えました。

その群れは公の証言をまだ組織的に行なってはいませんでした。宣べ伝えなさいという聖書の命令に従うことを提案したのは,実は,この一番新しい成員,マリア・チャールズでした。彼らは証言カードと出版物を持って出かけ,組織的な仕方でシウダード・ボリバルの住民に良いたよりを伝え始めました。人々が僧職者を恐れていたため,最初の数年はとても大変でした。しかし,その熱心な群れが忠実に努力を続けた結果,実が産み出されました。1995年の時点でシウダード・ボリバルには九つの会衆があり,合計869人の伝道者がいました。

さらに宣教者が到着する

1950年,カラカスの支部事務所に胸の躍るようなニュースが入りました。さらに14人の宣教者がベネズエラに派遣され,宣教者の家がもう三つ,バルキシメトとバレンシアとマラカイに開設されることになったのです。しかし,宣教者は入国できるのでしょうか。大統領が暗殺されたばかりで,午後6時以降の外出は禁止されており,通信手段が影響を受けていました。

暗殺事件の後ベネズエラに最初に入る飛行機がカラカスの近くの空港に着陸し,14人の新しい宣教者が飛行機を降りました。しかし,だれも出迎えに来ていません。その時の状況からして,宣教者が到着することなど全く思いも寄らなかったのです。その14人のうちの一人,ラルフィン(ペニー)・ガベットは思い出をこう語ります。「私たちは支部の住所を手に,3台のタクシーに乗り込みました。カラカスのパエス通りは難なく見つけることができました。ところが,パエス通りは大変長い通りで,支部になっている家は見つかりません。あたりは暗くなっており,外出禁止時間になっていたので,タクシーの運転手はいらいらしてきました。結局,宣教者の一人ビン・チャップマンが運転手に車を止めさせ,非常に限られたスペイン語ながら,どこかのドアをノックして方向を尋ねることにしました。兄弟がノックしたところ,支部の監督のドナルド・バクスターが扉を開けました。本当にほっとしました」。

カラカスから約270㌔離れたバルキシメトに任命された宣教者たちは,そこがたいへん宗教的な都市であることに気づきました。1950年代,その土地の人々は伝統にどっぷりと浸かっており,変化しようとしませんでした。

しかし,人々の反応は,だれが何を行なうかによって異なっていました。宣教者たちが街路での証言に出かけた最初の土曜日の思い出を,チャップマン兄弟はこう語ります。「私たち5人が中心部のビジネス街の主要な交差点に立ったところ,大評判になってしまいました。当時バルキシメトにはアメリカ人はほとんどおらず,若いアメリカ人女性は一人もいませんでした。私は雑誌を配布できそうにありませんでしたが,姉妹たちの雑誌は羽が生えたように出てゆきました」。しかし別の日のこと,4人の姉妹は食料品を買いに青空市場に出かける時,青のジーンズをはいて行くことにしました。数分のうちに100人近い女性が周りをぐるりと取り囲み,姉妹たちを指さしながら,「ミラ! ミラ!(見て,見て)」と声を上げました。街角でそのような服装をしている女性を見慣れていなかったのです。姉妹たちがそのまま家に引き返して服を着替えたのは言うまでもありません。

この地域の人々の大多数は,それまで聖書を一度も見たことがありませんでした。カトリックの聖書から証言を受けても,その述べることを受け入れようとはしませんでした。聖書から聖句を読もうとしない人たちもいました。聖句を読むと罪を犯すことになるのではないかと心配だったのです。バルキシメトにおける最初の一年というもの,進歩らしい進歩は見られませんでした。

ついに真の宗教を見いだす

しかし,バルキシメトの人たちが皆,長年にわたるローマ・カトリックの伝統によって盲目にされていたわけではありません。際立っているのはルナ・デ・アルバラドの例です。このかなり高齢の女性は,長年の間ローマ・カトリック教徒でした。ガベット姉妹が初めて戸口を訪れた時,この女性はこう言いました。「お嬢さん<セニョリータ>,わたしは若いころからずっと,だれかがうちの玄関にやって来て,今あなたが話してくださったようなことを説明してくれるのを待っていたんですよ。娘時代によく掃除をした司祭の家の書斎には聖書があってね。聖書を読むことが禁じられているのは知っていたけど,どうして禁じられているのかどうしても知りたくて,ある日,だれも見ていない時に聖書を持ち帰ってこっそり読んだの。読んでみて分かったわ。カトリック教会は真理を教えていなかった,だからカトリックは真の宗教じゃないっていうことがね。怖くてだれにも言えなかったけど,真の宗教を教えてくれる人がいつかこの町に来てくれるに違いないと思っていたのよ。プロテスタントの宗教がやって来た時には,最初はこの人たちがそうに違いないと思ったけど,すぐに,カトリック教会と同じ沢山のうそを教えていることが分かったの。でもあなたは,わたしが何十年も前に聖書から読んだとおりのことを話してくださったわ」。すぐに研究が取り決まり,ほどなくしてルナはエホバへの献身の象徴としてバプテスマを受けました。そして,家族からの厳しい反対にもめげず,亡くなるまで忠実にエホバに仕えました。

エウフロシナ・マンサナレスも,自分の心に動かされて神の言葉にこたえ応じました。ラグナ・イングワルドセンが初めて彼女のもとを訪れた時,エウフロシナはそれまで聖書を一度も見たことがありませんでした。それでもラグナと研究することに同意しました。ラグナは思い出をこう語ります。「彼女は敬虔な人で,宗教上のしきたりを守り,毎週日曜日にはミサに出席し,壁のくぼみに置かれた“聖人”の像にはいつもランプを灯していました。ランプの明かりを絶対に絶やさないため,その特定の目的のためにいつも大量の油を用意していました」。しかし,エウフロシナは聖書から学んだ事柄を当てはめました。ある事柄がエホバに喜ばれないことを学ぶと,自分の生活を変化させました。こうして偶像を処分し,たばこをやめ,結婚を正式に登録しました。後に母親も研究に加わりました。エウフロシナにとって大きな葉巻をやめるのは容易ではありませんでした。母親はまだ2歳のエウフロシナの口にたばこを入れては静かにさせていました。エウフロシナはそれ以来,ずっとたばこを吸っていたのです。しかし今や,エホバを喜ばせるために,たばこをやめ,バプテスマを受けて,とても熱心な伝道者になりました。

宣教者たちが初めてバルキシメトに遣わされてから6年後,そこには伝道者がまだ50人ほどしかいませんでした。しかしエホバは,羊のような人々を粘り強く捜し出す努力を祝福してこられました。1995年の時点で,バルキシメトの28の会衆は,合計2,443人の伝道者を報告していました。

バレンシアは実り豊かな畑

バルキシメトとカラカスのほぼ中間に,共和国内で4番目の大都市,バレンシア市があります。その古くて細い街路のたたずまいには古き時代のスペインを思い出させるものがあり,スペインにある同名の土地と同様に,バレンシアはオレンジで有名です。

1950年にベネズエラに到着した宣教者のグループから,8人がバレンシアに送られました。エブリン・シーバート(現在はウォード)は,暗記した証言を用いてバレンシアでの奉仕を始めたことを覚えています。「私たちにはスペイン語の知識がなかったのに,聖書研究がたくさん始まりました」と,彼女は語ります。そのうちの一つはポーラ・リュイスとの研究でした。ポーラはカトリック教徒で,偶像,特に「イエスの聖心」の大変熱心な帰依者で,それに定期的に願い事をしていました。毎週教会に通って3ボリバルの寄付をし,夫が家に戻って,家族のもとにとどまりますようにと偶像に祈っていました。夫がいつまでも家族と別れて暮らすので,ポーラはもっと強い態度で偶像に話すことにしました。『主よ,今回結果が得られなければ,これがあなたにささげる最後の寄付になります』。ポーラは3ボリバルを置いて帰り,二度と戻ることはありませんでした。

次の月,エブリン・シーバートがポーラの家の戸口を訪れました。ポーラは喜んで耳を傾け,「神を真とすべし」という本を受け取り(字の読み方は知らなかった),エブリンに助けてもらいながら聖書の研究を始めました。ポーラと娘の一人はバレンシアで最初にバプテスマを受けた人たちの中に入っていました。ポーラの夫のスティーブンは,最初はそれを「このばかげたこと」と呼んで,かかわりを持とうとしませんでしたが,考え直して家に戻り,家族と一緒に暮らしてエホバの僕になりました。これは,イエスの聖心として知られる偶像に対する信心の結果ではなく,彼が聖書を研究したためでした。

レスター・バクスター(ドナルドの兄)と妻のナンシーは,他の宣教者の2年後にバレンシアに到着しました。レスターはスペイン語をマスターするためにとりわけ努力しなければなりませんでした。野外宣教に必要だっただけでなく,宣教者の中のたった一人の兄弟として,すべての集会を司会する責任があったのです。集中的な訓練は良い結果を生みました。2年後に,ベネズエラで最初の地域区が設立された時,レスターは地域監督に任命されました。それから30年間,彼は旅行する奉仕を行ないました。

