覚えていますか
覚えていますか
「ものみの塔」誌の最近号を味わいながらお読みになりましたか。では,以下の質問に答えられるかどうかを確かめてみましょう。
● ドイツの連邦憲法裁判所は,宗教に関するどんな法的勝利に貢献しましたか。
この裁判所は,別の裁判所が下した,エホバの証人についての,またエホバの証人を公法上の法人として認可することについての否定的な判決を覆しました。本件勝訴判決は,人が国家の要求より「宗教上の信条に従順である」としても,それは宗教の自由の範囲内のものであると述べました。―8月15日号,8ページ。
● ヨブはどれほどの期間,苦しみを受けたのでしょうか。
ヨブ記は,ヨブが多年にわたって苦しみを受けたというようなことを指し示してはいません。ヨブの苦しみとそれからの解放は,数か月ほどの内,長くても1年以内ではなかったかと考えられます。―8月15日号,31ページ。
● 悪魔は単なる迷信ではない,となぜ確信できますか。
イエス・キリストは悪魔が現実の存在であることを知っていました。イエスは,実在者から誘惑されたのであって,自分の内にある何らかの悪に誘惑されたのではありません。(マタイ 4:1-11。ヨハネ 8:44; 14:30)―9月1日号,5,6ページ。
● 箴言 10章15節は,「富んだ人の貴重なものはその強固な町。立場の低い者たちの滅びはその貧しさである」と述べています。この言葉はどのように真実となっていますか。
防備の施された町がそこに住む人々にある程度の安心感を与えるのと同じように,富は生活上の不測の出来事に対してある程度の保護となることがあります。一方,貧しさは,予期せぬ事態が生じたときに破滅の原因となる場合があります。―9月15日号,24ページ。
● どのような意味で,エノシュの時代に「エホバの名を呼び求める」ことが始まりましたか。(創世記 4:26)
神の名は人類史の最初から使われていましたから,エノシュが生きている時に始まったのは,信仰のうちにエホバを呼び求めることではありませんでした。人々は冒とく的な仕方でエホバのみ名を自分自身や他の人間に用い,そのような人間を通して神を崇拝するふりをしたのかもしれません。―9月15日号,29ページ。
● 聖書で用いられている「懲らしめ」という語は,何を意味していますか。
この語は,いかなる虐待や残虐行為をも意味するものではありません。(箴言 4:13; 22:15)「懲らしめ」に相当するギリシャ語は,主として教訓,教育,矯正のことを述べており,毅然としていながらも愛のある懲罰のことを指すときもあります。親がエホバに見倣える肝要な方法の一つは,子どもとの意思疎通の道をいつも開いておくよう努めることです。(ヘブライ 12:7-10)―10月1日号,8,10ページ。
● 今日,真のクリスチャンは,神の支配に従っていることをどのように示しますか。
エホバの証人は,神の王国を唱道するにあたって,政治にかかわることも,反抗を扇動するようなこともありません。証人たちの活動が禁令下に置かれている国々においても同じです。(テトス 3:1)エホバの証人は,イエスや初期の弟子たちが行なったと同じようにして,建設的な仕方で社会に貢献し,人々が正直さ,道徳的な清さ,方正な職業倫理など,健全な聖書の価値規準を生かすことができるようにと努力しています。―10月15日号,6ページ。
● 命を与える水は,どのようにアンデスで流れていますか。
エホバの証人は,この地方の二つの言語であるケチュア語やアイマラ語によっても,聖書の真理を人々に伝えるよう努力しています。証人たちは,チチカカ湖の幾つもの島 ― 湖に生える葦を台として作られた“浮島”を含む ― に住む人々を訪ねています。―10月15日号,8-10ページ。
● 神は,現代の旅客機のコンピューター誘導装置にも例えられる,どんなものをわたしたちの導きとして備えましたか。
神は人間に,道徳上の導きを与える能力,つまり内的な道徳感覚を備えました。それは,わたしたちが受け継いだ良心のことです。(ローマ 2:14,15)―11月1日号,3,4ページ。
● イエスの死に大きな価値があるのはなぜですか。
完全な人間アダムは罪をおかしたとき,自分自身に関しても子孫に関しても,人間としてもともと持っていた命を失いました。(ローマ 5:12)完全な人間であったイエスは,ご自分の人間としての命を犠牲にすることで贖いを備えられ,その贖いによって忠実な人間は永遠の命を得ることができるようになります。―11月15日号,5,6ページ。
● コロサイ 3章11節に出てくるスキタイ人とは,どんな人たちですか。
スキタイ人とは,西暦前700年から300年ごろユーラシアの大草原を支配していた遊牧民族です。その人々は,恐るべき馬術家また戦士でした。コロサイ 3章11節は,特定の民族を指していたのではなく,最も野蛮な人々という意味合いを伝えていたのかもしれません。―11月15日号,24,25ページ。
● 黄金律の教えにいつも注意を払うべきであると言えるのはなぜですか。
この倫理的行動原則は,ユダヤ教,仏教,ギリシャ哲学,儒教でも説かれています。とはいえ,イエスが山上の垂訓で指示された事柄は,積極的な行動を求め,あらゆる場所の,あらゆる年齢層の人の生活に影響を及ぼします。(マタイ 7:12)―12月1日号,3ページ。