バレンシアで奉仕した宣教者の中には,ドイツ出身の小柄で金髪のロタール・カエンマーと,イギリス出身で青い目をした血色のよいハーバート・ハドソンがいます。二人はしばらくの間同じ部屋で起居を共にし,聖書の真理が人生に影響を与えることの生きた証拠となりました。ロタールは少年のころドイツのヒトラー青少年団のメンバーであり,ハーバートは英国空軍に入っていました。つまり,二人は戦争中,敵同士だったのです。しかし,神の言葉は彼らの人生観を変えました。宣教者となった二人は,まず第一に神と,そして人間同士,平和に暮らしてゆく方法を人々に教えるため一緒に働きました。

塀を飛び越えるか,それともはっきりとした態度を取るか

バレンシアにいた宣教者の一人,アリス・パルスキーは,1953年に,18歳のグラディス・カスティーリョを訪問していました。グラディスは自分の聞いている事柄が気に入っていましたが,アリスがカトリックの聖書を使わないので,幾らか疑いを抱いていました。そこで,グラディスはバレンシアの大聖堂に行き,司教に話をしました。彼女は,エホバの証人がプロテスタントだと思っていたので,“プロテスタント”と勉強をしているが,聖句をすべて調べるためにカトリックの聖書がほしいと説明しました。当時,エホバの証人はバレンシアでは比較的少なく,あまり知られていませんでした。司教は,グラディスの考えていることが道理にかなっているように思えたので聖書を渡しました。聖書を読んでその内容に驚いたグラディスは,カトリック教徒が聖書の教えを実践していないことを悟り,教会を去ることにしました。

1955年,グラディスがバプテスマを受ける準備をしていた時に,信仰の試みとなることが起きました。彼女は教員になるために勉強しており,卒業まで1年を残すのみとなっていました。大学で聖処女マリアをたたえる式典が計画され,全員が特別ミサに出席するよう求められました。グラディスはこう語ります。「当時は独裁者ペレス・ヒメネスの時代で,規則に従わない人は放校されるのが普通でした。ミサに出席しない人は放校処分の手紙を持って行くようにという発表がありました。その手紙を受け取れば他の所でも勉強する機会がなくなります。これは私にとって本当に試練でした。ミサに行く時刻が来て,トイレに隠れていようかとか,塀を飛び越えて家に帰ろうかとか考えました。結局,はっきりとした態度を取ることに決めました。大学の指導教官に,自分はもはやカトリック教徒とは思っておらず,エホバの証人と研究をしているので,ミサには出席しないことを説明しました。指導教官はひどく腹を立てましたが,家に帰らせてくれました。放校されなかったのです。エホバを全く信頼してよかったと思いました」。

僧職者が証言を受けた時

証言を受けた人の中には僧職者もいました。バレンシアで最初にエホバの証人になった人の一人,マリナ・シルバは,エホバの証人になる前に通っていた教会の司祭が訪ねてきた日のことを覚えています。マリナは長時間,司祭と話すことができました。一番はっきり覚えているのは,マリナが司祭に開いてほしいと思った聖句を司祭が見つけられなかった時,「神学校ではいろいろ勉強したけれど,聖書だけは学ばなかった」と認めたことです。司祭は多くの点でマリナに同意しましたが,司祭の職を離れて,エホバに仕えるよう勧めると,司祭は,「では,だれが私にアレパをくれるのですか」と言いました。(アレパとは地元のとうもろこしパンのことです。)

マリナ自身は,以前は「イエスの聖心」の帰依者で,毎週金曜日はこの偶像のことに専念していましたが,聖書の真理によって人生が変わりました。1953年にバプテスマを受け,1968年には特別開拓者になり,今でもこの特別な奉仕を続けています。マリナは良いたよりを宣べ伝える業に参加して,サンカルロス,テメルラ,ベフマ,チルグア,タボルダ,ニルグア,ティナキーリョでの業を開始するのを援助するという特権にあずかりました。

真理の音信が,バレンシアのすぐ南西にあるティナキーリョに初めて伝わった当初,反応は敵対的なものでした。マリナは,小さなグループが町で活動を始めた時,地元の司祭,“モンシニョール”グラナディーリョが人々に警告するためスピーカーを据え付けたことを覚えています。「黄熱病がティナキーリョにやって来た! この人たちの言うことを聞いてはいけない。町とあなたの宗教を守りなさい。聖なる三位一体の玄義を守りなさい」と,司祭は叫びました。マリナは司祭を訪問することにしました。それで司祭の家に行って,帰りを待ちました。

姉妹は司祭に挨拶して,こう言いました。「私は今朝あなたが苦情を訴えた“黄熱病”の一人です。わたしたちがエホバの証人であることをはっきりさせておきたいと思いました。わたしたちは,神の王国についての大切な音信を宣べ伝えています。教会は,その音信を宣べ伝えるべきですが,そうしていません」。姉妹は勇敢にも司祭に自分の聖書を持ってきてくれるよう頼み,エホバが「ご自分のみ名のための民」を取り出されることを予告した,使徒 15章14節の聖句を見せました。すると司祭の態度が変わりました。司祭は申し訳なかったと述べ,あなたたちがどんな人かを知らなかったと言いました。だれもが驚いたことに,司祭は姉妹が招待した公開講演に出席しました。この後,司祭は中央広場で何度か雑誌を受け取りました。このことを見ていたほかの人たちは,それに励まされて雑誌を受け取りました。1995年の時点で,ティナキーリョには四つの会衆があり,合計385人の伝道者がいました。

聖書の真理の種はマラカイでよく育つ

バルキシメトとバレンシアに遣わされた宣教者に加えて,1950年に到着した宣教者の一部はマラカイに注意を向けたことを覚えておられることでしょう。マラカイはベネズエラで5番目に大きな都市です。カラカスから南東にほんの120㌔ほどの距離にあって,バレンシア湖の東岸に位置し,丘に囲まれています。

マラカイに宣教者が到着したため,この都市でも集会を開けるようになりました。その当時,宣教者のグループは独身の兄弟たちで構成されていました。しかし,オーストラリア生まれの宣教者,リーラ・プロクターが1958年に到着したころ,集会には12名から20名が出席していたものの,バプテスマを受けた兄弟はマラカイにたった一人しかいませんでした。それはキース・グレッシングという兄弟で,妻と共にギレアデ学校を1955年に卒業していました。兄弟たちが足りなかったため,様々な面で姉妹たちの助けが必要でした。プロクター姉妹は思い出をこう語ります。「わたしたち姉妹は,奉仕会のプログラムを扱い,会計や文書や雑誌の仕事を手伝いました。任命地に着いてから5か月後には,書籍研究を司会するように割り当てられました。最初,その群れには不活発な伝道者一人と私しかいませんでした。集会はろうそくの明かりのもと,土間になっている家で開かれました。私のスペイン語はひどいものでしたが,ほどなくして出席者が非常に増え,居間も,台所も,中庭もすっかりいっぱいになりました。それはエホバの聖霊によるものとしか言いようがありませんでした」。

マラカイでは,エホバを知り,エホバに仕えたいとの強い願いを表わした人が非常に多く,1995年の初めには,この都市に30の会衆があり,伝道者は合計2,839人いました。

『もしそれが本当だったら,お前を撃ってやる』

マラカイで関心を示していた人の中に,アルフレド・コルテスの妻マリアがいました。ジョイス・グレッシングはマリアと6か月聖書を研究しました。その後のある日,夫が帰宅して,この外国人,つまりアメリカ人女性が妻を訪問しているところを見つけました。夫は妻に,これは一体どういうことなのかと尋ねました。妻は説明の手段としてジョイスから受け取って持っていた雑誌を渡しました。その雑誌の中には,心霊術について,ばら十字会の神秘思想と結びつけて説明した記事がありました。夫はその信仰に関係していたので,その記事を興味深く読みました。

その人が雑誌に関心を示したことが妻を通してグレッシング姉妹に伝わると,宣教者の夫キースがコルテス氏を訪問する取り決めが設けられました。訪問がなされ,聖書研究が始まりました。幾分時期尚早ではありましたが,わずか3週間後に宣教者は,私と一緒に家から家の業を行ないましょうと,コルテス氏を誘いました。コルテス氏はその業に参加して,大いに楽しみ,16冊の雑誌を配布しました。大喜びしたコルテス氏はその晩,エホバの証人ではない友人と出かけて成功を祝い,酔っ払って午前3時に帰宅しました。

次の日,コルテス氏はそのことを後悔し,『エホバにふさわしい仕方で仕えるか,そうでなければ以前の生き方に戻ってしまうかだ』と考えました。説得を受けた末やっとのことで,聖書研究を続ける気持ちになりました。コルテス氏は以前の生き方を徐々に捨て,進歩して1959年にバプテスマを受けました。

その2週間後,アルフレドの娘の一人の名づけ親である大佐が激怒して会いに来ると,彼の胸に拳銃を突き付けて,こう脅しました。「お前がエホバの証人になったと聞いたが,それは本当か。もし本当だと言ったら,お前を撃ってやる」。アルフレドは平静さを失うことなく,その通りであると述べ,その理由を説明しました。大佐はあきれかえって,拳銃をしまうと,自分はもう娘の名づけ親とは思わないと言い残し,足音をたてながら帰って行きました。アルフレドは,エホバの霊の助けをいただいたことと,どんな人にも熱心に証言したこととのおかげで,真理を知ってエホバに献身するよう89人の人を援助することができました。現在はバルキシメトの近くのカブダレで長老として奉仕しています。また,息子の一人は特別開拓者として,娘のカロリーナは夫と共に支部で奉仕しています。

注意してください,カーニバルの時期です!

ベネズエラのカーニバルはパーティーを開いたり,きれいに着飾ったりする時,そして水を掛ける時です。特に子供たちは,怪しまずに通行する人をずぶ濡れにして面白がります。カーニバルの週の月曜日と火曜日に通りを出歩くのはたいてい賢明なことではありません。

「私は警告に耳を貸しませんでした」と,リーラ・プロクターは認めます。「マラカイに行った最初の年のことです。私はどんなことがあっても聖書研究は司会しようと考えました。確かに研究の司会に行ったことは行ったのですが,頭の上からバケツ1杯の水を掛けられ,びしょびしょになって最初の研究の場所へ到着しました。2番目の研究の場所まで,部分的に乾いた状態で歩いて行きましたが,途中でバケツ2杯の水を掛けられてしまいました。着いたときにはずぶ濡れでした」。他の宣教者たちにも同じような話があります。

キンタルスにあるカラカスの宣教者の家にいるリーラは,今ではカーニバルの時期になると予定を少し変更することにしています。

「神は私の心からの祈りを聞いてくださった」

アルフレド・アマドールがまだ幼いころ,父親は彼に星空を見せて,星座の名前を幾つか教えてくれました。そして,「神様がこれを全部お造りになったんだ」とよく言ったものです。しかしその父親は,アルフレドが10歳になる前に亡くなりました。当時,アラグア州トゥルメロに住んでいたアルフレドは,自分の宗教に関して疑問を抱くようになりました。司祭が亡くなった人のために祈る際に,お金を請求することや,富んだ人が貧しい人たちよりも早く自分の親族を煉獄から出してもらえるというのは正しいこととは思えませんでした。すっかり懐疑的になった彼は,酒に酔うことや,性の不道徳,暴力,麻薬の乱用に深くかかわるようになりました。そして,まいたものの結果を刈り取るようになると,逃れ道を探しました。その時,父親と一緒に天を見上げた時のことを思い出しました。

アルフレドはこう語ります。「ある日の午後,絶望の極みに達して,涙を浮かべながら神に,あなたを知ることができるようにしてくださいと祈りました。神は私の祈りを聞いてくださったようです。というのは,まさに次の朝,二人のエホバの証人が私の家の扉をノックしたからです。その後,興味深い話し合いが行なわれましたが,聖書研究には同意しませんでした。聖書を自分自身で読みたいと思ったのです。でも,王国会館に行くことには同意しました。私を訪問してくれた兄弟は,近くのカグアで行なわれた大会にも連れて行ってくれました。いろいろな話を聞いていて,これが真理だと分かりました。バプテスマ希望者が質問に答えるために立ち上がった時,私も立ち上がってしまいました」。

アルフレドは立ち上がった他の人たちが全員,会館の1か所にいたことに驚きました。それに対して,自分は別の場所にいたからです。でも,バプテスマを受けるため,自分もその人たちの列に並びました。すると,ある人がどこの会衆から来たかを尋ねてきました。アルフレドは会衆に名前があることさえ知らなかったのです。それですぐに,自分が本当はバプテスマを受ける準備ができていないことに気づきました。

それから間もなくアルフレドは,一緒に暮らしていた女性と結婚し,系統だった聖書研究を通して資格を身に着けると,兄弟たちに加わって戸口から戸口に証言するようになりました。そして妻と一緒に1975年にバプテスマを受け,今ではマラカイでクリスチャンの長老として奉仕しています。アルフレドは,神の新しい体制が到来したあかつきに父親が復活して戻って来るのを楽しみにしています。その時,兄弟は父親に,何年も前に自分に話してくれた創造者のお名前がエホバであることを伝えて,エホバをよく知るよう勧めることができるのです。

マラカイでの災害

1987年9月6日は,マラカイ地方に住む人たちにとって長く記憶に残る日となりました。豪雨のために洪水が起きて土砂崩れが発生し,何百軒もの家屋が流されたり完全に浸水したりしたのです。

マラカイに住む2,000人近い伝道者の多くは,大変災が襲った時には,地域大会に出席しており,戻ってみると,家や持ち物はなくなっていました。少なくとも160人が死亡し,数百人が行方不明になり,3万人が家を失いました。命を失ったり,重傷を負ったりしたエホバの証人は一人もいませんでしたが,合計114人の証人と聖書研究生が家を失い,着の身着のままの状態になりました。

兄弟たちは直ちに有能な救援委員を集め,食糧,医薬品,衣服,寝具といった,あふれんばかりの援助物資の管理に当たりました。こうした物資は,他の町や都市で安否を気遣っている仲間の証人たちから寄せられ,トラックで運ばれてきたもので,もうこれ以上必要ないというほど集まりました。担当の兄弟たちは,物資がエホバの証人や聖書研究生を十分顧みてもなお余るほどあることに気づくと,非常な苦境にある隣人たちにも食べ物や衣服を幾らか分けてあげました。兄弟たちの圧倒されるまでの寛大さや,援助の迅速さは本当に信仰を強めるものでした。

集まり合いたいという際立った願い

ベネズエラの人たちは確かに根っからの社交好きです。大人数で一緒に集まるのが大好きで,食事をしたり,パーティーを開いたり,浜辺や田舎に出かけたりします。エホバの組織に入ってきても,ベネズエラ人のこの気質はやはり際立っています。ベネズエラの人たちは大会が大好きです。一緒に集まれるなら,どんなに時間や費用がかかり,どんなに遠くて不便でもいとわない人が少なくありません。

1950年1月に,兄弟たちがマラカイボで二日間の大会を準備した時,非常に興奮を誘うことがありました。世界本部からノア兄弟とロバート・モーガンが出席することになったのです。ペドロ・モラレスは,教会の反対のために地元の新聞社から大会の宣伝の掲載を断わられたので,がっかりしました。しかし,兄弟たちが飛行機で到着する時が近づくと,別の方法を思いつきました。後にモラレス兄弟は,こう語っています。「私は会衆の子供全員が銘々花束を持って,空港に行くよう計画しました。空港にいた新聞記者たちは当然,興味をそそられて,だれか特別な人を待っているのかと尋ねてきました。子供たちは,あらかじめ注意深く指示を受けていて,『はい,ウルダネタ通り6番のマソニックホールという,警察署の隣の建物で講演会があるんです』と答えました。来訪する兄弟たちが到着すると,記者たちは写真を撮り,大会の情報が写真付きで新聞に載りました。宣伝してもらえたのです」。

さらに,公開集会の二日前,地元のラジオ局オンダス・デル・ラゴ(湖の波)は,この講演が行なわれることと講演がラジオで放送されることとを30分おきに発表しました。これは非常に良い結果になりました。大会に出席した132人のほかに,ラジオを聞いていた人が大勢いました。その年には伝道者の増加率が,ベネズエラで最高記録の146%になったのです。

多くの人の記憶に残っているもう一つの地域大会は,カラカスのヌエボ・シルコ闘牛場で1967年1月23日から27日にかけて開かれた大会です。これはベネズエラで初めての国際大会でした。聴衆の中には,ものみの塔協会の理事を含む外国からの代表者515人がいました。当時,聖書劇は大会の特色となるプログラムとしては新しいものでした。一つの聖書劇を監督したディア・ヤズベクは,こう語ります。「劇はかなりの印象を与えました。目新しさや劇に盛り込まれた教訓のためだけではありません。訪問した代表者たち500人がこの出来事を記録しようと躍起になってカメラのシャッターを押していたからです」。そのような国際的な集まりは人々の注意を引きました。当時ベネズエラにいたエホバの証人の数は5,000人にまでは至りませんでしたが,出席者は1万463人でした。続く3年間に,国内の活発な証人の数はそれぞれ,13%,14%,19%の増加を見ました。

関心を抱く人が,正式に聖書研究をしたり王国会館に来たりする前に,巡回大会や地域大会に出席するのは他に例のないことではありません。集まり合いたいというこうした願いは,1988年1月に際立った仕方で示されました。ブルックリン本部のドン・アダムズが地帯監督として訪問していた時のことです。バレンシアの闘牛場を借りて,2時間のプログラムが計画されていました。当時,ベネズエラには全国で4万1人の伝道者しかいなかったのですが,7万4,600人もの人がプログラムを聞きに来たのです。国内の最も遠い地方からも出席がありました。中にはバスで12時間以上もかけてやって来た出席者もいました。その人たちはプログラムが終わると再びバスに乗り込み,12時間の帰途につきました。しかし,笑顔をたたえ,陽気で,不平を言わないそのベネズエラの証人たちにとって,たとえ半日でも,これほど大勢の霊的な兄弟姉妹たちと一緒にいるのは,それだけ価値のあることだったのです。

音信はアンデスに伝えられる

アンデスの山岳地帯は北のベネズエラにまで延びています。アンデス地域の主な三つの都市は,メリダとサンクリストバルとバレラです。人々の生活の仕方や態度は海沿いの町や大都市地域とは著しく異なっています。

アンデスで地域監督として奉仕してきたロドニー・プロクターは,そこに住む人たちを観察してこのように述べています。「同じ国の人でも,見知らぬ人はしばしば外国人のように扱われます。教会は今でも強い影響力を及ぼしており,一般的に言って,王国の音信はすぐには受け入れてもらえません。特別開拓者の中には,ある町に引っ越したところ,街角で人にあいさつしたとき返事をしてもらえるようになるまでに丸一年かかったという経験の持ち主もいます。2年過ぎると何人かの人が聖書研究を始めることもありました。国内の他の場所とは違って,証人たちが訪問した時に人々が耳を傾けないのは,『近所の人たちはどう思うだろうか』という考えが妨げになっているからだと思われます」。

1950年代の初めごろ,カラカスの開拓者フアン・マルドナードがアンデスの様々な都市を訪れ,各都市に数週間とどまって,行く先々で宣べ伝えました。サンクリストバルの人たちの反応は最初は励みのあるものではありませんでした。マルドナード兄弟は率直な話し方で伝道したために何度か逮捕されました。

しかし,ある家族が真理に関心を示し,兄弟が滞在している間,週に数回聖書を研究しました。ところがその家族は親族や司祭から迫害され,とうとう母親のアンヘリーナ・バネガスは十分な仕事が得られないために一家を支えられなくなってしまいました。

ビン・チャップマンとパール・チャップマンは,バルキシメトで宣教者として奉仕した後,1953年12月にサンクリストバルに任命されました。アンヘリーナ・バネガスとその家族は,彼らをエホバからのすばらしい備えとして歓迎し,宣教者と共にすぐに奉仕を始めました。数か月後,母親はバプテスマを受けることを決意しました。宣教者の家の浴槽はとても大きく,アンヘリーナはとても小さかったので,ふさわしい施設を得るのに問題はありませんでした。

昼寝か救いか

チャップマン夫妻はミサエル・サラスとエデルミラ・サラスという非常に貧しい夫婦と研究を始めました。エデルミラは熱心なカトリック教徒でした。こう説明しています。「私の信心ぶりはこんな具合でした。妊娠中のある時のことです。神にたてた誓いを果たすために,裸足で一つの村から別の村へ巡礼の旅に出かけ,教会の入り口から祭壇までひざで歩いて行きました。それからまた,ずっと裸足で戻りました。そうするうちに私は具合が悪くなり,赤ちゃんを流産してしまいました」。

次の赤ちゃんが産まれたときには,ミサエルとエデルミラはチャップマン夫妻と聖書の勉強を始めていました。ある日赤ちゃんの具合がとても悪くなり,エデルミラは病院に連れて行くことにしました。家を出る前に,近所の人たちが赤ちゃんにすぐ洗礼を受けさせなさいと圧力をかけ,もし死んでしまったら,その子は埋葬してもらえず,リンボに行くことになるだろうと言いました。エデルミラは安全策を取ることにし,病院に行く途中で教会に寄って,赤ちゃんに洗礼を施してくれるよう司祭に頼むことにしました。

「私は正午ごろ到着したので,司祭は昼寝を邪魔されたことを快く思っていませんでした」と彼女は語ります。「司祭は,家へ帰って,出直して来るようにと言いました。私は司祭に言いました。『うちの子は死にそうなんです。あなたには,赤ちゃんをリンボから救うことより昼寝をし終えることのほうが大切なんですか』。司祭はしぶしぶ,もったいをつけて子供に洗礼を受けさせてくれましたが,助手の聖具室係を遣わしてそれを行なわせました」。

赤ちゃんは命を取り留めましたが,この出来事はエデルミラにとって転機となりました。これで教会にすっかり幻滅した彼女は,エホバの証人との聖書研究に真剣に取り組むようになりました。その後,彼女と夫はエホバの証人のいないコロンという町に引っ越しました。カシミロ・シートが巡回監督としてサンクリストバルを訪れた時,この宣教者夫婦はカシミロにエデルミラを訪問するよう頼みました。エデルミラはその訪問を本当に感謝しました。その機会にバプテスマを受けたのです。

エデルミラによる初めの努力のおかげで,コロンには現在会衆が一つあります。またエデルミラは,家族の引っ越し先のエルビヒアで業を始めるのを援助し,今ではそこにも三つの会衆があります。数年後には夫も,そして三人の娘たちもバプテスマを受けました。

司祭は暴力行為を促す

アンデスの別の小さな村で,ルイス・アングロは開拓者として奉仕していました。1985年のある日,家の外の騒々しい音に驚いた兄弟は,外を見て,玄関の近くにテーブルがあり,その上に“聖人”の像が置いてあるのを目にしてびっくりしました。いきり立った群衆が,エホバの証人は町を出て行けとわめき立て,家を焼き払ってやると脅しました。そして,「1週間の猶予をやるから町を出て行け」と叫びました。

アングロ兄弟はこう語ります。「一番良いのは町長のところへ行って助けを求めることだと判断しました。町長は同情的で,警察に首謀者たちを連行させました。町長は『だれがこんな事を計画したのだ』と尋ねました。彼らは結局,カトリックの司祭が計画したことを白状しました。司祭はミサの時に行なった説教の中で,エホバの証人は村の霊的な福祉を危険にさらしているという前提のもとに,私たちを町から追い出すよう教区民に勧めたのです。『その司祭は頭がおかしい! さあ,家に帰って,エホバの証人をそっとしておきなさい。さもなければ,あなたたちは皆,刑務所行きだ』と,町長は大声で言いました」。

それからほどなくして,その司祭は詐欺に関係していたことが見つかりましたが,そういう場合によくあるように,他の地域に移されただけでした。

変化した人

隣村のプエブロリャノでは,アルフォンソ・セルパという人物が非常に有名でした。政治に関係し,酔っ払いで,麻薬を使用し,たばこを吸い,女性を追い回し,大通り二つをバイクで乗り回して地元の人々から恐れられていたのです。しかし,1984年に真理の種がアルフォンソの心にまかれ,どんどん生長しました。アルフォンソは大きな変化を遂げて新しい人格を身に着ける必要があるということを理解し始めました。―エフェソス 4:22-24

アルフォンソが初めて公開集会に来た時,出席していたのは,特別開拓者たちを別にすれば自分だけでした。「皆はどこにいるんですか」とアルフォンソは尋ねました。彼だけでむしろ良かったと言えるでしょう。アルフォンソがあまりにも多くの質問を持っていたので,開拓者たちが聖書から答えているうちに真夜中になってしまいました。以来,アルフォンソは一度も集会を欠かしたことがなく,妻のポーラも一緒にやって来ました。アルフォンソは外見も生活も清めて,ついに伝道者になる資格を得ました。最初に奉仕した区域はプエブロリャノのあの同じ二つの大通りでした。礼儀正しく振るまい,スーツとネクタイにきちんと身を包んだアルフォンソはすばらしい証言をすることができました。アルフォンソと,彼が集会に連れて来て親友だと紹介したアルシデス・パレデスは,現在長老になっており,プエブロリャノ会衆で家族と共に奉仕しています。ポーラの親族で真理を知るよう助けられてきた人は20人余りに及んでいます。

結局,進歩の前に立ちはだかって越えられそうにないと思えた幾つかの障壁は克服され,1995年にはサンクリストバルに十の会衆が,メリダには七つの会衆が,バレラには四つの会衆がありました。アンデスの地域全体には小さな群れや会衆がさらに沢山あります。

クマナで男性が求められる

スクレ州の州都クマナ市は南米最古のスペイン人の都市です。クマナの人々に組織的な仕方で真理が伝えられたのは1954年,特別開拓者が到着した時でした。後に,宣教者のロドルフォ・ビテスと妻のベシーが援助に来ました。そのうちにロドルフォは巡回の業に任命されましたが,その前に,小さな会館を借り,掃除してペンキを塗り,野球場から捨てられていた古いベンチを回収して据え付けることが何とかできました。集まる場所ができたため,出席者数は急激に増加しました。もっとも,そのほとんどは女性と子供たちでした。

ペニー・ガベットとゴールディー・ロモシアンは,当時,クマナの宣教者のグループに任命されていました。二人はビテス兄弟が巡回の業のために去った後,指導の任に当たる男性がだれもいなかったことを思い出します。男性は全く来ようとしませんでした。ペニーはこう言います。「男の人たちはいつもこう言っていました。『わたしたちはその宗教がきらいだ。酔っ払うことも許されないし,浮気もできない。わたしたちの宗教は好きなことをやらせてくれる』。集会に70人から80人が出席するようになっても,男性は5人か6人で,わたしたち姉妹が時々集会を司会しなければなりませんでした」。

しかし,徐々に男性も出席するようになり,会衆内の責任を委ねることができるまでに進歩し始めました。小さな王国会館は間もなく,あふれんばかりになりました。換気が悪く,すし詰めになっていても,人々は出席するのをやめようとはしませんでした。宣教者たちは集会中,王国会館が蒸し風呂のようだと感じましたが,出席者は真理に対する愛に動かされ,2時間座って耳を傾けました。しばらくして,エホバが道を開いてくださり,新しい王国会館が建てられました。

クマナでの業は発展を続けてきました。1995年には,17の活発な会衆があり,良いたよりの伝道者が合計1,032人いました。

姉の足跡に従う

ペニー・ガベットが1949年にカリフォルニアの家を離れてギレアデ学校に行った時,妹のエロイズはわずか5歳でした。ペニーの行動はエロイズに強い印象を与えました。エロイズは,『大きくなったら私も宣教者になるんだ』と考えていたことを覚えています。1971年に,エロイズもギレアデを卒業して宣教者になり,クマナでペニーのパートナーとして割り当てられた時,二人とも大喜びしました。

現在は地域監督のロドニー・プロクターと結婚しているエロイズは,ペニーと一緒に奉仕した広大な区域のことを覚えています。そして,こう述べます。「姉と私はクマナで2年間奉仕した後,小さな町にもっと注意を向けることにしました。クマナコアとマリグイタールの町で働く許可を支部からもらって,丸一日,あるいは週末をそこで過ごしたものです。とても暑くて,おまけにどこへ行くにも徒歩で出かけなければなりませんでした。どちらの町にも,群れが設立されました」。

良いたよりは国境の町にも伝わる

ベネズエラの東部では,オリノコ川の南に広がる,森林に覆われた,こんもりとした丘陵地が台地に変わり,それが南のブラジルとの国境まで続いています。砂岩でできたこれらの印象的な台状地は,標高2,700㍍にも達します。この人口の希薄な地域はベネズエラで金とダイヤモンドの最も豊富な産地です。とはいえ,別の種類の宝がこの地域の小さな町々で見いだされています。それは,「あらゆる国民のうちの望ましいもの」という霊的な宝です。―ハガイ 2:7

1958年に,5人のエホバの証人から成るグループが小型飛行機でこの地域に行き,インディオの人たちに数百冊の雑誌を配布しました。それから約20年後,旅行する監督のアルベルト・ゴンサレスがプエルトオルダスの兄弟たちの一団とサンタエレナに行った時,1,000冊の雑誌が配布されました。当時,町には電気が来ていませんでしたが,一人の男性が発電機を貸してくれたのでスライドを上映することができ,500人の聴衆がそれを楽しみました。その後1987年に,二人の特別開拓者,ロドリゴ・アナヤとアドリアーナ・アナヤがカラカスから到着しました。

これらの地域には様々な宗教グループがすでに入っており,彼らの据えた土台の上にエホバの証人は建ててきました。カトリックとアドベンティスト派は,スペイン語を読んだり話したりすることをインディオに教えました。また,ヘオバという神のみ名を一貫して用いている,聖書のバレラ訳を持ってきました。

しかし,一部のインディオは,カトリック教会が聖書に書いてあることをそのまま教えていないことに気づくようになりました。例えば,一人のインディオの女性は,偶像に関する神の見方を学んだ時,激しい語調でこう言いました。「太陽崇拝やインディオの偶像は間違っていると言った当のカトリック教会の像だって神を喜ばせていなかったなんて,教会に行って司祭を棒でたたいてやりたいわ。だって,私こんなに長い間だまされていたのですもの」。その女性は,説得されて思いとどまりましたが,彼女はその地域の住民の多くが感じていたことを言葉に出していました。

ボリバル州南部のインディオはわたしたちの出版物が大好きです。自然を愛する人たちなので,神の創造物のフルカラーの絵に特に引かれます。出版物を配布する場面を見るのは興味深いことです。インディオは,本を手に取り,触り,においをかぎ,開いて,カラーのさし絵一つ一つにうっとりとして溜め息をつき,ペモン語で褒め言葉をつぶやきます。時には,とても意欲的になり,開拓者のカバンから出版物を取り出して家族の成員に配り始めることもあります。土地の人々は大変もてなしの精神に富んでいて,王国の音信を携えてくる人たちに食事を勧めることも少なくありません。

特別開拓者の到着後初めての記念式には80人が出席しました。現在そこには会衆があります。しかし,インディオの伝統が非常に根強く,進歩は遅々としたものでした。

アマゾンでの早い反応

ベネズエラのアマゾン地域は国の南部中央にあたります。コロンビアとの国境のすぐ近くにプエルトアヤクチョという小さな町があります。この町を取り囲む未開のジャングルには魅惑的な野生生物が棲み,数多くの滝があります。

1970年代に,巡回監督のウィラード・アンダーソンがプエルトアヤクチョを訪問しました。当時,そこには伝道者が7人しかいませんでした。アンダーソン兄弟はその区域の反応がすばらしいことを知りました。ある日,午前中だけで42冊の書籍を配布したのです。その群れは,スライドの上映のための椅子を並べる際に,20脚もあれば十分だと考えていました。ところがどうでしょう,うれしいことに222人がやって来たのです。プエルトアヤクチョには現在,80人以上の王国宣明者から成る活発な会衆があります。

スリアのゴアヒロ・インディオ

ベネズエラの西の端の方にスリア州があります。この地域の原住民はゴアヒロ・インディオです。ラボキータなど幾つかの場所のゴアヒロ・インディオは,支柱の上に建っている,葦のむしろの家に住んでいます。彼らの習慣や衣服は多彩です。男性は裸足で馬に乗ります。女性は,丈が長く,テントのような形をした多色の服を着ており,サンダルには羊毛の大きな玉房がついています。

羊のような気質を持った人たちが,これらゴアヒロ・インディオの中で見いだされています。聖書の音信に対する彼らの反応としては,最初からはっきり関心を示すことはまれです。キリスト教世界の宗教グループに利用されてきたためです。しかし,好意的な反応を示す人も中にはいます。

宣教者のフランク・ラーソンは,ゴアヒロ地方に協会の映画の一つを持って行きました。映画の上映は午後7時からと発表されていましたが,一人も来ませんでした。しかし,人気のあるサルサ音楽の傷物レコードをかけると,260人が集まり,映画を楽しみました。別の時には,巡回監督のマリオ・イアイッソの話を聞きに,600人以上が集まりました。

聖書の真理を熱心に伝えた移民

ベネズエラでは6人に一人が外国生まれです。特に1950年代には,ポルトガル,イタリア,スペイン,アラブ諸国から移民が大勢やって来ました。大抵の場合,ほとんど無一文で到着しましたが,長年の間に商売を繁盛させた人も少なくありません。これらの移民は大変な働き者で,生活は物質的な利益に対する関心で占められています。その結果,彼らに王国の音信を伝えるのは多くの場合,困難です。もちろん,他の南米諸国からの移民もおり,特にコロンビアからの移民が目立っています。

ここベネズエラで,非常に長い神権的奉仕の記録を持っているエホバの証人の中にビリウス・トゥマスがいます。この人はリトアニアで1923年にバプテスマを受けました。ヨーロッパでヒトラー政権の暗黒時代を生き残ったトゥマス兄弟は,第二次世界大戦後,ベネズエラに移り住みました。1993年に亡くなるまで,忠実に奉仕する点で立派な模範をラビクトリアの町の兄弟たちに残しました。兄弟はそこで会衆の長老として奉仕しました。

カナリア諸島出身のレミヒオ・アフォンソはベネズエラで旅行する監督として奉仕しています。この兄弟は他の移民たちと接してきました。そして,一つの家族の中で関心を示さない人がいても,別の成員は聖書の真理を熱心に聞く場合があることに気づきました。例えば,クマナで,ある事業を経営している,アラビア語を話す夫婦は耳を傾けようとしませんでしたが,娘は違いました。レミヒオはこう言います。「彼女は,聖書を持ってきてほしいと私に頼みました。私は持ってきてあげましょうと言いましたが,彼女は私が約束を守るかどうか疑わしいと思いました。日時を決め,私が忘れずに時間通りに到着したところ,彼女は感銘を受けていました。そして聖書と『とこしえの命に導く真理』の本を受け取りました。また,私の始めた研究を他の姉妹が続ける取り決めが設けられました。

「それから間もなく,グイリアにある会衆を訪問していた時,王国会館の向かいの店の入り口に一人の男性が座って緑色の表紙の本を読んでいるのを見ました。その男性は私にこちらに来るよう手招きしました。その人はアラビア語を話す人で,自分が読んでいる本がわたしたちのものかどうか尋ねました。その本はアラビア語でしたが,『神を真とすべし』であることが分かりました。男性の説明によれば,その本は故国で贈り物としてもらったもので,だれかに貸したり売ったりするつもりなどないということでした。彼がスペイン語も読めることを確認して,『真理』の本を勧めると,喜んで受け取り,研究が始まりました。その男性はその週の三つの集会に出席し,『ものみの塔』研究では注解もしました」。

それから2年後,マラカイでの地域大会で,カバンを持った一人の男性がアフォンソ兄弟にあいさつをして,私がだれだかお分かりになりますかと尋ねました。そして,「私はグイリアから来ました。バプテスマを受けて,今では自分で3件の聖書研究を司会しています」と説明しました。その翌年,コロンビアでの地域大会でアフォンソ兄弟がプログラムを扱った後,一人の若い女性が目に喜びの涙を浮かべて兄弟のもとに駆け寄り,私はクマナで証言をしてもらった少女ですと自己紹介しました。自分もバプテスマを受けた証人だということです。このような経験は確かに大きな喜びをもたらしてくれます。

外国から来てベネズエラを故郷とし,業の進展を目撃した人としてディア・ヤズベクの例もあります。ディアは両親や兄弟姉妹とレバノンの村や町で宣べ伝えたことを覚えています。父親がレバノンで1930年代に真理を受け入れたのです。ベネズエラに来てから2か月後に父親のミッチェルが亡くなったことは,ヤズベク一家にとって深刻な打撃でした。しかしディアはこう語ります。「母とわたしたち子供は,引き続き真理のうちにとどまり,カラカス北会衆の集会に出席しました。私は16歳でバプテスマを受け,開拓奉仕を始めました」。家が経済的に苦しくなったため,わずか3年で開拓奉仕を中断しなければなりませんでした。しかし,世俗の仕事として銀行業界で28年間働いた後,自分は妻や3人の子供や同居している母親に悪い影響を与えることなく退職できる立場にいると感じて,もう一度開拓者になりました。ヤズベク兄弟は現在,支部委員会の成員として奉仕しています。ほぼ40年に及ぶ過去を振り返って,ヤズベク兄弟が思い出すのは,1956年にベネズエラで行なわれた地域大会のことです。その時,出席者は初めて1,000人を超えました。「今では,地域大会の出席者は10万人を超えています」と,兄弟は言います。

旅行する監督による援助

1940年代の終わりごろ,つまり支部事務所にいたのはドナルド・バクスターだけで,しかも国内に全部で六つか七つしか会衆がなかったころ,バクスター兄弟は可能な時にこれらのグループを訪問しました。

しかし,21歳のルベン・アラウホは,1951年にギレアデから戻るとすぐに,国中の会衆や孤立した群れを訪問するように割り当てられました。その年に会衆の数は12に増えました。ルベンは,自動車を持っていなかったので,バスや公共のタクシーを使って移動し,田舎を訪問する場合,時には飛行機や小さなボート(チャラナス)を使いました。

アラウホ兄弟は,コロンビアの国境に近いタチラ州ルビオの近くに住む,「ものみの塔」誌の予約者を訪問した時のことを今でも覚えています。農場主は,私はスイス人でスペイン語は読めないと言いました。「でも,妻となら話ができるでしょう。妻は聖書が好きですから」と,その男性は言いました。ルベンはこう語ります。「奥さんは私と話してから,81歳になる母親を呼びました。母親は私が持っている本を見ると,この活動が『世々に渉る神の経綸』の本と関連があるのかと尋ねました。母親の目は輝き,興奮し始めました。そして,『あなたは,ラザフォード氏のことを知っているというわけですね』と尋ねました。娘は母親に代わってスペイン語に通訳してくれました。この年配の女性はドイツ語しか話せなかったからです。その母親は,1920年にその本を入手して以来,何度も読み返していたと言いました。また,『創造の写真劇』も見たことがあり,『現存する万民は決して死することなし』という講演も聞いていました。12年前,スイスからベネズエラに来た時に,エホバの証人との接触を失ってしまったのです。『あなた方に会いたくてしかたがありませんでした』と,彼女は言いました。そして,喜びを表わして王国の歌をドイツ語で歌い始めました。私も早速その歌声に加わって,スペイン語で歌いました。二人とも喜びの涙を流しながら歌いました」。

ギレアデ第19期卒業生のキース・ウェストとロイス・ウェストは巡回の業に15年間あずかりました。彼らの遭遇した状況は必ずしも楽なものではありませんでした。ポルトゥゲサ州モンテオスクロへの訪問は,そのよい例です。キースはこう語っています。「前の晩に降った激しい雨のために,車で行けると思っていたところまでたどり着けませんでした。それで,車を置いて,川まで歩いて行きました。靴を脱いで川の中を上流に向かって進み,山を登って小さな王国会館に着きました。だれの姿もありません。しかし,一緒に付いてきてくれた兄弟が,『心配しないでください。みんなやって来ますよ』と言いました。兄弟はすぐにタイヤの金属製ホイールをたたき,結局,約40人が来ました。私は,ズボンもほかのすべても濡れてどろどろのままで,話をしました。冷たい川,暑さの中の会館までの山登り,ズボンが濡れたままで話をしたことが重なったためと思われますが,痛みを伴う筋肉の病気になりました。その後しばらくの間,王国会館の演壇に上がったり下りたりするために助けてもらわなければならず,伝道の際にも頻繁に休憩を取る必要がありました」。

宿舎が一様でないことも旅行する監督にとっては大変な問題となる場合が少なくありません。水道がないことは珍しくなく,波形鉄板の屋根のせいで室温は摂氏30度から40度にもなります。窓の網戸やドアというものは事実上知られておらず,そのために部屋には,そして時にはベッドにも,その土地の動物や虫が入ってきます。ベネズエラ人の家族が楽しんでいる,ゆったりして開放的で社交的な生活様式は,もっとプライバシーのある生活に慣れ親しんできた外国人にとって時には調整を求められるものとなっています。しかし,ベネズエラ人の親しみ深さやもてなしは際立っていて,旅行する監督が到着した時に必ず受ける歓迎の言葉の中に,「ウステー・エスタ・エン・スー・カサ」(どうぞ楽にしてください)という表現があります。

協会の映画やスライドは,旅行する監督たちによりベネズエラ全土で上映されました。ベネズエラ人は大の映画好きです。ですから,巡回監督はいつも,満員の観客を期待することができます。床に座る人,屋内で立つ人,また外から窓越しに映画を見る人もいます。ある関心ある人はスクリーンにするために自分の家の壁を喜んで白く塗ってくれました。カルパノの近くの山間の集落で,ある友好的な店主は自分の発電機(数キロの範囲内では唯一利用可能な電力)から電力を供給し,また,自分の闘鶏場を観客席として使わせてくれました。それから店主は丘陵地に住んでいる人たちが下りて来るように打ち上げ花火を上げました。85人が下りて来ました。ロバに乗って来た人が大勢いました。それは異色のドライブイン・シアターでした。

マラカイボのグラディス・ゲレロは,旅行する監督の夫婦に特別な愛情を抱いています。旅行する監督の妻のナンシー・バクスターは,ある日プントフィホの町で若いグラディスと野外奉仕をしていて,グラディスに言語障害があることに気づきました。グラディスは,それが父方の家系からの遺伝であると説明しました。そのためにひどくからかわれていましたが,治すことができないでいたのです。ところが,バクスター姉妹が特定の単語を正しく発音する方法とそれを練習する方法を教えるために時間を充ててくれたので,本当に感動しました。「姉妹の辛抱は良い結果を生みました。今ではきちんと話すことができます」と,グラディスは言います。他の人たちもグラディスの霊的な成長に貢献しました。

エホバを信頼して開拓奉仕を行なう

現在ベネズエラには,1万1,000人以上の開拓者がいます。これらの人の多くは,全時間奉仕を行なっている他の人から優しく励まされた結果,開拓奉仕を始めました。

ペドロ・バレートは,そのような励ましを受けました。1954年に支部の監督が,他の3人の若い兄弟たちと一緒に特別開拓奉仕を始めるようペドロを招きました。ペドロは最年長の18歳でした。どうすべきでしょうか。「私は若くて経験も少なく,洗濯の仕方やアイロンのかけ方を知りませんでした。実際,入浴の仕方もほとんど知らなかったのです」と,ペドロは笑います。バプテスマを受けたのも,ほんの1年前でした。1時間くらい支部の監督と話をした後,ペドロは決心しました。4人の若い兄弟はトルヒーヨ州の州都トルヒーヨに任命されました。そこの人々は,特に当時は,伝統に縛られており,非常に宗教的でした。これら4人の開拓者は,そこで土台を据える業に大いに貢献しました。彼らが宣べ伝えた人々の中には,郵便局長やトルヒーヨ裁判所の判事など著名な市民も含まれていました。

ある日,中央広場で4人の開拓者は一人のカトリックの司祭と対面しました。その司祭は,国営新聞にエホバの証人に関する痛烈で中傷的な,また不正確な記事を書いたことでベネズエラでは有名な人でした。人々が集まって来ると,司祭は,この者たちの言うことに耳を傾けてはいけない,この者たちは町の平和を乱しており,皆を混乱させているからだ,と人々に言いました。司祭は群衆に,皆の信仰がカトリック教会に属していることを忘れないようにと勧告しました。ペドロはこう語っています。「混乱と騒ぎの中で司祭は,低い声で私に脅すようなことを言い,下品な言語を使いました。それで私は声を立てて人々に言いました。『この人がたった今言ったことが聞こえましたか。……しかも,この人は司祭なんですよ』。そして彼が私に言ったことを幾つか繰り返しました。すると司祭は歯を食いしばりながら,『とっとと消え失せろ。さもないとここから蹴り出してやる』と言いました。そこで私は司祭に,あなたの足を使う必要はないでしょう,と言いました。私たちは立ち去るつもりでした」。

この事件は先に述べた判事の耳に入りました。判事は開拓者たちを褒め,彼らが行なっている業にたいへん感心していると言いました。これら4人の勇敢な若者が宣べ伝えた真理の音信は,トルヒーヨに根を下ろし,1995年には市内に二つの会衆がありました。そのうえ,周囲の町や村にも大抵,会衆や群れがありました。

ペドロの妹のアルミンダ・ロペスは,1950年代の終わりごろ,他の3人の姉妹たちと一緒にサンフェルナンドデアプレで開拓奉仕を行なっていた間,エホバが王国を第一に求める者たちに約束しておられる通りのことをしてくださり,生活に必要な物をいつも備えてくださったことを覚えています。(マタイ 6:33)ある月のこと,特別開拓者の払い戻し金が,期待していた時に届かず,しかもお金がなくなっていました。食料品を入れる戸棚は文字通り空っぽでした。おなかがグーグー鳴るのを忘れるために早めに床に就くことにしました。午後10時に,だれかが玄関のドアをノックする音が聞こえました。窓から外を見ると,聖書研究をしている男性が見えます。その男性は遅い時間に訪問したことをわび,ちょうど旅行から帰ってきたところで,彼女たちが使えそうなものを幾らか持ってきたと言いました。それは,箱いっぱいの果物や野菜や他の食料雑貨でした。床に就くことなどすっかり忘れてしまい,台所はにわかに慌ただしくなりました。「その晩に来てくれるようその男性を動かしたのはエホバに違いありません。次の日に研究をすることになっていたので,どうしてもその晩に来なければならなかった訳ではないからです」と,アルミンダは言います。アルミンダは今でも正規開拓者として奉仕しており,現在はカビマスにいます。

熱心な開拓者の間では,大きすぎるように思える問題はほとんどありません。年齢,体の不調,家族からの反対も,必ずしも乗り越えられないような障害とはなりません。開拓者の隊伍の中には,確かに若い人たちがいます。1995年の初めには12歳から15歳の正規開拓者が55人いました。しかし,若者が奉仕のこの分野を独占しているというわけでは決してありません。エホバの証人ではない夫を持つ大勢の姉妹たちは,朝早く起きて食事を準備したり子供たちの世話をしたり家事をこなしたりして,妻としての責任をおろそかにすることなく,野外奉仕のために群れと集まったり,聖書研究を司会したりしています。

家族を持つ既婚の兄弟たちも自分の活動を簡素化し,開拓者の予定を上手にこなしています。ダビード・ゴンサレスは若い独身のころ,1968年に開拓者としての生活を始めました。その後,子供ができるまで,妻のブランカとともに特別開拓者として奉仕しました。現在兄弟と妻と娘一人は正規開拓者です。ダビードは3人の子供を養う責任を担うと同時に,長老であり,定期的に代理の巡回監督として奉仕しています。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。兄弟は不必要で余分な物を持たないようにし,良い計画を立てることによってできたと言っています。また,妻の十分な協力もあります。

それから,人生のたそがれの時期になって状況が変化し,開拓奉仕を始めることを考えられるようになった人たちもいます。これらの人たちの中には,子供たちが成人に達した人や世俗の仕事を退職した人たちが含まれています。また,エリザベト・ファッスベンダーのような人もいます。1914年生まれのエリザベトは,戦後のドイツでバプテスマを受け,1953年に未信者の夫と共にベネズエラに移民してきました。1982年に夫が亡くなるまでの32年間,厳しい反対を耐え忍びました。72歳で,エホバに一層十分に仕える道が開かれて,正規開拓者になるという長年の念願が実現したのです。

ベネズエラで開拓者精神が盛んなことの一因は疑いなく,大半の兄弟たちの生き方が,総じて物質主義的ではないということです。家に豪華なものを置いたり費用のかかる休暇のためのお金をもうけたりするための,絶えざる苦闘にのめり込んだりしている人はめったにいません。こうした余分な財政的責務がないために,エホバの民のかなり多くの人が,開拓者の特権をとらえるのは難しくないと感じています。

産出的な畑が耕されている

ベネズエラ人は全体的に,寛容で,聖書に敬意を持ち,ごくわずかな例外を除いて,神を信じると公言します。過去幾年もの間カトリック教会が維持してきた完全な支配は弱まり,大勢の誠実な,しかし不幸な教区民はどこかほかの所に目を向けて自分の霊的な必要を満たそうとしています。教会が政治に関与していることや,時々明るみにでる司祭の悪行の事例は,教会に対する支持を回復する点では何の役にも立っていません。

明らかに,こうした要素すべてが幸いして,この国では聖書研究を始めるのが比較的容易になっています。1995年8月には,ベネズエラの7万1,709人のエホバの証人が,家庭での聖書研究を11万件余り司会していました。定期的に宣べ伝え,示された関心をさらに高めようと良心的に励む伝道者にとって進歩的な聖書研究を始めるのは難しいことではありません。一般的に言って,研究生は集会に出席し,エホバの義にかなった要求に従うために急速な変化を遂げます。

1936年当時,ベネズエラで活動を報告していた良いたよりの宣明者はわずか二人でした。1980年に伝道者数は1万5,025人になりました。それから15年後,王国宣明者の合計は7万1,000人を超えています。1980年には全国の会衆の数はわずか186でした。それが今では937になっています。そしてエホバを愛し,エホバに仕える人の数は増えつづけています。

建てる時

近年,伝道者の増加が著しいため,王国会館は多くの場合,集会に出席する人を収容するには手狭になっています。地価は,特に大都市の旧市街地では,手が届かないほど高いものです。カラカスでは,現在140の会衆があり,土地が異常に高価なため,あふれんばかりの大きな会衆が五つも同じ施設を共有していることも珍しくありません。このため日曜日になると,近所の人にとって興味深い光景が繰り広げられます。一つの会衆が集会を終えて人がぞろぞろと出て来ると,次の会衆が入って行き,兄弟姉妹たちがあいさつを交わして,絶え間なく握手したりキスを交わしたりしているからです。集会中,多くの人は立っていなければならず,換気も大抵は良くありません。王国会館を増やす必要は非常に大きく,ベネズエラの中心となる王国会館基金の援助を得て,この必要に対処する努力が開始されています。

兄弟たちが,資力の限られている中から寛大にこたえ応じたために,ミランダ州クアにベネズエラで最初の大会ホールを建設することができました。建設委員として奉仕したディア・ヤズベクが詳細を幾らか語ってくれます。「クアのホールの建設は,始まって1年たってから幾つかの問題にぶつかりました。骨組みができていて,さらに多くの仕事が途中のままで資金不足になったのです。1982年10月12日に私たちは地元の長老と奉仕の僕たちと会合して状況を説明し,会衆の兄弟たちに打診していただきたいと頼みました。その結果,たいへん驚いたことに3か月後には150万ボリバルの寄付が集まったのです。当時としてはそれはかなりの額でした。これによって工事は完成し,空調設備や快適な座席も設置できました。このホールは,現在そこを使用している11の巡回区にとって本当に祝福となってきました」。ベネズエラには現在二つの大会ホールがあり,もう一つはヤラクイ州エリアス平野にあります。

良くなった支部施設

支部の業務は現在,6人の円熟した兄弟たちから成る委員会によって監督されています。その6人とは,テオドロ・グリーシンガー,キース・ウェスト,ステファン・ヨハンソン(現在の支部委員会の調整者),エドワルド・ブラックウッド(4人の地域監督の一人としても奉仕している),ディア・ヤズベク(正規開拓者で所帯持ち),ラファエル・ペレス(巡回監督)です。

野外での業が成長するにつれ,支部の施設を拡張することも必要になってきました。ノア兄弟とヘンシェル兄弟が1953年11月にベネズエラを訪れた時,ノア兄弟は,宣教者の家と支部事務所のために協会が不動産を購入するのは良いということを指摘しました。カラカスのラスアカシアスの閑静な住宅街に新しい2階建ての大きな家が見つかりました。支部と宣教者の家族は1954年9月にキンタルスに引っ越し,支部はそこで22年間機能しました。

王国伝道者の数が1万3,000人を超えた時,支部は再び移転しました。今回の新しい建物はアラグア州ラビクトリアという近くの町にありました。この新しくて立派な建物群は以前の支部とは比較にならないほど大きかったので,それが最大限使用されるところを想像するのに困難を覚えた人もいました。しかし1985年には,それまでの部分がすでに手狭になっていたため,増築部分が完成し,献堂されました。

数年の間に支部は再び狭くなり,1989年に,新しい支部の建設用地として一等地が14㌶購入されました。準備工事はすでに完了しており,新しい施設が遠からず完成されるものと思われます。

「だれでも渇いている者は来なさい」

使徒ヨハネが啓示の書の筆記をもう少しで終えるという時,イエス・キリストはヨハネが次の言葉を含めるようにされました。「霊と花嫁は,『来なさい!』と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,『来なさい!』と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」。(啓示 22:17)その親切な招待はベネズエラで今や70年ほど人々に差し伸べられてきました。かつてなかったほどの勢いで全国津々浦々に伝えられており,良い成果が上がっています。

犯罪の増加のために業の速度が落ちることはありませんでした。ほとんど例外なく,家やアパートの玄関には鉄の棒が渡してあり,時として太いチェーンや大きな南京錠がこれみよがしに付いていることもあります。白昼でさえ,強盗に遭う危険は絶えずあります。カラケニョ(カラカスの住民)は特に,街路では金の装身具や高価な腕時計を身に着けないよう注意しています。不用心な旅行者はしばしば強盗の標的になります。市内の貧しい人々の住む地域で宣べ伝えるときは,兄弟たちは非常に用心する必要があります。一般に,エホバの証人は尊敬されています。しかしながら,伝道者の一団が全員銃を突き付けられて,腕時計やお金や宝石を巻き上げられたことがあります。しかしこうした危険な地域の兄弟たちの熱意は影響を受けることなく,徹底的な証言が行なわれています。

良いたよりが辛抱強く,また粘り強く宣べ伝えられた結果,様々な種類の人々が益を受けてきました。マラカイボのある技術者とその家族は,隣の友好的なエホバの証人の家族が聖書について話し合おうとしても頑として応じず,14年間二つの家族の間の会話は儀礼的なあいさつ以上には進みませんでした。その後,1986年のある日,証人の家族の5歳になる息子が,隣の家の小さな女の子に塀越しに話をしました。会話の終わりに男の子は言いました。「僕の父さんが君の父さんに『創造』の本をあげたら,君の父さんだってエホバが僕たちを造ったことが分かるのに」。次の朝,男の子の父親は,もう一度隣の人に近づくことをエホバが多分望んでおられるのだろうと思って,隣の家に行き,子供たちが交わした会話について話しました。「それで息子に代わって,この『創造』の本をプレゼントさせていただければうれしく思います」と言いました。兄弟が驚いたことに,その二日後,この夫婦は証人の家に来て,今までの頑固な態度を許してほしいと言い,すばらしい本に対する感謝の言葉を述べました。聖書研究が始まり,この夫婦と年長の子供二人は今では献身しバプテスマを受けたエホバの証人となっています。

バルキシメトでのこと,アナはエホバの証人が戸口に来ると,いつも追い返していました。この人はマリア・リオンサ教の帰依者で,敬虔な信者として心霊術的な慣行に関係していました。しかし,自分を束縛するこうした事柄から逃れたいと強く願い,生き方を変えられるよう助けてください,と神に祈り求めました。その後間もなく,エホバの証人のエスター・ヘルマノスが戸口を訪れました。アナは,自分の祈りと証人の訪問の間には何か関係があるのではないかと思わずにはいられませんでした。定期的な聖書研究を受け入れ,集会に出席し始め,さっそく不道徳な借家人に出て行ってほしいと告げ,家から心霊術に関係した物品をすべて処分し,1986年にエホバに献身して,ついに,真理のみがもたらすことのできる自由を経験しました。

エルナンが属していたグループは,心霊術的な事柄を慣行にし,性の不道徳を容認できるものとみなし,「霊を強める」ためだと言って宗教的儀式の間にアルコール飲料をかなり使用していました。エルナンはまず王国会館に行って,話される事柄を聞き,その足で教会に行って同じような話をしていました。しかし,ある大会に出席してからは,自分が学んでいる事柄をもっと真剣に考えるようになりました。その後,1981年のある日曜日に教会に着いてみると,霊的な母と呼ばれる人が口から泡を吹いていました。他の人たちはエルナンに,あの人は悪魔サタンにとりつかれているのだと言いました。それで二度と教会へは行きませんでした。そして翌年にはエホバの証人の一人としてバプテスマを受けました。エルナンと妻と長男は現在,正規開拓者です。

マルティネス家は崩壊寸前でした。離婚だ,という脅しの言葉が絶えず飛び出す有様で,子供たちは自分たちの目的のためにその状況を利用していました。妻は必死で慰めを求めるうちに,以前聖書について話してくれたエホバの証人を捜し出し,夫の知らないうちに研究を始めました。一方,夫は仕事場で秘書から証言を受け,一人の長老が研究を司会する取り決めが設けられました。ほどなくして夫は聖書研究から学んだ事柄を妻にも伝えようと決意しました。妻もエホバの証人と聖書を研究しており,別の王国会館で集会に出席していたことを知って,本当に驚きました。それ以来,家族そろって聖書を研究し,集会に出席することは,いつものこととして家族生活の一部となりました。崩壊寸前だったその家族は,今では喜びつつ一致してエホバに仕えています。

ベアトリスの生涯の夢は聖書を理解することでした。結婚して夫と共にカラカスに引っ越し,そこで上流社会の仲間入りをしました。首都であるその都市で彼女は,教会の基本的な教えに同意できなくて司祭をやめた老人と親しくなりました。ある時その老人は,「唯一の有効なバプテスマは,エホバの証人が行なっているような全身の浸礼だ」と言いました。数年後,離婚したベアトリスは一身上の問題に直面して苦しんでいました。そして絶望のあまり神に祈りました。特にある晩,1984年12月26日に,何時間も祈りました。翌朝,ドアのベルが鳴りました。ベアトリスがいらいらしながら,アパートのドアののぞき穴から外を見ると,カバンを持った二人の人が立っていました。起こされたことに憤慨していたので,メードを装ってドア越しに,「奥様は外出中で,私ではドアを開けられません」と言いました。二人は立ち去る前に,ビラをドアの下に押し込みました。拾ってみると,「聖書に親しんでください」とありました。元司祭の老人の言葉が思い出されました。訪問してきたこの人たちが,老人の話していたエホバの証人なのだろうか。彼らが訪問してきたことは昨晩の祈りと関連があるのだろうか。ドアを開けましたが,二人はいません。ベアトリスは階下にいる二人を呼び戻し,最初の反応を謝罪して,家の中に招き入れました。すぐに聖書の研究が始まり,しばらくしてベアトリスは,エホバのクリスチャン証人としてバプテスマを受けました。うれしいことについに長年の念願を果たしたベアトリスは,今では聖書に親しむよう他の人を助けることに多くの時間を費やしています。

エホバの祝福により,諸会衆は急速に成長しています。王国会館はすし詰めであふれんばかりの状態です。新しい会衆が設立されています。王国宣明者の数も,全時間の奉仕者の隊伍も増加しています。記念式や大会に大勢の人が出席していることは,この事物の体制が終わる前に,さらに多くの人がわたしたちに加わってエホバを崇拝するようになることを示しています。

エホバの証人は,ベネズエラの都市や村や山地における証言を強化し,際立った結果を見るとき,使徒パウロの次の言葉を思い出します。「大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです」― コリント第一 3:7

[186ページ,全面図版]

[194ページの図版]

ルベン・アラウホ,ベネズエラ人として最初にバプテスマを受けてエホバの証人になった人の一人

[199ページの図版]

アイネズ・バーナム,ルビー・ドッド(現在はバクスター),ディクシー・ドッド,レイチェル・バーナムは1949年にニューヨークをたった。出港前は全員が元気そのものだった

[200,201ページの図版]

ベネズエラの野外で長年奉仕してきた宣教者の一部: (1)ドナルド・バクスターとルビー・バクスター,(2)ディクシー・ドッド,(3)ペニー・ガベット,(4)リーラ・プロクター,(5)ラグナ・イングワルドセン,(6)マービン・ウォードとエブリン・ウォード,(7)ビン・チャップマンとパール・チャップマン

[207ページの図版]

キンタルス

[208ページの図版]

上: ミルトン・ヘンシェルが1958年にクラブ・ラス・フエンテスで開かれた大会で話しているところ

下: ネイサン・ノア(左)と,通訳のテオドロ・グリーシンガー,1962年

[227ページの図版]

1988年,7万4,600人を超える人が特別プログラムの行なわれるバレンシアの闘牛場に詰めかけた

[236ページの図版]

巡回監督,あるいは地域監督として奉仕した人たちの一部(妻とともに): (1)キース・ウェストとロイス・ウェスト,(2)アルベルト・ゴンサレスとスーライ・ゴンサレス,(3)カシミロ・シート,(4)レスター・バクスターとナンシー・バクスター,(5)ロドニー・プロクターとエロイズ・プロクター,(6)レミヒオ・アフォンソ

[244ページの図版]

開拓奉仕の長い記録を持つ人たちのごく一部: (1)ディリア・デ・ゴンサレス,(2)エミリオ・ヘルマノスとエスター・ヘルマノス,(3)リタ・ペイン,(4)アンヘル・マリア・グラナディーリョ,(5)ナイーベ・デ・リナレス,(6)イルマ・フェルナンデス,(7)ホセ・ラモン・ゴメス

[252ページの図版]

上: ラビクトリアの支部事務所

支部委員会(左から右へ): ディア・ヤズベク,テオドロ・グリーシンガー,ステファン・ヨハンソン,キース・ウェスト,エドワルド・ブラックウッド,ラファエル・ペレス